銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

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 門村は朝陽を浴びて部屋が暑くなりだすとエアコンのスイッチを入れた。
 そして二ヶ月ぶりの休日を布団の中でごろごろ過ごす幸せを噛み締めていた。
 門村は布団の中で寝疲れした体を時々ごりごりとひねりながら12時までぬくぬくするぞと決めていた。

 と、唐突に電話が鳴った。
 門村の部屋についてる固定電話は警電、つまり警察専用回線だ。
 もーっ、こっちは休みだぞ。労働基準局に訴えてやる。
 門村は罵りながら警電の受話器を持ち上げ、耳につけた瞬間には真面目な声になる。
「はい、門村です」
「非番のところすまんな。人質立て篭もりだ。すぐ来い」
「了解」
 非番じゃない、休みだよ。門村は受話器を置いてから虚しく反論した。
 それから数秒布団を未練がましく眺めた後、意を決して布団を丸めて一本背負いで隅に片付けた。
 ワイシャツとズボンを着て、スーツを羽織り、林檎に齧りついたまま、受令機のイヤホンを耳に突っ込む。そして玄関を飛び出して同じ寮の刑事課の先輩須貝刑事とともに車に飛び乗った。

 人質立て篭もりなんて東京都内でもそうそうあるもんじゃない。無線では署の無線指令と警視庁の無線指令の声がまるでテロでも起きたかのようにがなり合っている。それで大体の状況は掴めた。
 場所はあらかわ遊園という区営のファミリー向け遊園地で、一見してヤクザ風のサングラスの男が女児を連れて遊具のコーヒーカップに乗り込んだというもの。係員や居合わせた客は女児が「知らないおじちゃん」と何度も呼んでいるのを聞いたという。
 そこで係員は誘拐事件だと直感、コーヒーカップを止めてヤクザ風に「女の子を離せ」と言ったのだが、ヤクザ風に「死んでも離さない、カップも二度と止めるな」と言い返されて、仕方なく運転を再開したという。

 無線が更に続報を入れてくる。
「尚、マル被(被疑者)にあってはアルコールで酔っている状態。ジャケットの下にタオルに包んだダイナマイトらしき棒を四、五本隠し持っている模様」
 門村はハンドルを握ったまま「やばいすね」と言った。

 ◇

 現場に着くと、既に警視庁捜査一課第一特殊犯捜査のバンを筆頭に、パトカー、覆面車が十数台連なっていた。
 立番の制服警察官に挙手の敬礼をして黄色い規制線のテープをくぐった門村たちは「すみません」と到着を知らせて、捜査一課の覆面指揮車のボンネットを囲む本庁の赤バッジの刑事たちと我が荒川区尾久署のバッジなし刑事たちの列に加わる。

 そこで犯人と交渉してきたらしい本庁の刑事が険しい眼つきで報告を始めた。
「マル被は携帯電話は所持しておらず、交渉用に貸そうと言っても突っぱねました。さらに要求を訊ねたところ、マル被が運転手を要求してきました」
 本庁特殊犯の係長が声を荒げた。
「タクシーを用意しろという意味か?」
「それが私がタクシーを手配しろということかと訊ねたところ、いや、このコーヒーカップの運転手に決まってるだろ、ボケ、と答えました」
 刑事たちの目が点になった。
 本庁の班長らしき警部補が聞き返す。
「コーヒーカップなんて固定されてんだろ、運転手なんて必要ないだろ」
「まあ、一応テーブルをまわすと回転するので、強いて言えばそういう役目かと」
 特殊犯の係長が鼻を鳴らした。
「ふん、ヤクでもやって頭が腐ってるんじゃないのか」
「もしかしたら酔っ払って、自分が何しでかしてるか自覚がないかもしれませんな」

 特殊犯の係長がまとめにかかる。
「とにかく人質の救出が第一だ。ここはマル被の要求に沿って運転手を出してマル被に隙が出るのを狙おう。こっちはコーヒーカップ運転台の係員出しているんだから、運転手は所轄さんから出してもらおうか」
 特殊犯の係長のずるい提案に所轄の尾久署刑事課長は「はい」と頷くしかない。犯人がダイナマイトを持ってる以上、コーヒーカップの運転手は最も危険な役目になる。そんな危ない役を貴重な本庁の刑事にさせられないというわけだろう。
 刑事課長は部下の顔をざっと見渡した。こういう場面は名乗り出る人間がいなければ、結局独身の若い刑事が指名されるのが暗黙のルールだ。つまり確率は3分の1ぐらいだ。その中で一番若いのが門村だ。門村刑事はそっと手を挙げた。
「お、門村、やってくれるか」
 そう言う刑事課長の目が潤んでるような気がする。ま、指名するプレッシャーから逃れられたのが嬉しいという単純な理由かもしれないが。

