銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

 その木曜日は公休日だった。
 僕の仕事は私鉄の運転士なのだ。彼女の里香はOLなので土日が休み。
 運よく土日に公休日が当たらないとたっぷりデートもできない。
 もっともそれは悩んでもどうしようもないことなので平日の公休日の昼間は近場の露天風呂を楽しむというのが僕の休みの過ごし方である。

 その日はバレンタインという日本特有の風習で里香から「仕事終わったら行くから」と通告されていた。そこで僕は帰りが遅くならないように、以前数回訪れたことのある手近な奥多摩の露天風呂を目指した。
 最寄り駅を降りて、バスに乗り換えて山道を上った。露天風呂の最寄りに着く前に四人いた乗客は僕ひとりになっていて僕は降りる時に嫌な予感に捉われた。
 足を地面に着いたとたん濃い灰色の空からみぞれ混じりの雨が降りだした。
 
 急いで露天風呂に飛び込もう。
 湯舟に入ってしまえば少々の雨や雪に降られても露天風呂の熱と湯気が吹き飛ばしてくれることは経験でわかっていた。
 バス停から露天風呂まで徒歩で五分ほどの距離を僕は猛然とダッシュした。

 玄関が近づいてきて、扉に手を伸ばしかけた僕は固まってしまった。
 硝子の内側に「本日臨時休業」の札が下がっていたのだ。
「暗澹たるってやつだな」
 僕は人心地つけるためナップザックからおにぎりとコーヒーを取り出して食した。

  ◇

 バスの時刻は一時間に一本で、あと五十分は待たなくてはならない。
 幸いバス停の標識の脇には屋根と三方に壁を立てた小屋のようなものがあって中に二人がけのベンチがあった。僕はベンチに腰をおろして、降りしきるみぞれが次第にスピードを弱めるのを感じた。よく見るとゆっくりと落下するそれは雪になっている。
 一昨日の昼休みにチラ見したテレビでは気象予報士は雪は昨日水曜が危ないと言ってたのだ。それで昨日は結局降らず、今日の予報も曇り時々雨だった。
 露天風呂に辿り着けなかったせいかどっと疲労感が溢れて僕は座ったまま居眠りをしてしまったらしい。

 ハッとして目を覚ますと辺りは薄暗く、目の前の道路には雪が十センチ積もってる。
 やばいな、これではバスも来れないぞ。
 腕時計を見るともう午後五時になろうとしている。
 歩いて行ったらどれぐらいかかるんだ、三時間、四時間?
 いや、その前に完全防水仕様ではないこの靴で歩いてたら凍傷になりかねない。
 里香に今奥多摩のバス停で、まだまだ帰れないと連絡しなければ。
 僕は急いでスマホを取り出したが電波が圏外だ。
「いよいよ暗澹たるってことだ」
 僕はひと晩をこのバス停の小屋で明かすのが賢明だと考えた。
 
 その時、坂道の上の方からキュッキュッと雪を踏みしめる音がした。
 僕が視線を向けると、クリーム色のコートにクリーム色の長靴という格好でロングヘアーの女性が近づいてくる。顔は俯いているので目は見えないが二十代後半だろうか。
 腕にバッグを持ち水色の傘を持っている。
 彼女はキュッキュッと雪を踏んで僕のいる小屋の中に入って来て隣に腰掛けた。
 僕は忠告した方がいいと考えて言った。
「バスは当分、もしかしたら明日まで来ませんよ。雪国ならどうということない積雪だけれど、ここは一応除雪対策のなってない東京都ですからね」
 彼女は俯いた顔をさらに下げて「ありがとうございます。少しここにいていいですか」と言った。透明な艶のある声だった。
 目は黒い前髪と長い睫毛に隠れて見えないが、紅いルージュの口は形もとてもきれいで美人に違いないとわかった。
「もちろん構いませんよ。あ、よかったらコーヒーを飲みますか? そろそろ温もりがなくなりそうなんだけど」
 僕は携帯ポットをナップザックから取り出して見せたが、彼女は首を横に振った。
「結構です」
 しばらく沈黙が続いた。降り積もった雪が人から言葉を奪ってしまうんじゃないかと思えるような静けさが広がっていた。

