朝の陽がぽかぽかと射し込み、夜中に冷え切っていた室内が快適な温度になった。
ベッドの中の温度も寒くなく、かつ熱すぎず、絶妙な状態。
気持ちいい、これなら昼まで寝てられそうだ。
もちろん、会社がなければだ。
高野拓也は、ハッ、として上半身を起こし目覚まし時計を手に取った。
アラームが鳴り出すが、ボタンを素早く押さえつけた。
7時40分。
今日だけ、もうちょっとだけ。
拓也はアラームを8時にセットし直して、ふたたび毛布にくるまった。
幸せな記憶が蘇る。
そうだ、昨夜は、ついに麻美に旅行の約束を取り付けたのだった。
高野拓也と倉沢麻美は同じ会社の販売部と総務部だ。
総務部の麻美が、会社近くのコンビニで、社内で使うティッシュやゴミ袋などをひとかかえ買っているところに、偶然、出くわしたのが始まりだ。
拓也が麻美のしていた社の名札を見つけて声をかけた。
「会社の総務のひとだよね?
持つの手伝うよ」
「あ、すみません。
事務ものは総務部で通販に発注するんだけど、こういう日用品はなくて」
そうして微笑んだ麻美に拓也は一目惚れした。
一緒に歩きながら麻美はさりげなく拓也に尋ねる。
「高野さんの、趣味って何?」
「趣味すか、うーん、これ言うと、暗いって言われて印象よくないんすよね」
「そんなふうに言うと余計気になる」
「絶滅危惧趣味と友人にからかわれてるんだけど」
麻美は笑顔で言った。
「自分が好きならいいじゃないですか」
「実は、俺、絵を見るのが好きなんすよ」
拓也が言うと、麻美は声を上げた。
「えー、絵を」
拓也が笑って返す。
「あ、今の、もしかしてシャレ?」
「シャレじゃなくて、私も絵が好きなの!」
「うそっ?
じゃあ二人とも絶滅危惧趣味かあ」
「そうね」
そう笑い合って二人は一気に親密になった。
以来、付き合いは半年ほどになる。
デートは大体、近場のいろんな美術館がスタート地点。
食事や買い物はおまけという感じ。
キスや抱擁は重ねてきたが、裸で確かめ合ったことはまだなかった。
そこで昨夜、拓也は思い切って旅行に誘った。
本当は直接会って誘いたかったが、携帯電話にした。
会って誘うとこっちも緊張しそうだし、それ以上に電話の方が麻美も答えやすいかという考えもあったからだ。
(もしもし、拓也です)
(こんばんは、どうかしたの?)
そう切り返されて、一瞬答えに詰まってオウム返し。
(どうかしたって?)
(ついさっきメールしたのに何か特別な用ができたかなって)
(あ、そうなんだ。
今度の土曜日、また美術館どうかなって)
(もちろんオーケー!
予定空けて待ってました。
なんて美術館?)
(東山魁夷だよ。
場所はさ、信州なんだけど、土曜の午後行って、日曜の午後帰るってのはどう?)
ちょっと沈黙。
拓也の頭の中で、(近くの湖にきれいなペンションあるらしいんだよ)という台詞と、(なんなら日帰りにしようか)という台詞がぶつかって、そのせいか心臓が高鳴った。
(ど、どうかな?)
(わかった)
そう返事されて、反射的に確かめようとオウム返し。
(わかったって?)