 本庁特殊犯の係長が早速門村刑事に指示を出す。
「うん、では君。まずマル被の所持する凶器、爆弾を全て確認してほしい。暗号は爆弾は赤、拳銃は白、刃物は黄色だ、これをチューリップの唄で教えろ」
「えっ、チューリップの唄ですか?」 
「ああ、女児に歌ってやるように装うんだ。爆弾だけなら、並んだ並んだの後に赤、赤、赤だ。それなら自然だろ」
「ばれませんか?」
 門村刑事の問いには答えずに特殊犯の係長が言った。
「とにかく君が一番近くで確認できるんだから頼んだぞ」
「はあ」
「それから君はマル被の名前、係累について聞き出せ」
「ケールイ?」
「親とか妻とか、他に義兄弟とか親分とかマル被の心の拠り所となり得る人物だ」
「了解。聞き出します」
「うむ。それから事態が切羽詰って射殺を要求する場合の暗号はちゃんとはっきり発音してハックションだ。配置された狙撃手が直ちにマル被を射殺するから君は低い姿勢を取りなんとしても女児を保護しろ」
「あっ、あの本当のくしゃみが出そうな時はどうしたら?」
「本当のくしゃみが出る時はヘクションとかヒクションにしとけよ」
「は、了解です」
 門村刑事はやれやれと思った。もしかしたら今日殉職かもしれないな。そう思って門村は打ち消した。いや、今日は休みだったんだぞ。休みに死んでたまるか。

 ◇

 門村刑事は両手を挙げた状態でゆっくりとコーヒーカップに歩み寄った。大き目のTシャツの下には防刃防弾ベストを着用しているのがバレバレだが、危険な運転手なのだからそれがばれても問題ないだろうという判断だ。
 カップの舞台は大きなポットのまわりをゆっくりと回転していて、その中のひとつのカップだけに客が、つまりヤクザ風の麻のジャケットのサングラス男と幼稚園ぐらいの目のぱっちりした女児が乗っている。
「もっとー、もっとー」
 女児は無邪気にはしゃいでいて、赤ら顔のヤクザ風は座席に背を凭れ掛かってる。
「こんにちは。運転手です。そちらに行ってよいですか?」
 門村刑事が両手を挙げたまま訊ねるとヤクザ風は頷いた。
「ああ、こっちへ来て。そんなに速くないから回ったままでも来れるだろう」
 ヤクザ風の男の案外まともな口調に門村刑事は少し安堵してた。それほど酔ってはいないようだ。
 門村刑事はカップの回転舞台の外側の手すりをまたいだ。そして件のカップが近づくのを見計らって素早く駆けて、カップの外周にしがみつき、座席に乗り込んだ。
「どうもお待たせしました」
「ようこそ、コーヒーカップへ」  
「で、どう運転すればいいんですか?」
「ああ、あまり速く回らないように押さえててくれるか」
「わかりました」
 門村刑事はここで、はしゃいだ女児がポンポンとテーブルを回すので、それを止める役目をさせられるのかもと気づいた。
「それにしても暑いですね?」
「まったくだ」
「あのう、旦那さんはなんて名前なんですか?」
「俺は筒崎ていうんだ。筒崎建夫。あんたは?」
「筒崎建夫さんですか。私は門村です。門村修二」
 これで隠しマイクを通してわかった名前が直ちに照会されてるだろう。
「このお嬢ちゃんはどこで見つけたんですか?」
 門村刑事が訊ねると筒崎は声を荒げた。
「見つけたんじゃない。俺の娘だ」
 ここで女児に確かめたいところだが、もう一度「知らないおじちゃん」と答えられて刺激してはまずい。名前を聞いて苗字が違ってもやはり筒崎は逆上するかもしれない。
 門村刑事は凶器を隠してないか素早く筒崎を見詰めたが、膝の上にタオルに包まれた何かがあるのはわかるが、中身は目視はできない。
 ちらりと運転小屋の制服の係員に変装した本庁の刑事を見遣る。彼はいかにも手持ち無沙汰という風に、操作盤を見ながら鼻の下を指でこすった。そのままという合図だ。

 それからしばらく趣味は何とか、釣りはするか、野球やサッカーの話題を振ったり、海と山ならどちらに行くかなど他愛ない雑談で時間を潰しながら、門村刑事は親や妻について尋ねたがはぐらかされて答えは得られなかった。係員の本庁刑事からのサインも変わりない。しかし、こうしてる間もこの遊園地のどこかにいる複数の狙撃手は筒崎に照準を当てたまま指だけをトリガーからずらし、じっと気の遠くなるような待機時間を緊張とともに過ごしているのだ。
 いつの間にか4時をすぎて、女児もはしゃぎ疲れたらしく眠り込んだ。しかし、あろうことか知らないおじちゃんの胸を枕にしがみつくようにすやすやと寝てしまったので却って警察は手出しができない。
  
 突然、ヤクザ風の男が微笑んで門村刑事に言った。
「運転手さん、この乗り物で3年前に行ってくれないか?」
「そ、それは……」
 門村刑事は返事に窮した。行けないと明言して相手を否定するのはタブーだ。
「無理だよな。わかってる。
 3年前は、俺だってここに来る普通の家族連れと同じだったんだ。ところが突然に会社を解雇されたんだ。外人が社長になって半年も経たないうちだ。13年も勤めたんだぞ。それが雀の涙みたいな端た金でクビだ」
「そうでしたか」
「仕方なくずっと職安通いさ。だがある日、離婚届けを突きつけられた。女房からもクビにされたんだ、ひでえ話だ」
「それは、なんとも、お気の毒でした」

