銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

      1 予言

 土曜日の昼下がりの公園は快適そのものだ。
 強い陽差しは木の葉のブラインドで和らいでいるし、どこかから小鳥の愛くるしい歌を乗せたそよ風が吹き抜けて、うーん、気持ちがよいわん。
「竜助、座ろうか。」
 美菜ちゃんに言われて僕は「ワン」と返事をした。そして軽くジャンプしてベンチの上に乗ると足をたたみ、ふさふさのお腹をおろして美菜ちゃんを見上げた。

 僕はゴールデンレトリバー、四歳、牡、名前は槙野竜助。
 血統書についてる外国式の正式名はアレキサンダー・マキシミリアン・ステュワートなんとか、でも僕は竜助って呼ばれた方がしっくりくるんだ。体格はレトリバーとしては並だと思う。毛並みがきれいなのは御主人様、槙野淳一郎氏と奥さん、そして行きつけの美容院による手入れのおかげだ。おかげで今年のドッグショー全国大会、ゴールデンレトリバー部門で三位に入った。
 僕の一番の遊び友達は小学校五年生の長男祐一さんだ。
 高校一年の長女美菜ちゃんはあんまり僕の相手はしてくれない。ほらね、一緒に散歩に来ても、いきなり文庫本を取り出して本の世界に入ってしまう。やれやれ。僕は音を噛み殺して大きくあくびをした。

 こんな時はうたた寝に限るよ。僕はそっと閉じた瞼の裏に、砂浜を広げて座り込み、眠気の波が向こうからやって来るのを待ち受けた。
 まもなく手頃なビッグウェーブが見えて、サングラスにパジャマといういでたちの僕はサーフボードをかかえて海に突進し、後ろ足で水をチャプチャプかいて泳ぎ出す。大波の直前で僕は素早くサーフボードに立つと、ボードのテールのフィンでしっかり波をつかまえた。だんだん眠気の波の先端が大きく僕の上に覆いかぶさり、僕は透明なワッフルの生地でくるまれてしまった、幸福なカスタードクリームの気持ちを味わう。
 へーイッ、サイコーだわん。
 僕は眠気の波を破らないようそう小声でつぶやいてみた。
 しかし、僕のお楽しみは、突然、子供のかん高い声で砕かれた。
「へーえ、やったじゃないか!」
「うん、犬の体のままじゃあまり役に立たないと思ったから、一晩かけて人間に変身させたんだ。」
 僕はただごとならない話題にいっぺんに目を覚まし、公園の中を歩いて来る小学生二人組を見やった。
「じゃあパラメーターもアップだね。」
「うん、これで怪物に勝てるから、いよいよ第八ステージもクリアできると思うよ。」
 僕は心の中で問いかけた。
(お話し中、すみませんが、僕も人間になりたいんですよお、どうすれば変身できるんですか?)
 すると偶然にも片方の小学生が「で、どうやったの?」と同じ問いをしてくれたではないか。これだ、これ、これ。奇跡ってやつ。
「簡単だよ、神様の前で三回、まわって、ワンワンと言わせてみたら、まもなく虹色の光に包まれて変身できたんだよ。」
 ホ、ホント!?
 瞬間、僕の耳から脳天にそして全身に感激の電気が走った。
 なんだって、そんなに簡単に人間に変身できるのか?
 現在の犬の生活に特に不満はないけれど、僕は物心ついた頃からずっと人間になりたいと思ってきた。それも転生なんてまどろっこしい方法ではなく、あっという間に変身したいって思っていた。それがとうとう実現するんだ!
 僕は思わず尻尾を振りながら目の前の空気に溶け込んでいる小学生たちの匂いを追いかけるように嗅いだ。ああ、なんて素晴らしい、これって予言者の匂いなんだなあ。
 小学生の後ろ姿を見送った僕は美菜ちゃんの横顔を見上げる。
(美菜ちゃん、今の子の話を聞いたかい?彼は救世主だよ、僕も人間になれるんだ。)
僕がそう念じて見つめると美菜ちゃんはふっと僕を振り向いた。
「あら、竜助、尻尾なんか振ってどうしたの?」
(どうしたなんて言ってる場合じゃないよ、僕が人間になれる方法がわかったんだってば。)
 僕は美菜ちゃんのカーディガンの袖に噛みついて引っ張った。
「だ、だめよ、竜助、袖が伸びちゃう、」
(すぐ神様にお願いしに行こうよ、そしたら人間になれるんだ。)
僕はベンチから飛び降り、首輪につながった手綱を引っ張った。
「竜助、そんなに急がないでよ、」
 美菜ちゃんは怒ったが、僕は気にせず走り出した。

