「アンタ、今いる世界は、パラレルワールド、多次元宇宙のひとつあるね。
これは作り話ちかう、物理の話あるね。
アンタ、多次元宇宙わかるか?」
「おぼろげです、文系経済学部出ですから」
「宇宙の材料、物質、時間、意識、あるね。
これを混ぜて練って、たんこにして、細長く延ぱしてゆき、折ると宇宙、太い二本の麺になるあるね。
これをさらに延ばして折ると四本の麺、さらに延ばして折ると八本の麺、さらに延ばして折ると十六本の麺。
こうやって宇宙増えてく、はい、多次元宇宙てきるね」
まじか。
拓也はめまいに襲われた。
三百万で麺の話か。
「さて、この麺を波動というお湯で茹てるあるね。
茹てる時、かきまわし方が悪いと麺同士がたまにくっつくあるよ。
それを箸で持ちあける。
すると一本の麺の表面の粒のいくつか、別な麺の表面にうつったままになる。
これか今のアンタあるね」
「はあ」
拓也は気を取り直して尋ねる。
「それで、どうやったら、僕は、元の麺というか、宇宙に戻れるんですか?」
「心配ないね。
宇宙の時間、直線ちかう、螺旋あるね。
じぷんに合った場所行く。
釣りをするつもりて待つことね。
何十日も、何百日も、何千日も。
何年かかろうと元の世界に戻れば前の自分に戻れるから年取る心配ないね。
じっと心の目開いて待つと、光の束あらわれるね。
これ、フォトンね、そこにじぷんの意識投げる。
周波数共鳴すると、自分の描いた像と光の束、合体するある。
それ、元の世界への扉、開くあるね。
そしたら、そこに飛び込む。
元の麺に戻れるあるよ」
「そう簡単に言われても困りますよ。
もっと具体的に教えてください。
まず、じぷんに合った場所ってどこです」
拓也は怒りたいのを堪えて頼んだ。
占い師はひとしきり竹ひごをさばいて、文鎮を並べて、地図の一点を指し示した。
§5
指示された場所は赤坂外堀通りの日枝神社の丘を望む交差点の角だ。
拓也はそこにあぐらをかいて座り込んでいる。
「光の束なんて、いつ現れるんだよ」
首相官邸にも近いせいかパトロールの警察官が歩いてくる。
一瞬、拓也は不審がられて職務質問されるかなと考えたが、この世界の人間には自分が見えないのをすぐ思い出した。
「山王下交差点、渋滞、異常共になし」
警察官は拓也に気付くことなく、無線で連絡を入れて通り過ぎてゆく。
歩行者も、乗用車も、トラックも、バスも、全て拓也に気付くことなく、通り過ぎてゆくのだ。
誰も自分の存在に気付かないのだ。
拓也の胸には苛立ちが高まってゆく。
こんなことしてて、本当に元の世界に戻れるのか?
それより、自分は本当はただの幽霊になってしまっただけではないのか?
拓也は自分の胸に触り、心臓の鼓動を確かめてみる。
いや、生きてる。
必ず生きて、元の世界に戻り、麻美に会うんだ。
拓也は自分に言い聞かせて光の束が現れるのを待ち続けた。
空に夕焼けが映えだし、拓也はうとうととしかけた。
と、背後から声がかかった。
「とうあるね?
釣れたかね?」
振り向くと占い師が立っていた。
「あ、先生」
なぜか拓也は占い師を先生と呼んでしまった。
「いいもの持ってきたあるね。
これて、釣りをすると心か落ち着くあるね」
そう言って占い師は一本の釣竿を拓也に渡した。
それはかなり昔の釣り竿らしく、竹竿に竹細工の輪っかがいくつか付いていて、糸の先の釣り針はまっすぐでひっかかりがない。
これでは本当の釣りには使えないとすぐわかる。
「これをどうするんです?」
「たから、歩道から車道に向けて、突き出すと釣りの雰囲気が出るあるね」
「だめですよ、警察官が見たら、釣竿だけ浮いてて取られますよ」
「大丈夫あるね、これも別の次元のもの、二千年前の釣竿ね。
たから見つかる心配ないあるね」
拓也はなるほどと思った。
「そんな古い物、どこから?」
拓也がそう聞くと、占い師は微笑んだ。
拓也はハッとした。
中国を舞台にした戦国ゲームで軍師太公望のアイテムとしてまっすぐな針の釣竿があったのを思い出したのだ。
「まさか、先生は太公望じゃないでしょうね?」
「それは、とうてもいいこと、私は時代を渡り歩く流しの占い師あるよ。
アンタ、元の世界に帰るぺきね。
そのために、私の言ったこと信じること、それたけよ」
拓也は感動を覚えた。
かつての英雄軍師太公望が時代を超越して自分を助けようとしてくれているのだ。
「つまり、先生は太公望なんですね。
わかりました、言われた通りにやってみます」
それから来る日も、来る日も、拓也は、山王下交差点に、太公望の釣竿を垂れた。
この異世界にいて、ただひとつ便利なのは、拓也は、食事を摂ったり、トイレに行く必要はないということだ。