 その時、コーヒーカップに向かって透明の盾を持った刑事たちが近づいて来て20メートル手前で止まった。刑事たちにかばわれて奥から30代半ばの女性が顔を見せてメガホンで叫んだ。
「あなた、何、馬鹿なこと」
 そこまで叫んだ女は刺激しないようにと傍らの本庁の警部補に注意されたらしく、改めて話しかける。
「あなた、もうたっぷり過ごしたでしょ。約束通りさやかを返して頂戴」
 そこで筒崎は怒鳴った。
「何で離れたところからスピーカーで怒鳴ってんだ。近くに来れば普通に返してやる」
 そこで刑事と元妻たちはさらに5メートルほど近づいて止まった。

「ちゃんと普通に話せるところまで来いよ」
 筒崎は怒鳴ったが、それ以上近づいて来ない。万が一の場合、それ以上接近するのは危険だと思われているのだ。
 筒崎の怒鳴り声がかえって近づいたらダイナマイトを爆発させる気かもしれないと受け取られている。
 しかし、と門村刑事は思った。
 元妻が約束と言ったことからも、そもそも筒崎は誘拐したのではなさそうだし、立て篭もったわけでもない。娘が父親から無理じいされたり、暴力を振るわれた形跡も見当たらない。単に係員やまわりの客が筒崎はヤクザ風だし、女児も知らないおじちゃんと呼んだから女児を誘拐したのに違いないと思い込んで通報したのではないか。
 ではなぜ娘は父親を「知らないおじちゃん」と呼んだのか? 
 ダイナマイトは果たして本物なのか?

 門村刑事は訊ねた。
「筒崎さん、今日はさやかちゃんとの面会日だったんですね?」
「そうだ、第3日曜日の9時から3時が俺のささやかな幸せ、唯一の生きがいだ」
 毎月巡るささやかな幸せ。どん底にあろうと筒崎がわざわざそれを娘ごと破滅させるとは思えなかった。
 だが今、正に筒崎は警察に疑われて、狙撃手に照準を当てられている。もしかしたらもう一度怒鳴ったら射殺されるかもしれないのだ。

 門村刑事は決心して筒崎が怒鳴る前に声を張り上げて歌った。
「咲いた、咲いた、チューリップの花が」
 さやかちゃんが目をこすりだした。
「並んだ、並んだ、赤、白、黄色」 
 筒崎が複数の凶器を持ってると伝われば、死角にある凶器がさやかちゃんにあてがわれているかもしれない。そうとわかれば警察もいきなり射殺はできない筈だと思いついたのだ。さやかちゃんも頭を傾げて手を肩で交差させて歌い出した。
「どの花見てもきれいだな~♪」
 微笑む筒崎の一瞬の隙を突いて、門村刑事は筒崎の膝からタオルの包みを取り上げた。
 それでも筒崎は別に慌てる様子もなく、娘の歌に眼を細め微笑み続けている。
「咲いた、咲いた、チューリップの花が、並んだ、並んだ、赤、白、黄色♪」
 
 門村刑事がタオルを開くと、そこにあったのは空になったのが4本とまだ食べてないシャーベットが2本の計6本のチューブだ。
「そもそも事件じゃなかったんだ」
 門村刑事は隠しマイクに向けて怒鳴ると、コーヒーカップを飛び降りて元妻に駆け寄った。
 そして門村刑事は元妻の襟を掴んで言ってやった。
「あんたね、本当の父親を、知らないおじちゃんだなんて、そんなふうに呼ばせる教育してたら娘はやがてどんなに苦しむか考えられないのか?
 今はどん底かもしれないが、一度は生涯まで誓った相手がたまに会った娘に知らないおじちゃんとまで呼ばれて一体どんなに傷ついてるか。それが想像できないなら、あんた、人間じゃないぞ」
 元妻は目線を伏せて唇を噛んだ。

 娘はしばらく父親の膝で手振りをつけてチューリップの唄を歌っていた。  了
 




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 広告会社に入ってまもない頃、僕はクライアント企業の協賛した招待試写会の受付を手伝った。
 当選ハガキと引き換えにチラシを渡すだけで会場の映画館スタッフだけで足りる仕事だった。
 ただロビーで先輩がお得意企業の人間に素早く駆け寄り挨拶する時に「あそこでモギリをしてるのがうちの新人の北丈です」と話して、いかにもうちの会社がちゃんと仕事をしてると見せるためだけに僕はいた。
 僕は「残業代は出るんでしょうね」と聞いて先輩に頭をはたかれた。
「これは接待の一部。どこの会社が接待に残業代出すんだよ」