      2 祈り

 僕は、いつもならおしっこで自分の匂いをしっかりマーキングする電信柱にさえ目をくれず、まっしぐらに神社に急いだ。なにしろ長年の願いが叶うかもしれないのだ。
 それなのに美菜ちゃんときたら鳥居の前を素通りしようとして、僕は首輪で首の横を思い切り引っ張られてしまう。
(な、なんだよ、頭に来るな。)
 僕は慌てて三回吠えて境内の方に美菜ちゃんを引っ張った。
 すると美菜ちゃん、手綱を引っ張り返して言う。
「竜助、神社で何をしようってのよ。」
(お参りに決まってるだろ、そんなこともわかんないなんて、あんたの脳味噌、腐ってんじゃないの?)
 僕は美菜ちゃんの手綱を思い切り引っ張って、石畳を進もうとする。
「しょうがないわね、粗相しちゃだめよ。」
 美菜ちゃんはあきらめて社殿に向けて歩き出した。
(たくっ、犬をばかにしてくれるよな。僕は神様に大事なお願いがあって来たんだぜ。‥‥でもお参りに来た記念に隅っこの木にマーキングしとくってのもおつだよな。)
 僕は鳥居の脇の樹木の横に行くと、サッと後ろ脚を跳ね上げた。
「あ、竜助、だめよ」と美菜ちゃんは叱ったけど僕は知らんぷりだもんね。こんなの人間がおみくじを木に結ぶのと一緒じゃん。
 境内に入ったのは初めてではなかったけど、願いが叶うんだと思って見る社殿はいつもよりきらきらおごそかに映るわん。

 石畳の参道を進んでゆくと、手水の隣に藤棚があって、町内のご隠居佐伯さんが長椅子に碁盤を置き新聞と首っぴきで碁石を並べているのが近視の僕の目にも入った。ご隠居さんはふっと振り向き、少し顎を引いて老眼鏡の上縁越しに美菜ちゃんと僕を見る。
「お嬢ちゃん、犬の散歩かい。」
「あ、はい。」
「名前はなんと言うのかな?」
「はい、わたしは美菜で、犬は竜助です。」
「そうかね、どちらもいい名前だ。」
ご隠居は満足そうに微笑し、美菜ちゃんは一礼して足早に僕を引いて社殿に向かった。 僕によくわからないのは、ご隠居はなぜいつも同じ質問をしてくるのかということ。ま、いいや、それよりお参り、お参り。幅のある階段を上がると、木の箱があって、美菜ちゃんは金属のおはじきを出して投げ入れる。僕は木の箱の前に垂れ下がっている綱に噛みついて引っ張った。しかし音はかすかにゴロロッとしただけ。
「貸してみなさいよ。」
 美菜ちゃんは僕が噛みついたままの綱を持つと大きく前後に揺すった。
 ガラララアン。
 大きな音に美菜ちゃん得意顔。
「わたしの勝ちね。」
(ふん、こんなことに勝ち負けなんて、くだらんわん。) 
 僕は深呼吸して、その場で三回くるくる回り、ワンワンと吠えた。
(神様、僕を人間にしてください。
 人間に変身したら、あの金色のガラガラを美菜ちゃんより大きな音で鳴らして勝ってみたり、御主人様やお母さんと話をしたり、雨の日は祐一さんと家の中のカーペットでゴロゴロしたり、御主人様みたいに朝出掛けて会社に行ったり、マージャンをしたり、お酒を飲んで帰ってきた時は玄関の前で眠り込んだりしたいんですよ。どうか人間に変身させてください。もし人間にしてもらえたら、庭の地面の中に隠してある骨を半分、いえ、みんな、神様に差し上げちゃいます、持ってけ泥棒ーっ。)
 そこへ美菜ちゃんがプッと吹き出す音がした。
「竜助、おまえ、お祈りの真似なんかしてどうしたの?」
(真似じゃないわい、真剣な願い事じゃわん。)
 僕は反論してその場に座り込み、自分の体を振り返った。しかしまだ変身しそうな感じはない。
(しかし、小学生は一晩かかったと言ってたから焦ることないね。もうすぐ人間に変身だぞ、ふふっ。)
 すると美菜ちゃん、ひとこと。
「竜助、顔がたるんでるよ。」
(ムッ、こんなハンサムなレトリバーの笑顔をたるんでるとはひどい。)
「さあ、帰るよ。」
(ふんだ、)
 僕は尻尾をぴんと伸ばして階段を駆け降りた。