ひたすら釣りに集中する。
次第に、行き交う車が走るというより、とてもゆっくりすべって見えるようになってきた。
そうしているうちに、拓也はあの太公望はかつて釣りのふりをして、森羅万象の法則を観察していたに違いないということを確信した。
そうするうちに、占い師なのか、太公望なのかわからないが、背後で誰かが見守ってくれている気配も感じるようになった。
しかし、振り返ることはしない。
交差点の景色の中に、それまで見えなかった光の球の跳躍が見えるようになってきたので、それを見落としたくなかったからだ。
光の球には短い周期、より長い周期、かなり長い周期のみっつの球があり、それぞれが自分の位置に定められた方角に跳躍してゆく。
背後の声が言う。
「うむ、見えてきたな」
地面に碁盤の目を仮想して眺めるうちに、光の球の跳躍は一定のルールに基づいていることに気付いた。
あるところではまっすぐ次の目に進み、あるところでは斜めに進み、あるところでは桂馬飛びに進む。
そのルールは碁盤の目の位置により決まっているのだ。
背後の声が言う。
「それが九星の飛泊じゃ」
そうだ、やがて、このみっつの周期がひとつの位置で重なる時が来る。
その時、光の束が出現するに違いない。
拓也は確信した。
「その時に慌てぬよう、そこに投けかける、自分の意識を決めておくかよい」
背後の声に拓也はうなづいた。
「わかりました、先生」
§6
それから数日が経ち、いよいよ、その時が近づいた。
交差点の中を、好き勝手に跳躍しているみっつの光の球を眺めていると、次にみっつの球の行く先の予測が一点に絞られる。
「来る」
呟いた次の瞬間、みっつの光の球は重なって、金色の光の束となった。
拓也は用意していたイメージを投げかける。
すると、行き交う車のゆっくりと見える動きの合い間に、東山魁夷の白馬が出現した。
湖畔の林の中を進むはずの白馬は、すらりと伸びた脚をゆったりと折り曲げ、タクシーやワゴンやスポーツカーの間をすり抜ける。
「ほほう、白馬か」
背後で声がした。
光の束の位置はまだ離れている。
「一瞬を逃すな」
背後の声が言うや、白馬が、光の束に入った。
すると、交差点の中に、湖畔の木立が出現した。
白馬はその中をゆっくりと動いている。
今、飛び込まなければと思ったが、一瞬、脇から大型のトラックが寄ってくるのが視界の隅に入り、拓也は反射的に躊躇した。
「急げ」
どっと拓也の背中を誰かの手が突いた。
次の瞬間、拓也は道に飛び出してトラックの運転席をすり抜け、東山魁夷の白馬のイメージの中に飛び込んだ。
§7
高野拓也は、ハッ、として上半身を起こし目覚まし時計を手に取った。
アラームが鳴り出すが、ボタンを素早く押さえつけた。
7時40分。
デジャヴ!
大丈夫だ。
俺は完璧に覚えている。
拓也は飛び起きると、部屋を出て、隣のドアを叩く。
ドアが開いて、迷惑そうな顔をしているアフロヘアの学生に言ってやる。
「ガスが洩れてないか見てみろよ」
学生はちょっと引っ込み、引き返して来て青い顔をしてあやまる。
「すみません、洩れてました」
「気をつけろよ」
拓也はそう言って自分の部屋に戻る。
完璧だ、すべてうまくいった。
拓也は拳を突き上げガッツポーズした。
あの街の占い師に、三百万は払わなきゃならないだろうが、元の世界に戻れたことに比べれば高い額とも言えない。
会社で無事、午前の会議を終えて、昼休みにコンビニに行くと、麻美にばったり会った。
「あ、高野さん」
「やあ」
拓也は照れながら言う。
「今週の土曜日いいんだね?」
そう言うと、麻美は耳まで真っ赤になった。
「なんか恥ずかしくて」
「恥ずかしくないでしょ。
真面目な話だもん」
「そうね。
だけど、もう、今からすごい緊張」
「大丈夫だよ」
拓也は、麻美を今ここで抱きしめたいくらいだった。
仕事を終えた拓也はまっすぐ占い師に会いに行った。
カバンには、貯金をおろし、カードで借りて揃えた三百万が入っている。
占い師は、あちらの世界で会った時と同じように雑居ビルの入り口に机を出し、易と書いた小さな行燈を置いて座っていた。
「先生、戻れました」
拓也が言うと、占い師はうなづいた。
「とこかの世界て助けたかな?」
「ええ、本当に助かりました。
これ、代金の三百万です」
拓也がカバンから出した札束を差し出すと、占い師は笑った。
「アンタ、パカ正直ね。
向こうの私、アンタの決意、はかるために言った値段あるよ」
「でも向こうの世界で僕に気付いてくれたのは先生だけだったんです。
もし先生が気付いてくれなければ、僕は向こうの世界で自分の死を受け入れてた。
先生は命の恩人なんです」