 僕は憂鬱な顔をしていたと思う。
 しかし、まもなく先輩が挨拶しに近寄った相手の顔を見た時、僕は嬉しくなって駆け寄った。
「渡辺さん、お久しぶりです!」
「やあ、キミはたしか北丈君」
 ブラウンのジャケットを着た相手は目を細めて僕に微笑んだ。
 先輩は少し不機嫌になった。
「お前、渡辺さんを知ってるのか?」
「ええ、僕は渡辺さんのお化け屋敷でバイトしたことあるんです」
「なんだ、そういうことか」
「キミは広進アドに入ったのか、やあ元気で何より」
 渡辺さんは僕の手を取って握りしめた。
「じゃ、渡辺さん私はこの辺で」
 先輩は僕に相手を任せてどこかに行ってしまった。 

 ◇

 僕が渡辺さんの夏季限定のお化け屋敷でバイトしたのは3年前の夏のことだった。
 大学生のうちに思い出になるバイトをしたくて、念願のお化け屋敷で働いたのだ。
 まあ、念願というと大げさすぎるけど、竹柵で仕切られた通路の内側から怖がる観客を眺めるというのは面白い体験だった。

 具体的に言うと僕は小さなお堂の扉に潜み、観客が通りかかるや、レバーを引いて油圧で扉を回転させて登場する。
 ちょうど小学生ぐらいの姉弟ペアが曲がり角に来たのが鏡に見える。こちらは暗がりになってるので観客からこちらの様子がばれる心配はない。
 僕は姉弟ペアがお堂の灯篭に浮かぶ蝶の影絵に気づいたのを知る。
「わっ、蝶が動いた」
「ば、馬鹿ね、ただの影絵よ」
 姉が言うのと弟が泣き出す声が重なる。
「怖いよ~、もう帰ろうよ~」
 弟は泣きながら主張する。そこで僕はレバーを引いた。
 バタン!
 扉が回転して、僕の登場だ。
 緑と赤のスポットライトが白い三角の額烏帽子をつけた僕の顔を照らし出す。
 僕は「ギャーッ」と言いながら溺れた時のように手をもがいた。
「ギャアアアア」
 姉弟は僕の声の数倍の声量で悲鳴を上げた。
 そして走り去ろうとするのだが、弟の足がすくんだらしい。
 姉は僕をちらりと見てきつく目を瞑り、弟を叱った。
「逃げるよ」
 ようやく姉弟は揃って奥へと駆け出し、僕は苦笑しながら見送った。

 姉もおそらく僕がバイトの人間ということは頭では理解してるだろう。
 ただ頭でわかっていても、観客の殆どはお化けが出たら吃驚しようという、僕らお化けにとって非常に協力的な態度を取ってくれる。中には片目をつぶったままとか、指で目を覆って隙間からこっちを見るという可憐な鑑賞態度の客もいるし、その期待だけでも僕らお化けとしては存在価値を認められて悦に入るわけだ。

 その日も遅番のバイトを終えた僕はいつものように控え室で冷えたドリンクを飲む。バイト中はトイレにいかないように水分を控えるので、どうしても終わると水分補給したくなるのだ。
 控え室は井戸で幽霊をやってる女の子とふたりだけだ。もう一人技術というと大げさだが、風を吹き出したり、火の玉を飛ばしたり、こんにゃくを観客の顔の辺りにぶら下げるなど機械仕掛けのタイミングを調整するバイトもいるのだがそいつはさっさと帰ってしまうし、社長の渡辺さんは売り上げの計算と設備の点検補修が忙しく滅多に顔を見せない。 テーブルの向かいの井戸の幽霊役、女子大生香織はドリンクを飲みながら言った。
「今日、男が逃げたカップルいたでしょ」
「そう? 俺のところでは逃げてなかったけど、あの妙に反応が早かった髪染めてた男のことかな?」
「それそれ。男って馬鹿ね。彼女にいいところ見せて、ついでにどさくさまぎれに普段触れないところを触ろうとか考えてんでしょ」
 僕は抗議するのも変だと思い「あははは」と力なく笑った。
「彼女を放って逃げるんじゃ、あのカップルはもう終わりだな」
 香織は男を厳しく断罪した。
「それにしても私にあんなに怯えなくてもいいじゃない」
 僕は内心笑った。どうやら男が自分に対して過剰に怯えたのが許せないらしい。
 香織は右の眉のあたりから頬にかけて爛れて目が潰れた特殊メークの皮をつけて、古い井戸から油圧でスーッと上がり「恨めしや~」と呻くのだ。僕も一度見たが、お堂の僕よりずっと怖い印象だった。
「そりゃあんな不気味なメークつけてれば誰でも怖がるよ」
 僕がフォローしてやると、香織は頷いた。
「それはそうだけど。素顔じゃ男どもが擦り寄ってきてお化けにならないもん」
 僕が突っ込みの言葉を捜しているうちに、香織は「じゃあまた明日」と言って帰ってしまった。