 神社を出てゆるやかにカーブした道を歩いてゆくと、向こうからマルチーズのちなつさんが飼い主のおばさんに連れられてやって来るのが見えた。僕は嬉しくなって挨拶を送る。
「ワン、ウワン、ウワン。(こんちは、こんちは、こんちは)」
「ワン、ワン。(まあ、こんにちは)」
 さらに近づくと美菜ちゃんとおばさんも挨拶を交わす。
「こんにちは、」
「いい天気になったわね。」
「ええ。」
「あんたの学校もテスト終わったでしょ‥‥‥、」
 僕はちなつさんの横について優位のポーズを取ると、
(ね、ね、俺ね、もうすぐ人間に変身するんだよ。)と話しかけた。
(どうして急にそんなこと思いついたの?)
 ちなつさんはびっくりしたというふうに目を見開いて尋ねてきた。
(うん、さっき公園で、小学、いや、大学のうんと偉い学者がね、犬が人間に変身する方法を話していたんだよ、どう、すごいだろ?)
(ふうーん、で?)
(だから、その方法をたった今やってきたところ。)
(あーらそう、で、いつ人間になるの?三年後?五年後?)
(はっきりわかんないけど、たぶん今晩だと思うよ、)
(まあ、そんなに早く?もう、あなたの匂いも嗅ぎおさめってわけね。)
(そんなに寂しがるなよ、ちなつさんのことは忘れないから。それに人間になってからも時々電柱にもおしっこひっかけて俺の匂いつけておくからさ、それで愛しい恋犬の匂いをしのんでくれよ。)
(あんたって、やっぱり、しょってるわね。) 
(グゥフフ、そんなに褒めるなってば、)
(‥‥‥。)
 ちなつさんはコショーでも嗅いだみたいに顔をしかめたので、僕は(僕が涙が出そうなら、このべろでぺろぺろ拭いてやろうか?)とやさしく尋ねた。
(たくっ、あんたはおめでたい犬ね。)
(あ、ありがとう。)
(うーん、頭が痛いわ‥‥‥。)
 ちなつさんが首をかしげた時、近くに雄犬の匂いが漂って来た。
 振り向くとこの辺りで野良犬ナンバーワンのボクサー犬、ロッキー・チャンプがこっちを睨みながら寄ってきている。こいつは今は完璧な野良犬なのだが首には昔の御主人につけてもらった首輪がついていたし、人間には悪さをしないので保健所に通報されることもなく、この六キロ四方の野良犬社会を仕切っているのだ。
 僕も体の大きさでは勝っていたが、こいつは苦手だ。そこで服従の意志を見せるため尻尾を巻きぎみに姿勢を低くした。
(やあ、ロッキーさん、)
 ちなつさんも遅れずに挨拶する。
(こんにちは、ロッキーさん。)
(よお、二匹とも元気そうじゃねえか。ところで竜助、)
 名前を呼ばれて僕は緊張して(は、はい、)と言った。
(おめえ、どっかで最近の俺の噂を小耳にはさんでねえか?)
(いいえ、)
(なんだと?誰も良い噂してねえのかよ!)
(あ、違います、悪い噂は聞いてないと言いたかったので、良い噂は毎日耳にしておりますです、)
(ほお、どんな噂だ。)
