翌日の午前九時半すぎ、和香奈は秋人を送り出すと一階のクリーニングサービスにワイシャツを受け取りに行き、ついでに『狸穴ヒルズ』の住人だけが利用できる中庭のラウンジでひと休みした。
アイスグリーンティーを飲んで、昨夜の秋人の話を思い出して溜め息を吐いた時に、声をかけられた。
「こちらの席、空いてる、あるか?」
見ると、黒いチャイナ服に金縁の眼鏡、金のブレスレットをした男が笑みを浮かべていた。
「あ、もう帰りますから、どうぞ」
黒いチャイナ服の怪しい男は椅子にかけながら言った。
「ふむ、あなた、新婚さんあるね、しかし、夫と意見食いちかうとこある」
和香奈は驚くと共に、不気味に思った。
「何なんですか?」
「私、有名な占い師あるね、昼飯すきから、店開けるね。社長、政治家、芸能人、コキフリみたいソロソロ来るね。秘密たけと、この前も総理たいちんがそうたん来たあるよ」
「あ、週刊誌で読みました、裸の殿様の総理が狸穴ヒルズの占い師に会って、ようやく辞職したとか、あれはあなたでしたか」
占い師はうなづいて言った。
「店たと1時間百万ね、てもあなた、こきんしょたから、30分40万にまけとくあるよ」
和香奈は断ろうとする。
「でも、私、あまり時間がないんです、梅さんがいるので」
「わかった、ては、10分10万」
和香奈はなぜかひきこまれるように「お願いします」と夫のことを相談した。
「どうしたら、私は秋人さんともっとうまくゆくでしょうか?」
占い師は竹ひごをさばいて分けていき、文鎮のようなものを並べて言った。
「占いは、とちらか、たたしいか、わるいか、言うものちかうね。
あんたの思いと彼の思いはとこまていっても平行線ね、これか運命あるね」
和香奈はがっかりして聞いた。
「そんな……、私と夫は仲良くなれないんですか?」
「あんた、いいひとね、その調子て信念を貫くことね。
そうすれぱ、さいこは彼もわかってくれるあるよ」
占い師はそう言って頷いた。
「本当ですか?」
和香奈は笑顔を取り戻した。
5
その日は結婚後初めて、よそ様のパーティに出るため、秋人は夕方早くに帰宅した。
運転手が箱を五つ運び込み、ソフアの上にあっという間に五着のイブニングドレスが重ねられた。
「まあまあ、若奥様。素晴らしいドレスですわよ」
梅さんは歓声をあげ、秋人が言った。
「さあ、今日のパーティに着てゆくのを選びなさい」
和香奈はドレスをまとい、宝石を身につけて着飾った。
「あんまり背中が開いてるのは恥ずかしいわ」
和香奈がそう言って姿を見せると、秋人は和香奈のまわりをぐるりと一周して徴笑んだ。
「とてもいいよ、きれいな背中だし、それぐらい開いてた方かセクシーに見える」
秋人は満足そうに和香奈を車にエスコートした。
車に乗り込むと秋人は真剣な表情で言った。
「今夜のパーティの主催の青成則近ってのは、撲がこの世で一番嫌いな人間だから君も気をつけるんだよ」
「どう気をつければいいんです?」
「そう、なめられないようにキョロキョロせず、この会場にいる人間は、お客も含めみんな自分の召使いだと思って、うんとすましていればいい。
挨拶は『ごきげんよう』だけ。
何か聞かれたら適当に相槌をうっていればいい。細かいことには答えなくていい。
あとは僕が頃合いを見て、君の先祖が三方ケ原で徳川家康を守らなければ、江戸時代がなかったことを演説してやる」
「なんかお芝啓みたい」
「芝居じゃない。妻の家の歴史を見せつけてやるのさ」
秋人は興奮気味に言った。