 ◇

 翌日、僕は大失敗してしまった。
 夕方近くちょうど客の流が途絶えたところで中学生ぐらいの女の子が一人でぽつんとやってきた。普通、女の子の客は誰かと組んで入るものだから珍しいなと思った。
 そこで僕はタイミングを取ろうとして慌ててしまった。女の子が急に小走りで過ぎようとしたからだ。
 扉はまわったが僕は扉についてる握り棒を掴みそこねていて、遠心力に振り回されてお堂の庭のセットに落ちて、何本か立っていた卒塔婆をなぎ倒した。
「痛ーえ」
 僕が思わずぼやくと、女の子はしゃがみ込んで僕を指差して笑った。
「あははは、お兄さん、ドジだな」
 女の子は太極拳で見かける黄色い上着に黄色いズボンという変わった格好に頭の左右で髪を丸い球に丸めてピンクのリボンで結っていた。

「ごめんよ、今、やり直すから」
 僕が場違いな謝罪をすると、女の子は頷いた。
「今度はちゃんとしてね」
 僕は慎重にレバーを引いて、扉の回転とともに現れて、「ぎゃー」と悲鳴を上げて溺れるようにもがいた。
 もっともどんな顔のお化けが出るかばれてるのだから、女の子が驚くことはない。
 女の子はパチパチとお世辞みたいな拍手を寄越した。
「お兄さん、今度はよかったよ」
「どうも」
「じゃあがんばってね」
 女の子はそう言って立ち去った。 

 その日の仕事が終わり、僕は表の自販機でドリンクを買おうとして小銭入れを落としたことに気がついた。
 もしかしたら扉に振り落とされた時かもしれない。当然仕事中は幽霊の着物だが、着物の下はコットンパンツを穿いていて、小銭入れはそのポケットにあったのだ。
 僕はお化け屋敷の中に入って、お堂の庭のあたりを探した。
 すると思った通り、小銭入れが落ちていた。
 それを拾って帰ろうとしたところ、通路にまた太極拳風の服の女の子がいた。
「やあ、まだいたの?」
「うん」
「家に帰らないの?」
「ここが家だよ」
 僕は「ここが?」と聞き返しかけて思いついた。
 もしかしたら社長の渡辺さんの一人娘が中学生と言ってたからそれかもしれない。ちょうど中学は今日から夏休みの筈だ。女の子の服は中国のゾンビであるキョンシー役などで出演するためじゃないかと考えて納得した。
「キミはもしかして渡辺さんの娘さん?」
「あ、そう、渡辺葉奈、葉っぱの葉に奈良の奈」
「やっぱり。じゃあずっとここにいるんだ」
「うん、でもここのお化けは全然怖くないから大丈夫だよ」
 葉奈はそう言って笑い、僕も返した。
「だね。じゃあまた明日」
「うん、またね」
  
 ◇

 翌日も葉奈は暇な時間にやって来て、僕のつまらない演技に拍手をくれた。
「じゃあ今日は私の芸を見てくれる」
「うん」
 僕が頷くと葉奈は「じゃ始めるね」と言った。

 葉奈はピョンと跳ぶと両手を水平に開いて竹柵の太さ3センチほどの横棒の上にぴたりと止まった。それから片足を後ろに撥ねあげたかと思うと背中を逸らしてYの字の形になって静止した。
 なんて柔らかい体なんだろうと僕は感心した。 
 そして葉奈はそのまま足の付け根を中心にして前方に一回転し、それをさらに二回、三回と連続してゆく。
 平均台でもそんな回転したらすごいだろうが、葉奈が足をついているのはそれよりも狭く丸まった竹だから驚異的な技だ。
 僕は思わず拍手していた。
 葉奈は今度は逆の後ろに向かってトンボ返りするように回転して元の位置に戻り、左足で体を支えたまま右足を背後の宙に下げてお辞儀した。
 僕は「すごい」と叫んで拍手した。

 だがピョンと床に下りた葉奈は満足いかなかったように小首を傾げた。
「どうかした?」
 僕が問いかけると、葉奈は独り言のように言った。
「ちゃんとできるんだけど」
 そして葉奈は僕に挨拶もせずに通路の先に消えた。
 それからも毎日、葉奈は僕の前で演技を成功させたが最後はやはり浮かない顔で帰って行った。

 こうして大学の夏休みが終わる頃にその年の営業は終わった。

 ◇

「あのお化けのバイトは面白かったです」
 僕が言うと渡辺さんは思い出したように言った。
「そうそう、キミと同じ時期にバイトしてた女子大生いたろ」
「あっ、香織さん?」
「その彼女ね、今年もやりたいって言って来てくれてね。助かるよ」
 僕は噴き出しそうになった。怖がる客には文句言ってたくせに、結局、お化け役が好きなんだなあ。
「もうキミには頼めないのが辛いところだが」
「夏の頃は案外暇になってるかもしれませんからその時は」
「何言ってるんだよ」
 渡辺さんは僕の冗談に笑った。

 不意に渡辺さんは横を向いて、ロビーから近寄ってきた女子高生に手を振った。
「紹介するよ、娘の芳美だ」
 女子高生は笑顔で「こんばんは」と挨拶を寄越す。
 僕はゾッとして蒼ざめた。

