銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

 お盆で帰省していた僕は、土曜日の昼頃、近くの公園に出かけた。テニスコート4面ぐらいが楽に取れる広さがあり、周囲にイチョウの木があり、ベンチがコの字型に点在している。
 まだ昼食時のせいか子供たちの姿はなく、一人のお婆さんが敷地の向かいの木陰のベンチで休んでいるのみだ。日差しに暖められた芝生の放った湿気はかすかな陽炎となって、それをトンボたちの透明な羽を揺らめかせている。
 僕はこちら側のベンチに仰向けになって外した野球帽を顔に覆って、日差しに照らされながら昼寝した。
 ふと気がつくといつの間にか子供たちの歓声がして、僕は視界を覆ってた野球帽を外した。打ち上げられた白球が青く染まった空を飛んでいた。
 僕は急に昔を思い出して、上半身を起こして周囲を見回した。そこにエントロピーの行き違いにより飛ばされてしまった過去が蘇ってくれはしないかと儚い期待を込めて。

 ◇

 僕の記憶の中でも最も楽しい時代の土曜日の話だ。
 大学のゼミで知り合い付き合い出した僕と有紗はよくこの公園で小学生たちがゴムボールで遊ぶ三角ベースの草野球に参加した。いや参加というよりは勝手にでしゃばってコーチとなりゲームを仕切ったのだ。小学生が大学生に逆らえる筈もないし、試合後にアイスやジュースで懐柔もしたので案外好評だったと思う。
 有紗は高校時代ソフトボールのエースピッチャーだったらしくコーチの適性もあるのだが、僕の方は高校はチェス部出身だからいかさまコーチもいいところだ。

 子供たちは日により若干の増減はあるが14人前後で、女の子も4人ほどいて有紗は未来の後輩を育てるつもりなのか彼女たちに熱心にピッチングの要点を教えていた。

 有紗は左足を踏み出すと同時に右手を下から回転させて跳ね上げ、さらに前進する足と共にさらに回転させてボールにスピードを与えてリリースしてみせる。
「いい? 腰の高さがいつも同じになるように足を踏み出すの」
 続いてキャッチャーとなった有紗に向かって、女の子たちはひとりずつアンダースローでボールを投げ練習していたが、時々ボールはあさっての方向に投げ出される。
「次に手がいつも腰を布地を同じ長さだけこするように意識してごらん。そうすると楽にコントロールできるから」
 女の子たちは頷いてひとりずつボールを投げ、それはさっきよりずっと安定して有紗の手に収まった。
「いいよ、その調子。さゆちゃんはもう少し早く手が足を過ぎる前にボールを離す感じにしてごらん。うん、そう、ほらね、ストライクだよ」
 さゆちゃんは飛び上がってガッツポーズをして、楽しそうだった。

 そんな様子をちらちらと覗きながら、僕は男子野郎どものバッティングピッチャーをしながら、「もっと脇をしめて」とか「よく見て引っ張って」とかテレビの野球解説で聞き齧った記憶のある単語を適当に並べていたわけだが、子供たちに「あんな内角、引っ張ったらファールだろ」とか文句を言われる始末だ。
 そんな感じで一通りの軽い練習タイムが終わるとゲーム形式になる。
 人数が少ないこともあり、僕と有紗もゲームに参加するわけだが、僕がバッターボックスに立つと、キャッチャーの子供はワンバウンドしてから捕ろうとうんと後方にさがった。そこで有紗は本気で速い球を投げるのだ。僕は全然打てなくて、いつものように僕のチームは有紗のチームに負けた。
 そんなわけで草野球は全然面白くなかったのだけれど、夕方には僕は有紗の車に乗り部屋に招かれて料理を食べて、もっと柔らかいソフトボールを堪能させてもらっていたので僕らの仲はとてもよかった。

 ◇

「エントロピーてどういうこと?」
 少し肩を上げた有紗が魅惑的なソフトボールのようなおわん型の乳房を見せたまま聞いてきた。
「変なこと聞くね?」
「昨日、テレビで小耳に挟んで、テッちゃんに聞こうと流したんだよ」
「ふうん。エントロピーは無秩序さの度合いとでも言えばいいのかな。
 ビックバンって聞いたことあるだろ。宇宙ってのは何もないところに一握りのエネルギーの塊が現れ宇宙の材料が揃い、ビッグバンの爆発から始まった。そして宇宙は今もどんどん膨張し続けているんだ。こうしてる今も宇宙はもっと大きな無秩序へ向かって、どんどん散らかり続けている」
「ああ、テッちゃんの部屋みたいな状態ね」
 そう突っ込まれて僕は苦笑した。
「あの全然反論できないんだけど。
 とにかくそういう状態を熱力学では、エントロピー増大の法則が成立していると考えているんだよ」
「ふうん。でもその方向の切り替えポイントみたいなのは私たちの人生のどこかにある筈だよね?」
「いや、ないと思うよ。エントロピー増大の法則はとてもスケールの大きな法則だから個人が習慣や生活をちょっと変えても全然影響されない」
 すると有紗は「そうかな」と反論した。
「たとえばアルデンテにすべきスパゲティーをトロトロに茹でて、素麺みたいに冷水でしめたら、何か変わるんじゃないの?」
 有紗は言い張ったが、僕は却下した。
「そんなことでは変わらない」
「でも変わってほしい時もあるでしょ」
「科学は人文分野に気が利かないんだよ」
 僕はそんな風に答えてしまった。今にして思えば、もっと有紗と同じ気持ちで考えてみるべきだった。