やがて車が林の中に入ったと思うと、まもなく青白くライトアップされた青成家のお屋敷が目の前に現れた。
車が玄関に横付けになると、執事が駆け寄ってドアを開けてくれた。
「これは、伊修院様、御足路ありがとうございます。
則近様がお待ちです、さあ、中へどうぞ。」
和香奈は執事に「ありがとう」と言って車から降り、続いて降りた秋人の腕に手を預けた。
屋敷の中からは弦楽器の音が洩れてくる。
執事が外扉を開き、内扉を開けると、三階まである吹き抜けには豪華なシャンデリアがさがり、奥の広間ではお客が賑やかに談笑しているのが見えた。
銀のタキシードを着て髪をオールバックにしたハンサムな青年が和香奈達に徴笑んで近寄ってきた。
「やあ、伊修院さん、どうもありがとう。披露宴の時は途中で急用ができて失礼した、怒ってたら、どうぞ許してください」
「いやあ僕はそんなこと気にしてませんよ、ハハッ」
秋人は笑って答えたが、和香奈はそういえば披露宴が終わると秋人が「則近のヤロー」とつぶやいてびっくりしたことを急に思い出し、こみあげる笑いをなんとか噛みつぶした。
「奥様、ようこそ」
青成に挨拶を向けられた和香奈は用意していた「ごきげんよう」を繰り出す。
「奥様は本当にお美しいですね、秋人さんが羨ましいですよ」
そうお世辞を言うと青成はヴィスコンティの映画みたいに和香奈の手を持って、甲に口づけしようとしたが、急にその顔を止めた。
そして顔を上げた青成は「奥様、しばしお許しください」と手を離し、目を輝かせて秋人に向かった。
「驚きました、秋人さん。あなたは奥様に田舎の香水か何かを使わせているのですね、なんともユニークです」
とたんに秋人は顔を蒼白にして和香奈の手を引きその匂いを嗅いだ。
和香奈はすぐに悟った。糠味噌の匂いが残っていたのだ。手袋を外していたことを、手にほとんど香水をかけなかったことを悔やんだ。
秋人の蒼白だった顔が真っ赤になり、和香奈はいきなり頬をぶたれた。
「秋人さん、御婦人に暴力はいけないなあ」
青成は余裕でのんびりと言った。
秋人は何も言い返すことができず、真っ赤な顔をさらに真っ赤にすると和香奈の手を引っ張って逃げるように屋敷から出た。
帰りの車の中で秋人は和香奈を責めた。
「一体、何の匂いなんだ?」
「ごめんなさい、糠味噌の匂いです」
秋人は糠味噌を知らないのか、顎を突き出してさらに聞きた。
「何だい、それ?」
「ほら、秋人さんも誉めてくれた漬物、ピクルスです」
そう言うと秋人も思い出した。
「ああ、そういえばあのピクルスの匂いだ、こんなに匂いの残るものなのか」
「はい、毎日、漬物桶の中の糠をひっくりかえして新鮮な空気を混ぜないと美味しくならないんです。」
「なんだって?」
秋人は目を見開いて、鋭く睨んだ。
「料理なんかしなくていいと言ったじゃないか!
君はどうして僕の言いつけを守れないんだ!」
怒鳴られて和香奈は弁解した。
「だって秋人さん、喜んで食べてくれたじゃありませんか、だから私はうれしくて。あの梅さんも褒めて食べてくれたから、糠漬けだけはさせてもらってたんです。」
「そんなもん買えば済むことじゃないか、君はおかしなところに頑固になる欠点があるよ。
もう今後は二度と台所に入っちゃいけないよ」
和香奈は泣きたい気持ちで言い返した。
「そんな。秋人さん、和香奈のしてあげたことで秋人さんが唯一、喜んでくれたのが糠漬けだったんですよ。
その仕事まで私から取り上げるんですか?」
「何を言ってるんだ、さっきどんな恥をかかされたかもう忘れたのか?
こんな臭い手になって何が嬉しいって言うんだ?