 じゃあ、あのお化け屋敷で俺が会ってた葉奈は誰なんだ。
 あそこに住んでると確かに言ったのだ。

「どうしたんだ、北丈君、顔色が悪いぞ」
 僕はわなわなと唇を震わせてたが、なんとか渡辺さんにお化け屋敷の中で葉奈に会っていたことを告げた。
 すると渡辺さんは娘にあっちで待ってなさいと命じて僕に向かって声を潜めた。
「偶然だよ。その娘の苗字は私と関係はない。
 あそこの場所は夏場以外はスケートリンクやサーカスを興行してるだろう。
 キミが見たのはきっとサーカスの娘だよ」
「サーカスの?」
「ああ、たしか5年ぐらい前に8メートルの高さの綱渡りの練習中に落ちて運悪く命綱も外れて、首の骨を折って亡くなった娘がいたらしい」
 
 僕は話を聞きながら悪寒に背筋ががくがくとしていた。
 とその時、すっかり忘れていた葉奈の声が囁いた。
「ちゃんとできるんだけど」

 僕はいよいよ悪寒が全身を震わすのをただ耐えるしかなかった。   了





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「ご馳走さまでした」
 乙羽(おとは)が両手を合わせると、太郎の母は焼き魚の残った皿を持ち上げて形ばかりたしなめた。
「また乙羽さんはたんと残して。遠慮せんでええんよ」
「なんだかすぐお腹がいっぱいになって」
 乙羽は色白の頬に笑みを浮かべて、傍らでむしゃむしゃと焼き魚をたいらげている太郎を眩しそうに見詰めた。太郎と太郎の父が漁から帰ってから始まる、この遅めの朝食の光景を乙羽は好きだった。漁は手漕ぎの小さな舟を使って行なう村総出の追い込み網だ。
 
 ひと月前、乙羽はこの漁村の入り江にかかっている橋の向こう岸からやって来てふらふらと太郎の家の前まで辿り着いたのだ。
 そこで水を所望するなり乙羽は気を失い倒れてしまった。気が付いた乙羽は道中のどこかで頭を悪く打ったためか、自分の名前ぐらいしか思い出せなかった。
 そこで太郎と母親が気の毒がって乙羽に泊まってゆけと言ってくれたのだ。
 帰る家すら思い出せない乙羽は太郎たちの言葉に甘えるしかなかったのだが、太郎という名前を聞いてからは心の中には別な思いがあった。

 江戸時代に入って間もないこの頃、すでに浦島太郎の話は「御伽草子」により人口に膾炙していた。乙羽が忘れなかった自分の名前は親が浦島太郎の乙姫にちなんで美しく育つように付けてくれた名前だ。だから太郎という漁師に助けられた時から乙羽は運命のようなものを感じていたのだ。

 時々、こちらをちらりと盗み見る太郎の視線にも乙羽はときめくものを感じる。
 もしかしたら太郎さんも私を好いてくれてるんじゃないのかしら。
 そのうち、太郎さんに、乙羽よ、わしの嫁になってくれと口説かれるのだ。そこで乙羽は、砂浜に出るだけで暑さに倒れそうな自分に漁師の女房なんて無理ではないかと控えめに答えてみる。すると太郎は、そんなことは少しも心配することないで、乙羽は今日からわしの嫁や、と言われ抱かれてしまうのだ。
 乙羽は密かに溢れ出た想いの勝手ぶりに思わず頬を染めた。

「おう、乙羽よ、家のことはまだ思い出せねえのかい?」
 唐突に太郎の父が問いかけてくると、乙羽は慌てた。
「は、はいっ、生憎とまだ」
「早く思い出してもらいてえな、お前さんみたいな娘をいつまでも置いとくわけには」
 父親が言うのを太郎が遮った。
「乙羽さんは困ってんだ。追い出すような言い草は情けねえで」
「うん、いや、そういうつもりじゃねえで」
「乙羽さん、好きなだけいていいで」
 太郎は日焼けした顔をさらに赤らめてそう言うと、急いで外に出て行った。

 ◇

 質素な造りの家から外に出ると、ぎらぎらと強い日差しが肌を焼くように照りつけて、乙羽はそれだけで眩暈を起こしそうだった。
 太郎は浜で開いた魚を干していた。
 乙羽は草鞋がたちまち熱せられて歩くのもしんどかったが、太郎の側に近づいた。
「太郎さん、さっきはありがとう」
 太郎は乙羽を一瞥し、すぐ魚に目を移したまま言った。
「気にするな」
「迷惑かけて申し訳ないけど、私、本当に行くあてがないのです。仮にあの橋を戻ったところでどこに家があるのか見当もつかないんです」
 乙羽は涙ぐんだ。
「気にするな。今日は天気がいいからきっと向こうの浜がよう見えるぞ」
 太郎は乙羽に顎を振ってついて来るように示した。