 ◇

 一見、何事もなく13日間が過ぎて、僕のチームは2回有紗のチームに負けて、僕は二晩有紗を抱いた。僕はうかつにもこの宇宙は快適で幸福だと考えたぐらいだ。
 
 土曜日、僕は定刻より20分ほど遅れて公園に着いた。有紗のミニクーパは既に駐まっていて、子供たちはキャッチボールしていた。
「わりい、わりい、遅れたな」
 僕があやまりながら公園に入るとミキちゃんという女の子がきつく叱った。
「たるんでるよ」
 でも、僕はうっかりしていた。いつもならもっと沢山の非難が浴びせられるのにミキのひとことだけで済んだという異変について気づくべきだった。
「じゃ、始めよう」
 有紗と僕のジャンケンで先攻後攻が決まりいつものようにゲームが始まった。

 有紗はなんだか元気がなさそうに見えたし、僕以外の子供に投げる球は勢いがないように見えた。
 ゲームは子供たちの歓声でうねりを作りながら、僕らのチームが2点リードされた最終回、僕に打順が廻ってきた。

「テツ、ホームラン打ってみせろ。サヨナラ逆転だ」
 男の子がバッターボックスに向かう僕にタメ口で怒鳴る。
「そりゃ俺だってホームラン打ちたいけどな、有紗は俺には容赦ないからな」
 僕も言い返して有紗に対面した。

 有紗は僕を睨むように見て、さっと投球動作に入り、ぐるぐるっと回った腕からスピードボールを投げ込む。
 僕は力を込めてバットを振るのだけれど、ボールは僕のバットの上をすり抜ける。
 これは小学生主力の草野球なんだから、ライズボールなんて反則だろうと僕は心に呟きながら構え直す。
「テツ、ホームラン打て」
 男の子の無責任な命令が響き渡る。
 有紗は再び投球動作に入り、ぐるぐるっと回った腕からボールを投げ込む。
 僕は今度こそとバットを振った。
 しかし、ボールは僕のバットをかすってファールグランドに転がった。
「だめだな、テツ、ちゃんと打てよ」
 男の子は怒鳴り、僕はもう一度バットを構えた。

 そして僕はあれっと思った。
 さっきまで厳しかった有紗の顔が微笑んだように思ったのだ。
 そして、ぐるぐるっと回った有紗の腕から放たれたのは、トスのように甘いど真ん中の球だった。
 頂き!
 僕はボールを引きつけて思い切り叩いた。
 ボールはぐんぐん上昇して外野どころか公園の外まで飛んでゆく。
 ホームランだ。
 僕はガッツポーズして、マウンドでうなだれる有紗をちらりと眺め、一塁を蹴って、二塁へ向かう。
 そして僕が二塁をまわってホームを踏んだ時、子供たちは僕のまわりではなく、俯いている有紗のまわりに集まって、慰めているようだった。
 なんだよ、ヒーローに出迎えなしのこの仕打ち。
 ま、いいさ、勝ったのは俺たちだし。
 僕はそんな詰まらないことを考えて、終わった試合のボールを回収するために公園の外に探しに走った。

 ◇

 僕がボールを拾って公園に戻ると、そこには誰も残ってなかった。いつもは試合後は僕を待ってるはずの有紗のミニクーパの姿もなかった。
 僕は駆け出して、歩いて立ち去る女の子ふたりに追いついた。
「おい、今日はみんな帰るの早いな」
「うん」
 振り向いた女の子には泣いた跡があった。
「どうした?」
「だってアリサお姉ちゃんとお別れしたから」
「えっ?」
「遅刻するのがいけないんだ、最初にアリサから今日でお別れって説明があったのに」
 ミキちゃんは怒るように僕を睨んだ。
「待てよ、有紗は僕の恋人なんだぞ」
「でももうお別れなの。アリサは遠いところに行くんだって」
 僕は慌てて携帯電話を取り出したが、着信拒否になっていた。

 一時間ほどして携帯電話が鳴って僕は飛びつくように開いた。
『テッちゃん、ごめんね、もう会えないの』
『どうして?』
『急に遠くに引っ越すことになってさ』
『そんなのおかしいよ、大学はどうするわけ?
 有紗はもう二十歳過ぎてるんだから全部自分で決められるんだよ。なんだったら俺と同棲してもいいじゃないか』
『あなたと付き合えたことは私の一生の宝物だよ、ありがと、さよなら』
 僕は慌てて何か言おうと考えた。