(それは、ロッキーさんはひょっとしたら一番強いんじゃないかという噂で。)
 すると突然ロッキーは僕の脇腹に体当たりしてきた。美菜さんは犬同士でじゃれているのだと思ったのかおばさんとの相手になったままで助けてくれない。
(痛っ、何するんですか。)
(ひょっとしたらってのはなんだ、俺をなめやがって‥‥‥『絶対』に決まっているだろ。)
(も、もちろん僕は絶対ロッキーさんが日本一だと思ってます。)
 するとロッキーはもう一度体当たりしてきた。
(なんだと、『世界一』じゃないのかよ。)
 そう聞かれた時、いつもならもちろん世界一ですと答えるのに、その日の僕はもうすぐ人間に変身できるということでテンションが高かったからつい投げやりに答えてしまった。
(どっちだって同じじゃありませんか。)
(アホ、日本で一番でも、すぐ世界で一番とは限らんだろうが、)
(僕はもうどの犬が一番強いかなんて興味ないんですよ。)
 僕は勢いでそう言ってしまって後悔した。ロッキーは眉間にしわを寄せて尋ねてくる。
(じゃあおめえは何に興味あるんだ、ああ?)
(僕がきょ、興味あるのは‥‥‥、に、人間に、へ、へっ、)
(人間に屁でもひっかけることか?)
 ロッキーはものすごい顔を近づけたが、僕はこれこそ神様が僕に与えた試練のような気がして、覚悟を決め開き直って言った。
(人間に、変身することです。)
 一瞬、ロッキーは口を開け、次の瞬間、いままで見せたこともないくずれた顔になった。
(へーッ、ヘッ、ヘッへッ、お、お、おめえが、に、人間に、へ、へ、変身するだと?)ロッキーは千匹の蚤にくすぐられているように胴をよじって、だらりと垂らした舌からよだれをこぼした。
(サ、サイコー、おめえ、サイコー、ヘーヘヘヘッ、俺が犬生の中で聞いた、さ、最高のジョークだぜ、ヘーヘッヘッ、苦しい、い、息ができねえ、心臓でフィ、フィラリアの野郎がダンスしてるみてえだ、クーックックッ、人間に変身だと、ヘーヘッヘッ、)
(僕は真剣ですよ。)
(オウ?ファーファッファッ、真剣だと、た、助けてくれ、笑いが止まらねえ、へーヘッヘヘッ、てめえ、俺を笑い殺しにする気か、ヘーヘッヘッ、ヒーヒッヒッ、)
 ロッキーはアスファルトに背中や腹をこすりつけながら、目には涙を浮かべておかしがった。これには美菜ちゃんもおばさんも変だと気づいてロッキーを白い目で見た。
 ロッキーはなんとか笑いをこらえて真顔で立ち上がった。
(竜助、よく覚えとけ、この世で一番優秀な生き物は犬なんだぞ、たしかに人間たちは俺たち犬より強い機械を作り出したがな、根性はないし、身勝手だし、犬身売買を商売にして暮らしてるような、たいしたことない下等な生き物だぞ。犬を捨てて人間なんかに成り下がろうなんて、ケッ、おまえはやっぱりアホんだらだぜ、)
 そう言い放ったロッキーは肩で風を切るようにして立ち去った。