  ◇

 やがて彼女が俯いたまま唐突に口を開いた。
「あの、山奥に住む私に誰かを好きになることって可能でしょうか?」
 僕は驚きながら言葉を選んだ。
「貴方がどこに住んでいようとそんなこと関係ありません。貴方はとても美しい方だし、貴方に告白されて嫌う男性なんていませんよ、断言します」
 彼女は俯いたまま聞き返した。
「本当に? そう思いますか?」
「ええ。貴方みたいな美人がこんな山奥にいる方が不思議です」
 そこで彼女は俯いたまま聞いた。
「今日が何の日かご存知ですか?」
「ああ、バレンタインのことですか」
「女から告白していいんですよね?」
「そうですね。もっとも海外じゃ男も告白するし、チョコなんか流行らないけど」
 そこで彼女はバッグを開いてリボンのかかった大きなハート型の包みを僕の膝の上に差し出した。
「あなたを好きになりました。受け取ってください」
 僕は驚愕した。
 たった今、会ったばかり、というか、ただの通りすがりと言っていい男に突然に恋を告白するなんてあり得ないことだ。
 僕が唖然としていると彼女は俯いたまま言う。
「貴方はたった今、私に告白されて嫌う男性なんていないと保証してくれましたよね」
「そ、それは……」
「私は貴方を好きになったのです。そして貴方も私を嫌いでない」
 僕は彼女の論理に抵抗した。
「僕には彼女がいるんです。貴方ほど美しくはないし、二の腕もポチャとしてて、料理も得意じゃないけど僕のことをとっても想ってくれてるんですよ。だから僕は貴方の気持ちを受け取れないんです」
「しかし貴方は私の方が美しいと思ったわけですよね。ならば自分の気持ちに正直に私の気持ちに応えてくれてもいいでしょ? 男の本能は美しい女に告白されて見過ごしたりしないでしょう?」
 僕は目をつぶった。脳裏に里香の笑顔が浮かんだ。
 僕は急いで首を左右に振った。
「すみません」
 彼女は俯いたままふっと吐息を漏らした。
「彼女を捨てられないんですね。わかりました」
 彼女がそう言ったので僕は安堵して「すみません」と言った。
 それにしてもこの女はどうして目を合わせないんだ、と僕はちらっと考えた。もしかして目が血に飢えた吸血鬼のように血走っていたり、いやまさかな。

  ◇

 だが、そこで彼女はあきらめることなくさらに切り返して来た。
「ただ貴方の言うようにバスは明日まで来ないと思います。貴方の彼女に迷惑はかけないから、ひと晩だけの秘密として私を抱いてくれませんか?」
 僕は応えられなかった。
 彼女は顔を手のひらに伏せて泣き始めた。
 僕はいよいよ途方に暮れる。
 彼女のしくしくと泣く声が木立の梢をヒューヒューと吹き抜ける風音に重なり、僕の心を冷たく苦しめた。

 もちろん付き合っていながら一夜の浮気をしてそれを隠し通した経験を持つ人間は男でも女でもたくさんいるだろう、見渡す限りの積雪の雪の結晶の数ほどに。
 だけど僕は里香に隠し通す自信がなかった。
 僕は泣いている彼女の手袋をした手を握って言った。
「一夜の浮気をする人が雪の結晶ほどいるとしても、恋を告白しても叶わないことだって満天の星の数ほどあるんだ。美しい君の堂々とした告白は誇っていいことだよ」
 僕は両手で彼女の頬を挟むようにして顔を上げさせた。
 彼女の目は吸血鬼の血走ったものではなかった。
 それどころか、この上なく艶やかな黒真珠のような瞳に透き通ったかすかな光が宿っていて、それと同時にまだ男を経験したことのない澄みすぎた瞳だった。
 僕は彼女の瞳に凄まじい引力がこもっているのに気づいて視線を逸らそうとした。
 しかし、もう遅かった。
 僕は彼女の手を握っていた手にきつく力を込めていた。
 しかし、彼女の引力は突然に喪われた。
「ああ、あなたの命数が突然になくなってしまった」
 彼女は寂しそうに呟いた。
 僕は聞き返す。
「メイスウってなんだ?」
「寿命です。さっきまで未来何十年も満ちていたあなたの寿命が、今は今日限りしかないのです」
 彼女は辛そうに説明したが、僕は取り合わない。
「君にそんなことわかる筈がないじゃないか。寒いだろう、もっとこっちにおいで」
 僕は自分でもわからぬまま彼女を抱きしめようとした。
 すると彼女と接触している顎や胸や膝が氷に触れたように凍えた。
 彼女の美しい目から涙が溢れると瞼を出たところですぐ凍りついて小さな硝子玉になって下に落ちた。
「やっぱりあなたでも無理なのよ」

 彼女は言った。
「何百年生きてきて、私と結ばれた男は一人もいないの。中には寒さを我慢して抱こうとしてくれた男も何人かいたけど結ばれる前にことごとく凍死したわ」

 僕は口を動かしたが、ユキオンナという声は出てくれなかった。
 胃腸も肺も心臓も舌も目玉も脳も凄まじい速さで凍りそうな感じだ。
「離してっ」
 彼女は思い切り僕を突き飛ばすと駆け出した。
 僕も後を追い、五、六歩駆け出したが、彼女はカモシカのように素晴らしいスピードで逃げて行き、とうてい追いつけそうになかった。

 ベンチに戻ると彼女が渡そうとした大きなハート型チョコレートが落ちていた。

 その晩、空腹に負けて僕は彼女のチョコレートを齧った。
 それは舌には甘いのに、心にはとてもしょっぱいチョコだった。   了 
 
 



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gingak
  • Author: gingak
  • 銀河 径一郎
    (ケイイチロー・ギンガ)
    好きな言葉は『信じる』。
    飛べなくても頭が悪くても
    地球人も宇宙人だ(笑)

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