よりによって則近のヤツに笑われて、僕はあの場で死のうかとも考えたんだぞ」
秋人は怒ると同時に泣くような顔で拳を握りしめ 和香奈は情けなくなった。
「秋人さんに恥をかかせてしまい、申し訳ありません。
でも、たかが糠漬けの匂いで、死のうなんて、そんなこと仰らないで下さい」
秋人は黙り込んだ。
6
クリスマスイブ。
朝食のテーブルで、秋人は和香奈に言った。
「今夜はイブだしデートしよう、僕の店『アスタナインテン』の銀座店で待っててくれるか?」
「ええ、楽しみにしていいんですね」
「ああ、夜の8時に来てくれるか。
大事な奥さんにプレゼントあげなきゃ」
秋人は珍しく子供のような目をして笑った。
「実は、私も、秋人さんへのプレゼント、用意してあるの」
和香奈も微笑み返した。
給仕していた梅さんも嬉しそうだ。
「仲がよろしくて、ようございますね」
和香奈が『アスタナインテン』の銀座店に着いたのは7時半だった。
店名の『アスタナインテン』は粋(いき)という漢字を分解して、米偏をアスタリスク、九、十をナインテンに読み換えたものだ。
この店は二回目だったが、和香奈が「伊修院の妻です」と告げると、コンシェルジュは覚えていてくれて、すぐに微笑を浮かべて「これは、これは、奥様、お待ちしていました」と、すぐにリザーブされた席に案内された。
店内の席は、座った時の肘の高さの厚みのある仕切りで、区切られていて、その上には緑の葉に赤の花が映えるポインセチアの鉢が1メートルに3個ぐらいの間隔で載せられている。テーブルにはキャンドルが灯って、クリスマスの雰囲気を盛り上げている。
客層は、カップルや家族連れもいるが、明らかに近くのクラブの出勤前のホステスさんが殿方と向かい合ってるのもちらほらいるようだ。
和香奈は秋人に渡すプレゼントの包みを眺めて幸せな想像をした。
しかし、8時をまわっても、秋人はなかなか現れなかった。
8時半にコンシェルジュが「お腹がすくだろうから先に食べ始めてくれ」と伝言を持って来た。9時すぎにちょっと遅れると携帯にメールが入る。
和香奈からもメールを送るが返事は来ない。
10時になって、ようやく秋人が姿を現した。
「よ、待たせたな、次々とお得意さんが来て、抜けられなくて」
秋人は椅子にかけると尋ねる。
「何を食べたんだ?」
「紅茶だけ。だってあなたと食べたかったから」
和香奈が言うと秋人が怒った。
「食べろって伝言聞いただろ」
「これから食べられるでしょ。今日はデートって言ったじゃない」
「言ったけど、どんどんお得意から予定が入って、いつ抜けられるかわかんないんだよ」
「わかんないって、もう10時よ、まだ抜けられないの?」
「悪いな、あ、そろそろ行かないと、外に車を待たせてるんだ、ごめん」
そう言うと、秋人は椅子を立って、振り向きもせずに出て行った。
和香奈はあまりの速さに呆気に取られて何も言えなかった。
ただ、そのまま席に居座ったのは、秋人が何時に戻るか見極めたかったからだ。
12時の閉店時間になって、他の客は全部帰ってしまった。
和香奈が最後の客である。
コンシェルジュが申し訳なさそうに言う。
「閉店なんですが、よろしいですか?」
「すみません、主人が帰るまでいさせてください」
「そう言われましても、こちらには戻らないかもしれません」
「私と約束したんですよ、主人の店なんだからずっといてもいいでしょう?」
「はい、しかし、奥様を一人残して、私どもが帰るわけにいきません」
「かまいません、一人で残りますから」
和香奈が強情なのを見ると、コンシェルジュも観念して引き下がった。
「では、片付けさせていただきます」
そう言って他の席のキャンドルやテーブルクロスを外し、仕切りに置かれたポインセチアを大きなビニールのゴミ袋に投げ入れてゆく。ポインセチアの鉢はゴツゴツと音を立てて、時々、欠けて、花は上の鉢の重みに潰されてゆく。
「ちょ、ちょっと、ポインセチアを捨てるの?」
するとボーイは面倒そうに答える。
「明日の午前には別の花が運ばれてくるんですよ」
「だって、生きてる花よ、生き物よ」
「じゃあどうするんです?」
「これが秋人さんのやり方なのね、どこが粋(イキ)なの?」
和香奈は捨てられるポインセチアに自分の運命を見た気がした。
7
翌朝、梅さんは30畳のリビングを埋め尽くしているポインセチアにびっくりして、秋人を叩き起こした。
秋人はポインセチアに囲まれたソフアに掛けている和香奈に怒鳴った。
「これはどういうことだ?」
和香奈が言い返した。