 少し歩いて、二人は大きな松の木陰に腰をおろした。
 潮風も木陰だと心地よく感じる。
 そこからは、乙羽が渡ってきたという橋が見渡せた。
 入り江の橋が伸びる先には松林と砂浜が見えていた。小さな家も見える。
「あそこに見えるのが私の家かな」
 乙羽が言うと、太郎は首を振った。
「乙羽さんの家が浜にある漁師の筈がねえ。たぶんもっと先の大きな町の大店か偉い人の家に決まってる」
 私はは橋の向こうの先にあるその家に帰るべきなのだろうか。
 そう考えると太郎と別れる寂しさに居たたまれない気持ちになる。
 ううん、私は……。 
 乙羽は不意に自分の裡に湧き起こった激しい考えに驚いた。
 たとえ家のありかを思い出しても私はもう帰りたくない。帰らないのだ。私は太郎さんとずっと一緒にいたい。
 乙羽の頬に涙が伝った。
 太郎はそれを見つけてまた言った。
「好きなだけいていいで」
 乙羽は太郎の胸に頬を寄せて感激に震えた。

 ◇
 
 太郎の家には玄関の引き戸を開いてすぐの土間と板間、そして両親の部屋と太郎の部屋しかなかった。居候の乙羽はふだんは板間で寝起きしているのだが、掃除や洗濯の時だけ両親の部屋や太郎の部屋に立ち入ることがあった。
 初めて掃除するために太郎の部屋に入った乙羽は隅に置いてある行李の上に、漁師には不釣合いな立派な重箱があるのを見つけた。何だろうと思いつつも勝手に中を見ることは憚られ、乙羽は掃除だけ済まして部屋から出た。

 すると、その日のうちに太郎に問い詰められた。
「乙羽、勝手に俺の部屋に入ったな。散らかしたのがきちんとしてた」
「あ、はい、少しでもお役に立とうとお掃除しただけです」
「まさか、玉手箱は開けてないだろうな」
 太郎は険しい形相で訊ねた。
「ああ、立派な重箱のことですね。もちろん開けたりしてません」
「ならいい。絶対にあの玉手箱を開けるな。絶対だ。いいな」
 太郎の口調がいつになく厳しかったので、乙羽はびっくりして頷いた。
「もちろんです」
 心の中では開けると浦島太郎の話にあるように白髪になるんだろうかと思ってみたが、それなら尚更開けたくなかった。
 それからも乙羽は掃除や洗濯物を取りに太郎の部屋に入ることはあったが、玉手箱には指を触れようともしなかった。

 ◇

 乙羽が太郎の家に来て半年が経とうとしていた。
 乙羽は玉手箱に近寄らず、一方、太郎はいまだに乙羽を口説く気配がなかった。
 夜中にふと目覚めると、太郎と太郎の父親の声がした。
 二人は家の中では聞かれてまずいと思ったのだろう。寝静まった頃に家の外の浜で声を潜めて話しているらしいが、風に乗って声が乙羽の耳にまで届いてくる。

「どうするつもりだ?」
「乙羽さんには好きなだけいてもらえばええ」
「あほたれ、お前は乙羽さんに惚れてるんだろ。確かにあんな色の白い人形みてえな別嬪はこのあたりにゃ居る筈もねえからおめえの気持ちも無理もねえ。
 だがな、おめえが惚れてもどうしようもねえんだぞ」
 父親の声に乙羽は頬が熱くなるのを感じた。
「わかっとるで」
「嘘こけ、夜中に厠に行こうとして見たぞ。おめえ、乙羽さんの横に座り込んで、じいっと寝顔を眺めてたでねえか」
「見られたか。あれは、ほんの気の迷いじゃ」
 乙羽はドキリとした。そんなことがあったのか。やはり太郎は自分を好いていてくれてたんだと知り嬉しくなる。
「このままではいつかおめえ我慢できなくなるぞ。
 もし乙羽を抱いたら、おめえの命はおしまいだぞ」
「わかっとる」
 父親の言葉と太郎の返事で乙羽は凍りつきそうになった。
 どうして、そんなひどいことを言うのだ。
 乙羽は突然噴き出す涙と嗚咽を抑えようと顔をきつく覆った。
「それにあの玉手箱もいい加減に始末しろや」
「わかっとる」
「おめえがあの玉手箱を大事にするせいで乙羽さんはここに来たに違いないぞ。あれさえなけりゃ、ただ助けただけでは乙羽さんはうちに来て居付かなかったと思うで」
「わかっとる、自分で始末するから」
「うん。辛いやろうがな、乙羽さんとはそういう運命なんや、あきらめいや」
「うん」

 乙羽はそれから一睡もできなかった。
 太郎は自分に気がありながら、あえてその気持ちを捨てようとしてるのだ。一体、どういう理由なのだ。抱いたら命がおしまいってどういうことなのだ。どう関係があるかはわからないが、あの玉手箱も捨てようとしている。
 
 ◇

 漁に出かけた太郎と父親が帰る前に、乙羽は干物を焼く準備にかかった母親の目を盗んで太郎の部屋に入り、隅の行李の上にある玉手箱を抱えて床に下ろした。
 そしてごくりと唾を飲み込むと玉手箱の蓋に指をかけた。
 たとえ煙が湧き起こり白髪のお婆さんになってもかまわない。どうせ太郎さんに捨てられるんだ。
 乙羽は自棄になって蓋を持ち上げた。
 少しだけ埃が舞ったが、中は空ではなかった。
 たくさんの潰れた白っぽい破片、丸い皿のような破片。そして白っぽい太い棒、それは足か腕の骨に違いなかった。誰かの骨だ。
 乙羽はどうして太郎がこんなものを大事にしているのかと不思議に思った。
 