 僕とちなつさんはロッキーの後ろ姿を見送ると顔を見合わせた。
(わたしは犬が一番だなんて思わないな。)
 ちなつさんがふっとつぶやくと僕もうなづいた。
(あ、ありがとう。)
(あ、別にあなたに味方する意味で言ったんじゃないけど、)
(じゃどういう意味?)
(でも、あなたが嫌いって意味じゃないから心配しないで。)
(デヘヘッ、照れるなあ、やっぱり僕のこと好きなんだ、)
(また始まった、)
 ちなつさんは何かに呆れたみたいだったが、聞き返す間もなく、人間たちが別れの挨拶を始めた。
「じゃあ、私、これから、いったん家に帰って、また買い物に行かなくちゃならないから、またね、」
「はい、あきちゃんによろしく、」
 僕とちなつさんはそれぞれ美菜ちゃんとおばさんに引かれて別々の方向に歩きだした。 

      3 ご隠居の正体

 僕はミルク色の靄に包まれた公園に向かって歩いていた。公園の入り口に来ると靄は抹香臭い匂いがしていて、僕は中に入るのを躊躇した。いつもなら槙野家の誰かが一緒なのに今日は匂いさえしない。しばらく僕はどうしたんだろうと考えてみたが、やがてこれはきっと夢なのだと気づいた。僕は安心して靄の内側に踏み入った。
 五メートルも行かないうちに靄は跡形もなくなり、僕は目の前の光景にアッと息を呑んだ。
 犬小屋を六十軒並べたら他に何も入らないはずの小さな公園がサッカー場より広く、その中央には高さ三メートルぐらいのとんがり帽子形のテントがあり、そのテントに向かってさまざまな動物が宙に浮いたまま一列に並んでいた。カモノハシ、シマウマ、イグアナ、キリン、ムササビ、フラミンゴ、バッファロー、インド象、アライグマ、カバ、ヤギ。 僕は列の一番最後にいた茶毛のウサギに近寄って尋ねた。
「これはなんの行列だい?」
「決まってるだろ、ありがたい行列さ。」
「というと、もしかしてビーフジャーキーの試食会とか?」
 僕が言うとウサギは目を赤黒させて言葉を失い、代わりにウサギの前にいたゾウウミガメが体を回転させて頭を向けてきた。
「君はゴオンチョウに呼ばれてきたんじやないのかね?」
 僕は慌ててうなづいた。
「そ、そうです、僕もゴオンチョーで、」
「ふむ、じゃあ誰に呼ばれてきたんだい?」
「そ、そりゃ、か、神様ですよ。」
「ならいいよ、あんまりふざけたことを言うからモグリかと思ったよ。」
「ハハッ、犬かきはしますけど、潜りは苦手で。」
 僕は笑ってごまかしたものの、ゴオンチョーの正体はまだわからなかった。とにかく、並んでる動物たちはみんな嬉しそうだし、テントの中からも悲鳴なんかは聞こえてこないし、悪いことはなさそうだ。
 やがて順番が巡り、茶毛のウサギがテントの中に消えて、しばらくすると『竜助、入りなさい』と呼ばれた。
 僕がテントの中に入ると、そこの天井は八百メートルはありそうで、部屋の中央には大理石の椅子があり、ご隠居の佐伯さんが白いシーツを体に巻き付け、杖を持って座っていた。
「竜助、よく来たな。」
 ご隠居は柔和な笑みをたたえて言い、僕も挨拶した。
「こんにちは、今日は五目並べはしてませんね、珍しいや。」
 するとご隠居は妙に改まった口調で言う。
「竜助、おまえの願いを叶えてしんぜよう。なんなりと申してみよ。」
「あ、それはもう神様にお願いしてあるからいいんですよ、ご隠居に言ったところでしょうがない‥‥‥、」
「よいから、わしにも言うてみよ。」
「そんなに聞きたいなら、減るもんじゃないし‥‥‥、実はですね、僕は人間になりたいんですよ、それもあっと言う間に変身したいんです。」
「よかろう、願いは叶えてしんぜよう。」
 ご隠居が杖で床をトンと突くと、ご隠居の体から目映いプラチナ色の光の束が周囲に放たれ、僕の体を光の繭で包んだ。僕は「アーッ」と声を上げた。そうだったのか、五目並べのご隠居とは世をしのぶ仮の姿、しかしてその正体は神様だったのだ。
「竜助、次に目が覚める時、お前はおのれの願いがかなったことに気づくであろう、さあ、行け、行くのだ。」
 僕は光に包まれたまま星空に向かって飛び出した。きらきらと渦を巻く銀河を眺めながら僕はご隠居に「ありがとうございます」と言うのを忘れてたと気づいた。
(まあ、いいや、どうせ明日も境内で五目並べをしてるんだろうから、その時にお礼を言えばいいんだ)
 やがて前方に青いちっぽけな惑星が見えてきた。