「あっちの私は助けたかもしれないか、こっちの私、そこまてしてないあるよ」
「それじゃあ僕の気がすまないんです。
是非、受け取ってください」
拓也が札束を押し付けようとすると、占い師はうなづいた。
「そこまて言うなら、一割たけもらうあるよ。
この口座に入れてくれればいいあるよ」
そう言って占い師はメモに口座の番号を書いてよこした。
近くの銀行のATMで、メモにある口座の番号を押すと、振込み先の名前が出て、拓也は思わず微笑んだ。
その口座名は「国境なき医師団」、つまり寄付しろというのだ。
「さすがは先生、にくいことするよ」
拓也はレシートを受け取ると大切に財布に仕舞い込んだ。
急いで引き返してみると、占い師は跡形もなく消えていた。
§8
ペンションに向かう車の中、助手席の麻美が緊張してるのがわかった。
いつもはふざけてもたれかかるのに、今日はそれもない。
拓也は緊張している麻美も可愛いと思った。
「あ、見えてきたよ」
拓也が指差す木立の中に白いペンションが見えた。
麻美が声を上げる。
「素敵ね」
部屋に着いた麻美は真っ先に大きなバッグを開いた。
そして中から取り出したのは、絵を描くキャンバスだ。
「はい、これ」
「え、何?」
「やだ、高野さんがキャンバスないからって、私に頼んだんじゃない」
拓也は、麻美が何を言ってるかわからない。
キャンバスを抱えて、どう答えたものか考えあぐねていると、麻美は窓際に立った。
「ぐずぐすしてると、ずっとできなくなっちゃいそうだから思い切って脱ぐね」
麻美はそう宣言すると、その場で服を脱ぎはじめた。
「あ、あの」
拓也は、服を脱ぎ、ブラジャーを取り、さらに肌を露出してゆく麻美を呆然と眺めた。
麻美はあっという間に裸になると、そのまま窓を振り向くように横顔を見せて椅子に腰掛けた。
「こんな感じなのかな?
よくわからないからポーズを指示してね」
「あの、……その、麻美がヌードモデルってこと?」
「ここまでさせて、今さら何言ってるの?
あ、約束、破っちゃいやよ。
私たち、まだキスもしてないんだから、私の体に触ったら絶交だからね」
キスもまだって?
拓也はめまいがした。
きっと拓也が戻ったのは、前の世界と違うパラレルワールドなのだ。
すっかり下心満開で来たのに、全裸の麻美を見せつけられて、指も触れられないとは。
これじゃあ、まるで拷問だ。
たしか、犬神ってやつは、飢えてる犬の目の前に食べ物を置いて、じらしたあげくに作るのだと何かに書いてあったな。
「先生、話が違うよ。
犬神になっちゃいそうだよ」
拓也が呟くと、天から小さな笑い声が響いた。
「ハハッ、それくらいの微妙な違いは大丈夫、じぷんの工夫て思い通りにするよろしいね」
そういえば、今度の世界は、体が物を突き抜けるようなおかしなことはない。
みんなが僕に気付いてくれたし、買い物もできたし、車も運転できた。
「わかりましたよ、この世界で生きてみます」
拓也はあきらめて呟いた。
キャンバスに間に合わせのボールペンで麻美の絵を描き終えたのは深夜だった。
それから別々に風呂に入り、ベッドに入った拓也は、隣のベッドの麻美に、パラレルワールドの不思議な体験を話して聞かせた。
「不思議な話ね」
麻美はありきたりな感想を言うが、拓也は強調する。
「いや、本当に僕の身に起きた話なんだよ。
たぶん、今はね、パラレルワールドに行きやすい時期なんだよ」
「そうなの?」
「うん、ところで、麻美は釣りは得意?」
「したことないわ」
「そう、残念だな。
それじゃあ、もしパラレルワールドに行ったら、元の宇宙に戻るのは難しいよ」
「やだ、戻れないの?」
「うん、たぶんね。
明日、起きたら、その世界がパラレルワールドかもしれないよ。
だから、朝、麻美が僕の腕に抱かれていても、慌てたり、怒ったりしちゃだめだよ。
今の僕がそうしているように、今の宇宙を受け入れるんだ。
わかった?」
「なんだか、ずるい」
麻美が闇の向こうで微笑んだような気がした。
「僕のこと、嫌いかい?」
返事は返らない。
拓也は思い切り直接的に言う。
「僕は麻美を愛しているんだ」
しかし、返事の代わりに、かすかな寝息が聞こえてきた。
「ああ、元の麺に戻りたいよ」
拓也は呟いた。
§
あれから一年が経って、僕には、宝と呼べる絵がふたつある。
東山魁夷の白馬のリトグラフと、妻をモデルにした一度きりのヌードデッサンだ。 《了》

※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
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