 そこへ太郎と父親の笑い声が遠くから近づいてきた。
 漁から帰ってきたのだ。
 乙羽は骨の入った玉手箱を抱えて板間に戻り、それをとんと床に置いた。
 家の板戸を開いた太郎と父親はびっくりして絶句した。

「太郎さん、これは何、誰の骨なの?」
 乙羽が問い詰めると太郎は呟いた。
「見ちまったのか」
「私と関係あるの?」
 乙羽が聞くと太郎は「うん」と頷いて説明しだした。

「あれは大漁の日だった。
 漁から帰った村のもんは皆、上機嫌で網元の家で酒盛りを始めたんだ。
 俺は途中でひと眠りすると断って家に帰ってきたんだが、それからも長々と酒盛りをしたようだ。いや、そこに立派な大人衆が一人でも残っていりゃあ、ふざけた真似などさせなかった筈だ。だが、まずいことに一番の札付きどもだけが最後に浜に残ってまた酒盛りを続けたらしい。
 俺が再び起きて浜に出た時は、奴らがにやにやして立ち去るところだった」
 乙羽は嫌な汗が胸のあたりに伝うのを感じた。

「俺は奴らの過ぎた場所に着物の裾が乱れたまま倒れて泣いている乙羽さんを見て『おめえら、何しでかした』と怒鳴った。
 そうしたら奴らは『大漁祝いにちょいと』なんてぬかした。
 だがその時は奴らを殴り倒す暇もなかった。
 丁度、体を起こした乙羽さんは奴らに汚された衝動と悲しみで桟橋を駆け出して、そのまま海に飛び込んでしまったんだ」
 乙羽は氷柱を心の臓に押し当てられたようにゾッとした。

「俺もすぐ追いかけて飛び込んだんだが、乙羽さんは桟橋の下の杭で強く頭をぶつけたみたいでな……。
 しばらくかすかに息はあったんだがまもなく俺の腕の中で死んだんだ。
 もちろん俺は奴らを半殺しに殴って白状させたんだが、 酔っ払った奴らは山の方から歩いて通りかかった旅の父親とすげえ別嬪の娘の二人組をこっそり追いかけて、人目のなくなったところで父親を襲い海に放り投げ、娘の乙羽さんに悪さしたということだ。
 おめえの父親の遺体はよほど深いところに嵌まったらしく浮いて来なかった。
 仕方なく乙羽さんだけ浜で荼毘にして、その骨を乙羽さんが持ってた玉手箱に収めて預かり、乙羽さんの親戚か誰かが探しに来ないかと待ってたんだ。
 それからまもなくしてうちを訪れたのは親戚ではなく、死んだ筈の乙羽さんだった。
 俺はびっくりして腰が抜けそうだったが、その前に乙羽さんが倒れた」
 乙羽は聞きたくないとばかりに耳を押えて「いやー」と叫んだ。
「嘘、うそだよ。そんなことあるわけないじゃない。私は橋を渡って向こうから来たんだよ。人違いだってば」
「おめえみたいな別嬪を見間違うわけない」
「どうしてそんなひどいこと言うの。
 太郎さんは私をお嫁にしたいんだろ?」
 乙羽は恥も忘れ必死の思いで聞いた。
 太郎は悲しそうな目線を海へと巡らせて呟いた。
「そりゃな。できることなら嫁にしたいが、死んだ人間の幽霊じゃどうしようもねえ」
「嘘だ、嘘だ。私は幽霊なんかじゃない」
 乙羽は家から駆け出した。
 それを太郎が追いかけた。

 大きな松の下まで駆けて来た乙羽はそこで崩れるようにしゃがみ込んだ。
 入り江から橋が向こう岸にまで続いている筈なのに、そこにあったのは短い桟橋で、向こう岸なんて見当たらない。沖はただ海がはてしなく広がるばかりだ。
「どうして? 私の通ってきた橋がなくなってる」
 乙羽は泣きながら太郎を振り向いた。
 太郎は呟いた。
「あれは蜃気楼って言ってな。
 天気のいい暑い日だけに見えるんだ。
 そういや、坊さんが、向こう岸は生きた人間には行けぬ極楽じゃって言っとったな。
 やっぱり乙羽は極楽から来たんだな」
「……太郎さん」 
「乙羽は何も汚れてねえ、今もきれいなままだ」
 乙羽は溜め息を吐いた。
「ありがとうございます。でもようやく思い出しました。私は向こうに帰った方がいい」
「いや、行くな。俺と一緒になれ」
 太郎は思わず乙羽を抱き寄せていた。
 乙羽は頭を左右に振ってから、そっと唇を突き出し、太郎は唇を近づけた。
 しかし、乙羽の顔は、体はみるみる透き通り掴みどころがなくなった。
 太郎の唇に残ったのは風の感触と涙の味だけだった。    了





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gingak
  • Author: gingak
  • 銀河 径一郎
    (ケイイチロー・ギンガ)
    好きな言葉は『信じる』。
    飛べなくても頭が悪くても
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