      4 夜明け

 ブルルッと寒気がして目が覚めた。あれ、なんだろう?頭の中にカリフラワーでも生えたような気がする。目は覚めたけれど、どこかいつもと違っていた。
 僕はうっすらと開いた目をまた閉じると、何げなく片足の膝を腹に押し付け、その瞬間、心臓が止まるかと思った。ふさふさとした毛の感触がまったくなくなっていたのだ。かわりに肋骨の上に直接皮を張ったような情けない触感が不気味なほど鮮やかに伝わってきた。
 さては眠ってる間に近所の悪ガキに毛を毟られてしまったか!
 僕は目を見開いてさらに度肝を抜かれた。
 腹ばかりでない、腰からも、足からも、ことごとく毛をむしられたニワトリの皮のような黄色い皮膚が露出している。
 なんてことだ、町内のメス犬の媚びた視線を一身に集め、ドッグショーで堂々三位に選ばれ、匂いの届く限りで一番美しいレトリバーと噂された僕の、自慢の毛並みが跡形もなく毟られてしまうなんて。
 まさか、これって、ノストラダムスの有名な予言、七の月、因幡の白ウサギがふたたび泣くという一節の成就ではないか。うかつだった、まさか犬の自分がこんな目に遭うとは。スキンボディのゴールデンレトリバーなんて考えただけでも身の毛がよだつ、いや、身の毛もよだてられないじゃないか。
 犯人の見当はだいたいついている。近所の中学生のワタルがクサイ。以前、ワタルがすぐ近くの電信柱に立ち小便をしていて、そこへたまたま僕と祐一さんが通りかかった。僕が自分の匂いが流されるのが悔しくてウオンと吠えたら、びっくりしたワタルは跳びはねたはずみに電柱にあそこをぶつけ、さらに反射した小水でズボンをひどく濡らした。そこで祐一さんは素直に笑ってしまい、その場でゲンコを食らったのだが、やつはあの時のことをまだ根に持っているのに違いない。ウウーッ、そっちがその気なら、こっちも思い切り噛みついてやるう。
 僕は鬱屈した思いで復讐を決意しながら、尻尾のあたりを確かめようと後ろ足の股間を覗き込んだ。すると視界に黒っぽい茂みがあった。よかった、わずかながらもここに毛が残っていたぞ、と僕はひとしきり喜んだがその喜びはすぐにしぼんだ。よく見るとその毛はまるで火事の中で焼け残ったかのようにみっともなく縮れていて、とても自慢できるような毛並みではない。でも毛はいずれ生えてくるから少しの辛抱だ。僕はそう自分を慰めて気分を切り替えようとした。その時、新たな不安が生まれた。
 どうもお尻のあたりの風通しがよすぎるのだ。僕は後ろ足を開いて、おそるおそる股間を覗き込んだ。
 するとなんたることだ。茂みの脇の尻尾だと思ってたものはお尻から生えてるのではなかった。何だ、これ。僕は前足でそのおかしな尻尾を触れてみた。
 突然、今まで味わったこともないいやらしい気持ちが起きてきて、鈴木さんちのリンダや島田さんちの早苗の背中の感触が腹に欲しくなって、その尻尾は勝手に固くなった。どうやら、尻尾だと思っていたものは腫れて収まりのつかなくなったオス性器らしい。それにしてもなんて恥知らずなんだろう。神様の決めた交尾シーズンでもないのに、こんなに興奮するなんて、僕の体は変態になってしまったんだろうか。
 それより尻尾はどこにいったんだ?僕は急いで前足で股間の向こう、お尻のあたりを触ったが、自慢の尻尾は跡形もなくなっている。
 なんて惨いんだ。こんな残虐事件は聞いたことがない。格好よい犬にとって不可欠な条件である尻尾が切り取られるなんて‥‥‥。僕はこれから味わうはずの苦しみに頭を抱えた。
 鈴木さんちのリンダも島田さんちの早苗も宮川さんちのちなつも、毛が毟られただけなら許してもくれ、いたわってもくれるだろう。しかし、尻尾がなくなったことを知ったらきっと幻滅するに違いない。どこのブリーダーでも尻尾のない子犬が生まれるのを恐れて僕にいいコを紹介してくれないだろう。スコットランドの伯爵家にまで溯る僕の血統もここに尽き果てるのだ。ああー、なんということだ。
 目からよだれに似たものがこぼれ落ち、僕はそれを前足で拭った。
 その時、ふと前足を見つめた僕は、その先がまるでご主人様の前足みたいに深く裂けていることを発見した。
 まるでご主人様みたい‥‥‥?
 慌てて前足で顔を撫でまわしてみると、顔の形もご主人様そっくりになっている。僕はそこでようやくさっき見た夢をはっきりと思い出した。
 そうだ、僕はご隠居の神様に願いをかなえてやると言われたのだ。それでついに変わったんだ、
 僕は人間に変身したんだ!
 僕は窮屈な犬小屋から這い出ると、人間たちがそうするように後ろ足二本で立とうと腰を上げてみた。