(お願いします)
その返事に、拓也は胸を熱くして答える。
(うん、近くの湖に画伯がスケッチした場所があって、湖畔にきれいなペンションがあるらしいんだ)
携帯電話を切った後、拓也は何をどう喋ったか覚えてなかった。
ただ手元のメモには、出発の時間と場所、そして湖の絵と朝日の絵が鉛筆で何重にも描かれていて、拓也は自分で苦笑したのだった。
§2
「いっけねえ!」
拓也は跳ね起きた。
目覚まし時計を振り返ると、時刻は既に9時40分。
どうやら8時のアラームで起きられなかったようだ。
「やっちまったあ」
まだ意識が朦朧としている。
急いで背広を着て、ドアから飛び出した時、いつもと違う何かが視界の隅に入ったのだが、そんなことにかまってる暇はない。
拓也は走って駅に駆け込み、電車に飛び乗った。
「早くしろ」
思わず叫んでしまい恥ずかしくなったが、他の乗客は聞かぬふりをしてくれた。
まずいぞ。
今日は会議が9時半からだったのに、しかも俺が資料を揃えて説明する予定だったのに、課長かんかんだろうな。
始末書じゃ済まないかも。
拓也は見えないバーベルでも担いでるかのように気が重かった。
電車から飛び降り、駅から飛び出し、会社に駆け込む。
エントランスホールに入った拓也はエレベーターの上行きのボタンを押す。
しかし、ボタンは点灯せずドアが開かない。
最近、エレベーターの故障がニュースになるくらいだ、きっと故障なのだろう。
「なんだよ」
次の瞬間、エレベーターはドアを開けることなく上階に迎えに行ってしまう。
「なめてんのかよ」
ひとり呟いて、それにしてもついていないな、と拓也は思った。
そこへ、顔の見覚えのある支店の営業マンが来て、ボタンを押すとすんなり上行きのボタンが点灯した。
「あの、今朝の販売会議、どうなったか知ってますか?」
拓也は恥を覚悟で聞いてみたが、営業マンは一瞥しただけでドアに向き直った。
シカトかよ、やっぱりやばそうだ。
エレベーターが降りてきて、ドアが開き、取引先の客が降りると、拓也はブスッとした営業マンと共に乗り込んだ。
結局、営業マンとはひとことも話をせずに、エレベーターから降りた拓也はオフィスに入った。
「すみません、おそくなりました」
声をかけて入ってゆくと、オフィスはまったく反応がなかった。
誰も自分を振り向かない。
拓也はいよいよ低姿勢で課長のデスクへ歩いてゆく。
その途中、誰もが拓也と視線を合わすのを避けているように感じる。
ようやく課長のデスクの前にたどり着き、
「すみません、課長、おそくなりました」
そう言ってみたが、課長は黙って書類に目を通している。
針のむしろってやつだ。
確かに自分の落ち度であり、弁解のしようもない。
すると課長は拓也が昨日書いた書類に目を落とし、
「高野君か、そこそこ仕事はできたのになあ」
そう言うと、ハアーッと大きな溜め息を吐いた。
まるで拓也を追い払うかのようではないか。
「あ、あの、そ」
拓也は言いかけたが、課長の重苦しい雰囲気に耐えかねて、自分の席に戻って叱られるのを待つことにした。
しかし、デスクに来ると、どういうわけか自分の書類や私物の文具もすでに片付けられてさっぱりとなくなっている。
「普通、一回の遅刻で、ここまでする?」
自分はわざと周囲に聞こえるように言って見回した。
しかし、みんな自分の仕事から顔も上げない。
「そりゃ僕が悪いよ、会議をつぶしたんだから。
だけど、取り引き先に迷惑かけたわけでも、会社の金を使い込んだわけでもないよ。
いきなり、ここまでするかよ?」
拓也がさらに見回すと、先輩の北岡小枝子が花瓶を持って歩いてきた。
白いユリと白いトルコキキョウの地味な花だ。
どうするのかと眺めていると、そのまま拓也のデスクに置いた。
「あ、あの北岡先輩、なんですか?」
拓也が当然、投げかけた疑問に、北岡は答えず、黙って花に向かって合掌したのである。
「やだ、その花、辛くなっちゃう」と隣の席の会田優実。
「何もしなかったら、可哀相でしょ」
「それはそうだけど。
そうだ、昨日、欲しがってたチョコ、高野君にあげる」
会田はそう言ったのにもかかわらず、拓也に渡すのではなく、チョコを花の脇に置く。
いや、供えるという雰囲気。
これってもしかしてお葬式というイジメだ、と拓也は合点して思い切り大きな声で、
「ふざけるのもいい加減にしろよな」
怒鳴ってやった。
ところが、普通ならそうなる筈の、声にびっくりするという反応が誰にも現れない。
「俺もやつの好きだった順天堂DSのソフトあげよう」
仲の良かった飯島直樹までが近寄ってきて脳年齢判定ソフトを供えて手を合わせる。
「おい、お前までか」
拓也は飯島の肩を掴んだ。
しかし飯島は何も反応しない。
さらに飯島が振り向いてゆくと、拓也の手は飯島の胸をすり抜けたのだ。
「エーッ」
拓也は声を上げたが、飯島の表情は何も感じていない。
拓也の存在自体を感じないようなのだ。
そして、拓也が椅子を持って引こうとしても動かない。
引き出しの取っ手に手をかけても動かない。
思い切って手を突き出すと、拓也の手は引き出しの中に音もなく食い込んだ。
「アーッ」
拓也はゾッとして声を上げた。
「俺はまるで、ただの影だ」
拓也はその場に尻餅をついた。
アドレナリンが一気に噴き出す。
「うそ、うそだー!