「私も聞きたい、まだ生きてるポインセチアをどうして捨てられるわけ?」
秋人はうなづく。
「ふん、君の言ってるのは感情論に過ぎないよ。この世の中を動かしているのは経済効率だ。感情じゃない。」
「それは違うわ。」
和香奈は興奮を止めることができなかった。
「あなたって、わからないひとね。
いつくしむ心、いたわる心、思いやる心、感謝する心が少しもわかってない。この世は動かしているのは心だわ。
もし、ポインセチアを捨ててるところを誰かに撮られ、マスコミに流されたら、あなたの店の料理がどんなに美味しくたって、全ておしまいになるのよ!」
「……」
秋人はそこで予想外のことを口にした。
「つまり、お前が撮影したビデオを買い取れと言うんだな?」
和香奈は開いた口で息を吐いた。
「馬鹿じゃない、私はあなたの妻よ、そんなことするわけないでしょ、しっかりしてよ」
「わかったよ、じゃあ、一応礼を言っておくよ」
秋人に一応、礼を言われてから三ヶ月後の日曜日に和香奈は伊修院の弁護士に離婚届けと念書を提出した。
私物を取りにマンションに帰り、書斎に最後の挨拶をしに行くと、秋人は慌てて年鑑に目を通すふりをした。
「秋人さん、長い間、お世話になりました」
和香奈が挨拶すると秋人は背中で言った。
「ああ、家風の違いとはいえ残念だよ」
何が家風の違いなものですか、と言い返したいところだが、和香奈はそんな秋人が哀れに思えた。
この別離の時にも背中を丸めて、妻の最後の顔を見返すこともできない憶病者の肩を、和香奈は揺すぶってやりたかった。
「秋人さん、他の女の人は知らないけど、私は別れてもあなたの全てを否定しない。あなたにはこれからも頑張ってほしい、元気で長生きして」
「ありがと、君も元気で」
和香奈は書斎のドアをそっと閉じ玄関を出た。
気持ちに区切りがついたせいか、いつもと変わりばえのしない空が澄んでいるように見えた。
8
実家に戻った和香奈は近くの洋品問屋に仕事を見つけて、すっかり以前の暮らしに戻っていた。
そんなある日、家に差出人のない封書が届いた。
封を開けてみると、中にはしわくちゃに丸めた跡のある竃の護符が入ってた。
キッチンの収納の内側にこっそり貼っておいた竃の護符を、たぶん梅さんが見つけて、秋人に渡したのだろう。秋人は、思わず護符を握りつぶしたのだ。光景が目に浮かびそうだ。そうしたものの、和香奈へのうしろめたさも手伝って不安になり、匿名で送り返してきたのに違いない。
しかし、護符を送り返されてみると、今度は和香奈の方が心配になってくる。たしかにもう縁の切れた情けないひとだが、一度は運命を信じた相手である。
和香奈は秋人に手紙を送った。
遅ればせですけれど、こちらからのささやかな離婚の粂件ということで竃の護符はそちらのキッチンの元の場所に貼ってください。私の護符が気にいらないなら、どこの護符でも構いません。そうすれば私も安心してあなたのことを忘れますから。
と、こんな感じのことを便箋に書いて、返しの一枚は同封せずに送った。
9
和香奈が勤めから帰ると、玄関に来客の靴があった。
驚くことに、秋人が自分に会いに来たのだった。
「和香奈さん」
改まって呼ばれると、奇妙な感じがした。
「どうしたの?」
和香奈が聞くと、秋人は神妙な口調で言った。
「僕はこんなことが起きるなんて、いまだに信じられないんだ。だけど、ヒルズの家が火事になった」
「やだっ」
「原因はキッチンの電化設備の配線ミスらしいんだ。それが時間をかけてショートしたのではないかということだ」
「で、あなたはいいとして、梅さんは?」
「ちょうど本家に帰ってて無事だった。そして僕は寝室で寝てたけど無事だった」
そこで秋人は頭を深々と下げた。
「ありがとう、君が助けてくれたんだ」
「どういうこと?」
「僕はその夜、手紙の束をベッドのサイドテーブルに載せて、上の三通ぐらいを読んで眠くなって寝たんだ。
その後に火事になった。消防の専門家が言うには、寝室の両側の部屋と廊下が燃えているのに、寝室が燃えなかったのは科学的にあり得ないということだ」
秋人はそう言って和香奈を見つめた。
「あ、私の手紙があったのね?護符を入れた手紙」
「まったく、奇蹟だよ。君に命を救われた。
そしてなんていうのかな、自分のしてきた間違いに目が醒めた」
そう言う、秋人の目がみるみる潤んでゆく。
和香奈はひとつ頷いて、口を開いた。 了
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