 バランスを取るのがむつかしくて、ちょっとよろけてしまったが、小屋の屋根を前足で踏んばって僕は二本足で立つことに成功した。
 庭に面した黒くて鏡みたいになってるサッシを眺めると、黒い頭の毛、べったり頭の横に張り付いた耳、大きな目、小さな鼻、赤い唇、胴に沿って生えた前足、太く長い足が映っている。これこそ、まさしく一匹の人間の姿だ。
 僕は変身した自分の姿をもっとよく見ようとサッシに近づいて首輪に引っ張られてバランスを崩し、朝露を含んでいる芝生の上に倒れた。
 僕は芝生の上に四つん這いになると頭を反らせて、まだブルーグレーの夜明けの空を仰いだ。
 今や、人間なのだから人間の言葉を話さなければと僕は人間の言葉を噛みしめるように呟いた。
「僕はとうとう人間になったんだ。」
 頬がふわっと暖かくなり僕は照れと喜びに満たされた。
 芝生の上に腹這いになった僕は、ご主人様と家族のみんなが起きてきたら、なんと報告しようかと考えた。
 ご主人様、竜助は神様のご隠居のおかげで、ご覧の通り、人間になりました。
 いやいや、待てよ、ご隠居が神様だってことは伏せておいた方がいいかもしれない、うちのご主人は口が軽いし、そうなると噂を聞きつけたマスコミがご隠居のところに殺到するだろう。ご隠居は心臓があまり強くないって奥さんが言ってたから、それがもとでぽっくりいかないとも限らない。よし、ご隠居が神様だってことは内緒だ。
 それにしてもご主人様や家族のみんなは大喜びしてくれるに違いない。きっと僕のことを世界中に自慢するぞ。僕も今まで一方ならず大切にしてもらってどんなに嬉しかったか、なのに人間の言葉が喋れないばかりに感謝の気持ちを伝えることができなくてどんなに歯痒かったかを思い切り伝えよう。
 思えばご主人様と家族のみんなが僕にかけてくれた愛情は世界中の蚤の総数よりも多いような気がする。
 奥さんの料理が失敗して家族のおかずが卵焼きと冷や奴とサラダだけの時でも、僕は牛肉百パーセントのドッグフードを食べさせてもらったし、毎週木曜日には美容院でカットシャンプーをしてもらい、金曜日にはペット専用ジムでスポーツを楽しめる。暑すぎたり寒すぎたりする時は犬小屋についているちょっとした冷暖房装置で温度をコントロールしてくれる。月に一度は医者のもとで健康のチェックも受けさせてくれる。
 昨日までの僕はご主人様の素晴らしい待遇に、せいぜい尻尾を振って吠えたり、ご主人様の手や顔を嘗めたり、訓練用語を覚えて命令を素早くこなしてみせるぐらいのことしかできなかった。
 しかし今日からは違う。
 僕は人間の言葉ですぐにお礼を言うことができるのだ。
 また今までは通じなかったおねだりも簡単にできる。散歩に行きたい時はこっちから「ちょっと公園までぶらぶらしませんか」と誘えるし、骨をしゃぶりたい時は「骨をもらえますか?」とお願いできるのだ。
 僕は期待でわくわくしながらご主人様が起きてくるのを待ち受けた。
 屋根の上でスズメたちが賑やかにさえずり始めた頃、不意に、四、五軒先で自転車のブレーキが響いた。新聞配達の少年の自転車だ。こんなに近くに来るまで彼の音や匂いに気がつかなかったのは初めてだ。でもこれも僕が人間になった証しだと思うと嬉しくなってくる。
 昨日までは、まず彼が門から庭の僕を覗き込み、僕は軽く二回ワンワンと吠え、彼もにっこりと微笑みを返してくれるのが習慣だったが、今や人間になったからには人間の挨拶をしてやろう。きっと彼も感激して爽やかな挨拶を返してくれるに違いない。でも、こんな時はなんと挨拶したらいいんだっけ‥‥‥。僕は奥さんが朝によく使うフレーズを思い出して暗唱し、彼の姿を待ち受けた。
 やがて門の三段の階段を駆け上がる音がし、彼の頭が覗くと、僕は芝生に座ったまま片方の前足を振って言った。
「まあまあ、おはようございます、先日はどうも、」
 一瞬、新聞配達の少年はきょとんとして僕を見つめた。かと思うと見る見る表情を引き攣らせた。
 僕は発音が悪いか声が小さかったのだと思い、もう一度挨拶した。「まあまあ、おはようございます、先日はどうも、」
 すると少年は新聞をその場に放り出し、あっと言う間に自転車に飛び乗り逃げるように走り去った。
 こっちがきちんと挨拶したのに一言も返事をしないなんてまったく礼儀知らずの少年だ‥‥。僕は自分の最初の人間型の挨拶に答えてもらえなかった寂しさを味わいながら、ご主人様が『近ごろの若い者は‥‥、』と嘆く気持ちがよくわかったような気がした。       (後編に続く)