これって、夢だろ?
ほら、こうやってつねれば、」
拓也は自分の頬をつねってみた。
「全然感じない!
つ、つまり、だから夢だ!
しかし、まわりが現実的すぎる」
拓也の動揺をよそに、飯島が言う。
「こんなことになって、やつの彼女も可哀相だよな」
北岡が続ける。
「ああ、総務の倉沢麻美さん、真っ青になって病院に行ったって」
拓也は悪寒に襲われた。
「そんな!」
飯島が言う。
「まさかな、隣のガス爆発でころっと死ぬとは思わないもんな」
拓也は蒼白になった。
「俺が死んだ?」
「ひどすぎるよ」
「8時頃っていうから、一人で朝食でもとってたんだろうね」
拓也はきっと夢なんだと言い聞かせながら、自分に反応しない、妙にリアルで隙のない周囲を恨めしそうに見渡した。
§3
拓也はふらふらと会社を出て、歩きながら考えた。
この現実は何かの悪夢なんだ。
そう、夢なんだ。
現実であるわけがない。
自分がガス爆発で死んだ?
そんなこと、おかしいじゃないか。
だって俺はここにいる。
背広だって着ているし、腕時計だってしてる。
しかし、思い出してみると、本当に着たものか、記憶がない。
これも自分の一部の幻影なのかもしれない。
そう思って腕時計を街路樹にあてて押してみると、それはあっさりと街路樹の表面を通過し、手首の中心までめり込んだ。
そんな馬鹿な!
違う、俺は生きてるんだ。
拓也は自分の胸に触ってみた。
すると、確かに心臓の鼓動を感じることができる。
ほら、心臓だって動いているし、少し透き通ってしまうが、しかし、生きてるぞ。
「俺は生きてるんだー」
拓也は叫んだが、通りをゆく誰も振り返らない。
麻美が向かった病院に行けば事実がわかるかもしれない。
しかし、俺がここにいるのに、事実って何なんだ。
仮に病院の霊安室に俺の死体があるとしても、この俺は生きている。
もし、そこへ行ったら、どちらかの事実に一方が吸い込まれるような気がする。
そして、吸い込まれるのは、たぶんこっちの俺だ。
拓也は病院には向かわず、解決策を求めて彷徨うように歩いた。
たしか「ゴースト」て映画があったな。
殺された男が霊媒師の助けで犯人を暴く。
しかし、霊媒師なんて役に立たない。
俺が幽霊だと決め付けられるだけじゃないか。
あの映画も結局男は死を受け入れるのだ。
俺の場合は幽霊と違う気がする。
この事態をどう説明する。
と、その時、声がかかった。
「そこのお兄さん、死相か出てるあるね」
振り向くと、雑居ビルの入り口に机を出し、易の小さな行燈を置いて、黄土色のチャイナ服を着た中年の占い師が座っている。
占い師は片手を上げて、手招きした。
今日、初めて人に認められた。
「見えるんですね?」
拓也は嬉しくなって駆け寄った。
「朝から誰もこの僕を認めてくれないんです。
そして会社で、僕がガス爆発で死んだと聞いたんです。
これって一体、どういうことですか?」
拓也が聞くと、占い師は丸い目で見つめた。
「大事なことわかるか?」
「なんです?」
「アンタ、今、私にお金、払えない。
私、教える、私、教え損ね」
「ああ、そういうことか」
拓也はちょっと失望した。
拓也の存在が透き通るように、拓也の身につけているお金も彼には届かない存在なのだ。
しかし、占い師は続ける。
「まあ、困ったひと救うのか、私のしょうぱいね。
つけにしといてあけるね。
払える状態になったら、アンタ、私のところに来て、お金払う、いいね?」
「あ、ありがとう。
で、いくら?」
「アンタ、これとても難問ね。
たから、高いあるよ。
そうね、三百万て、とうか?」
「ボッタクリだよ」
「ポッタクリ、ちかう、ちかう。
三百万、たった車一台の値段ね、これであなた、元の世界戻れるかもしれない。
タタみたいな値段ね」
「俺の貯金ぶっとんで、ちょっと借金しなきゃならないんだよ」
そうは言ったものの拓也がこの世界で頼れるのは、このインチキ臭い占い師だけなのだ。
「でも仕方ない。
いいよ、それで教えて」
「契約成立あるね」
占い師は嬉しそうに拓也と握手した。
(パラレルワールド 後編 に続く)
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