達也は夏期講習をさぼって部屋でゲームをしていた。
「あー、暑っ」
コントローラーを放り出した卓也は、キッチンに向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出して飲んだ。
口からひと筋の麦茶が溢れてシャツを濡らすのも心地よい。
その時、キッチンに入ってきた母に見つかって勢いが止まった。
達也は頭の中で素早く想定問答を始める。
(あら、夏期講習はどうしたの?)
(今日は休みっ)
(そう。がんばってよ、もう少し偏差値上げないとね)
(るせーよ)
冷蔵庫に麦茶のポットを返して、達也が心の準備をして振り向くと、母の口からは想定外の言葉が飛び出した。
「そろそろおじいちゃんの家に行ったらどうなの?」
「えっ?」
「毎年、あんた、夏は行くじゃない。おじいちゃんも待ってるわ」
「今年は受験だろ」
いやはや、自分、何を言ってんだか。
「おじいちゃんはあんたが来るの、楽しみに待ってるんだからね」
「まあ、スケジュール調整してみる」
スケジュールなんてだいそれたものはない。
確かに、もっと小さい頃は田舎のじいちゃんの家で夏休みを過ごす日々は、楽しい冒険に満ちていた。だが、この歳になると、何も遊ぶところのない田舎に帰るのは面倒臭いだけになっていたのだ。
部屋に戻った達也はしばらくゲームを続けていたが、ふと本棚に顔を向け、並ぶプラモデルに挟まれて、中に砂時計が入っている虫かごに目を止めた。
それはじいちゃんが板と竹ひごを組み合わせて作ってくれたものだ。
じいちゃんが作ってくれる様子をすぐそばで見つめながら、達也は感激していたことを思い出す。
それは店でいい加減に吊るされている塩化ビニール製の虫かごでとは全く違っていた。
2
「えらいねえ、達也は好き嫌いがないねえ」
ばあちゃんがそう言って晩ごはんの後片付けを始める。
達也は一人で田舎のじいちゃんの家に泊まりに来ているのだ。
じいちゃんが自分の膝をポンと叩いた。
「達也、さあ、虫取りに行くぞ」
誘われた達也は、母がいつも言う「暗くなったら外に出てはだめよ」という台詞を思い出して口にしてみる。
「もう暗いよ」
達也はじいちゃの目が輝いたように感じた。
「なあに、場所はわかってる。目をつぶっても行けるぞ」
いや、輝いていたのはたぶん自分の目の方で、思わず声がうわずって、
「ホント?」
捕虫網と虫かごを持って外へ飛び出した。
夏の闇の中は、少し冷えて落ち着いた草いきれの匂いが鼻に忍び込み、ふっと顔を上げると、天の川が空に大きな帯を描いている。
田んぼの上を時折、ゆらと渡る小さな灯りはホタルだ。
じいちゃんは達也の足の先を照らしながらずんずん歩いてゆく。
坂道をしばらく歩いて、草が生える脇道に折れると、大きな木が何本か並んでいる。
「これだ、達也、このクヌギを電灯で照らしてみ」
達也がじいちゃんから受け取った電灯を、木の幹に向けてみた。
すると、そこには角のついたカブト虫が貼り付いていた。
よく見ると樹皮の裂けたところから流れる汁を吸っているのだ。
達也は大きな声だとカブト虫が逃げるかと思わず小声になって、
「なんでこんな時間にいるの?」
そう聞いたが、じいちゃんは大きい声のまま、
「なんでじゃろのう、晩ごはんだろうかの」
しかし、じいちゃんの声など気にせずカブト虫は夢中で汁を吸っている。
「達也、もっと上にもおるぞ」
さらに電灯をずらすとクワガタもいた。さらに探すと角のないカブト虫も何匹かいる。
「すげー、いっぱいいるよ」
達也が驚きの声を上げると、闇の向こうでじいちゃんが笑うのがわかった。
「よかったのう、達也」
達也はカブト虫やクワガタをつかまえては、虫かごに迎え入れた。
じいちゃんの朝は早い。
5時頃には起きて田んぼに出かけるが、達也は物音にうっすら目を開いてじいちゃんの後ろ姿を見て、すぐにまた眠りに落ちてしまう。
ばあちゃんに起こされて、朝食の卓に着くと、そこには田んぼの水を見終えて、朝食に使う野菜を取り終えたじいちゃんがいる。
「達也、今日は昼から川に行くぞ」
「うん」
じいちゃんの言う「川」は三十分近く歩いたところにある。
実際はもっと早くに川岸に出るのだが川底が浅くて、泳ぐ深さのある部分までは距離があるということだ。
そこには見知らぬ小学生たちが水遊びしている。
じいちゃんに挨拶しないところから、じいちゃんも知らない子供なのだろう。
「達也、着いたぞ」
「うん」
じいちゃんはランニングシャツと作業ズボンを素早く脱ぐと、大きな岩の上に畳んで、ふんどし姿になって達也を見守った。
上半身は日焼けして赤銅色で、ふんどしが風にそよぐ。
達也はじいちゃんのふんどし姿が見てるだけで恥ずかしいと思いながら、自分は半ズボンを脱いで、下に穿いてきた水着になる。
「よおし、水練開始!」
じいちゃんが号令をかけて、達也が川面に飛び込む。それを追ってじいちゃんも飛び込む。
じいちゃんは昔、海軍で軍艦に乗ってたから泳ぎは得意だ。
達也が足をつけるところにすぐ移動して立つと、立ち泳ぎしながら、じいちゃんがハッパをかける。
「どうした、海だったら足はつかんぞ」
「うん」
「うんじゃない、はい、だ」
「はい!」
「よし、向こう岸まで行って戻って来い」
「はい!」
距離にしたらニ十メートルぐらいだ。学校のプールではニ十五メートル往復をなんとか泳げたのだから簡単そうだが、川では流れに流されるし、息継ぎの時、水が差し込んできたりするから実際は片道ニ十五メートル以上に感じる。
達也は水を蹴ってかいて、クロールで向こう岸に到達した。向こう岸は絶壁で、岩に手で触れて、すぐさま体を翻して、引き返す。
次第に腕が疲れて、息継ぎが短くなり、十分な息を吸えなくなってきた。
へばりそうだが、今、足は底につかないところだ。
がんばらなきゃ。
達也が懸命に水をかくと、すぐ後ろでじいちゃんの声がした。
「達也、がんばれ、もう少し、もう少し」
その声の嬉しいこと。
すぐそばにじいちゃんがいる安心感。
達也はもう一度気力をふりしぼって、水をかいて、元の岸辺に戻った。
じいちゃんに手助けされずに、泳ぎきったことで達也は満面の笑みを浮かべた。
「えらいぞ、達也、ようやったな」
じいちゃんも嬉しそうに笑った。
(ホタル 中編 に続く)
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