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コメント

ぁmsぴ

たんたんと進行していって、
最後にキュッと締め上げる様子が
志賀直哉や芥川龍之介チックに感じるのは
俺だけでしょうか?

  • 2007/08/26(日) 01:37:03 |
  • URL |
  • irishblue #-
  • [編集]

こんばんは m(_ _)m 。。
コメントありがとうございます。。

後編、楽しみにしています。。
週末に読みに来ますネ!!

ではでは・・・

  • 2007/09/20(木) 02:05:43 |
  • URL |
  • ドダドゥド #-
  • [編集]

ドダドゥド様 
ありがとうございます。

はい、そちらにも行きますので
よろしくお願いいたします。

  • 2007/09/20(木) 15:55:07 |
  • URL |
  • 銀河系一朗 #-
  • [編集]

後半

う・・・・これは後半、ハチャメチャコメディーの予感が。
そうですよね・・・変身したら裸ですもんね。

いったいどうやってご主人達に自分を竜助だと、認識させるんでしょうか^^

期待しつつ本日はポチット!!

  • 2007/09/20(木) 23:02:54 |
  • URL |
  • 奈緒 #-
  • [編集]

奈緒様 ありがとうございます。

時にはこうゆう息抜きもいいかなと出してみましたが、ラストシーンはどうしたものかと実は今も悩みありなのです。

またのお越しをお待ちしています。

  • 2007/09/21(金) 10:06:32 |
  • URL |
  • 銀河系一朗 #-
  • [編集]

今日は・・・

仕事がバタバタして。
後半が読めそうにありませぬ。
お詫びのポチットをして、
ぬきあし、さしあし、忍び足。

ドロン!!

  • 2007/09/21(金) 23:47:46 |
  • URL |
  • 奈緒 #-
  • [編集]

銀河「あれ、なにかの足跡が…」
探偵「うーむ、犯人は奈緒さんだな」
銀河「見ただけでわかるんですか?」
探偵「ほら足跡と足跡が、i の形につながってるだろろ」
銀河「なーるほど。奈緒さん、ありがとう」


  • 2007/09/22(土) 19:44:38 |
  • URL |
  • 銀河系一朗 #-
  • [編集]

語りの所々に犬っぽさが垣間見られて、良い感じでした。
後編が気になりますね……。

ぽちっと押していきます♪

  • 2007/09/22(土) 21:08:30 |
  • URL |
  • もみじ #KKhd1Ueo
  • [編集]
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ゴールデン・レトリバーゴールデン・レトリバーはイヌ|犬の一種。大型犬である。.wikilis{font-size:10px;color:#666666;}Quotation:Wikipedia- Article- History License:GFDL

  • 2007/09/14(金) 22:11:26 |
  • ペットでボン!ドッグ編
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Information

gingak
  • Author: gingak
  • 銀河 径一郎
    (ケイイチロー・ギンガ)
    好きな言葉は『信じる』。
    飛べなくても頭が悪くても
    地球人も宇宙人だ(笑)

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