 そうだ、スパゲッティを素麺みたいに茹でてほしい。
 
 だが僕の声を発するのを待たずにプツリと電話は切れた。

 僕はあの時、有紗の甘い球を打ってホームランした時、エントロピーが決定的に増えたんだと不意に悟った。
 もし彼女の甘い球に対して僕もわざと大きくのんびりした空振りをする余裕があれば、有紗は僕の側を離れず、そもそも有紗の父親の名前が横領容疑で逮捕という文字と共に三面記事に載ることもなかった気さえする。ともかく僕はそれ以来エントロピー増大の法則が大嫌いになった。  了




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コメント

エントロピーと聞いただけで頭が痛くなっちゃいますが(笑)、銀河さんの説明は明快でわかり易いですね。
黙って去って行った彼女の優しさで胸がチクチク痛みます。
物理的に絶対に無理だとわかっていても、なんとか変えてみたいと思うのが文系の人間なんですよね。
チェス部出身のいかさまコーチという設定ががなんとも微笑ましくて、野球のシーンはすごく楽しかったです。

  • 2010/09/09(木) 01:55:45 |
  • URL |
  • ia. #DQukzmQA
  • [編集]

◆ia. 様 ありがとうございます。

彼女が去ったのをエントロピーのせいにしたい文系の怨念で書いてみました(笑)

>なんとか変えてみたいと思うのが文系の人間

アインシュタインも当初は宇宙は一定で膨張しないと思ってたらしい。想像力なら文系の方が上なんですよ! 神はサイコロステーキは好まない!

  • 2010/09/09(木) 10:03:59 |
  • URL |
  • 銀河径一郎 #7VZ5bVfM
  • [編集]

すごく面白かったです。
何も言わずに消えてしまった彼女と、できればもう一度逢わせてあげたいですね。
ホームランを打たなくても、事態は変わらなかったでしょうね。
でも、そう思いたい気持ちは痛いほどわかります。

  • 2010/09/09(木) 17:00:55 |
  • URL |
  • りんさん #-
  • [編集]

◆りん様 ありがとうございます。

楽しんでもらえてよかったです!

>ホームランを打たなくても、事態は変わらなかったでしょうね
そうですね! 後から思い返して、あの時、ああしてればってことは誰でもきっとあると思うんです。その想いを書きたかったんですよ。

  • 2010/09/10(金) 10:55:44 |
  • URL |
  • 銀河径一郎 #7VZ5bVfM
  • [編集]

こんばんは♪

あの時ああしていれば、何かが変わっていたかも知れない――そう思う事、よくありますねぇ。
本当は何をしても変わらなかったかも知れない。それでも、もしかしたら……と。
彼女も何かを変えたかったのでしょうね。

  • 2010/09/10(金) 22:20:31 |
  • URL |
  • 巽 #jdMQ17Ic
  • [編集]

◆巽様 ありがとうございます。

>あの時ああしていれば、何かが変わっていたかも知れない

そうですよね、人間は自分の運命ぐらいは自分で決めてると考えたがり、違う道もあったのだと確かめたいのかもしれません。

  • 2010/09/11(土) 01:16:23 |
  • URL |
  • 銀河径一郎 #7VZ5bVfM
  • [編集]

ものごとの起こりにくさ

素敵な文章で嬉しくなってしまいました。
エントロピーの話やらソフトの話やら彼女との関係やらなんか無秩序に書き重ねられているようで、ものごとの起こりにくさというエントロピーで繋がってドラマが構築されている。しかも僕視点で貫かれているから、その時点での視点、その後の視点、そして回想する視点で見え方が違うという構造も。いやぁ見事です。

  • 2010/09/11(土) 08:58:56 |
  • URL |
  • 矢菱虎犇 #-
  • [編集]

◆矢菱虎犇様 ありがとうございます。

お褒めの言葉ありがとうございます!

それにしても矢菱さんはコメント文も素晴しいですね。思わず読み返して、印象が3割アップしましたよ。すごいわ、言葉の魔術師ですな! どんな女性もころりと口説かれてしまいそうです! 羨ましい!

  • 2010/09/11(土) 15:16:08 |
  • URL |
  • 銀河径一郎 #7VZ5bVfM
  • [編集]

エントロピー・・・。
むずかしいですね。
私の頭では「If」が、エントロピーの転換点?
「運命」とか、「もしも・・・」とか、そんなありきたりな
言葉がでてこない文章がとってももどかしくもあり
気持ちよくもあり。
くせになりそうな作品です。

  • 2010/09/12(日) 17:17:00 |
  • URL |
  • もぐら #8tY9vXl2
  • [編集]

◆もぐら様 ありがとうございます。

エントロピーですが、男はわざと難しそうな言葉を使って、単細胞な脳みそを隠そうとするんです。
特にいい女が来たぞと思うと、さっきまで下ネタだったのが、急に、ゴシック建築の例を挙げてフライング・バットレスの推力と美しさを讃えたりします。そういうのを聞いたら私っていけるのねと微笑んで下さい(笑)

  • 2010/09/12(日) 18:46:11 |
  • URL |
  • 銀河径一郎 #7VZ5bVfM
  • [編集]
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gingak
  • Author: gingak
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    (ケイイチロー・ギンガ)
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