†††
「鳶さん、隣の奴が本ボシですかね?」
窓の脇に立っている林田は、卓袱台に向かっている鳶松に小声で話しかけた。
鳶松は大きく頷いた。
「あらかた間違いないな。
山川芳円も少し匂ったが、奴には尋常と違うところを絵にぶつけるというはけ口があるからな。しかし、芥川はそういうものはなさそうだ」
「なるほど」
「張っていて尻尾を出しますかね?」
「こういう猟奇の殺しは、繰り返すことが案外あるんだ」
「そうですか、それも困りもんです」
「問題はまだ証拠がねえからな。できればそれも手に入れたい」
「どうやって?」
「たとえば奴がうっかり鍵をかけ忘れて出かけることもあるだろう。そこで偶然聞き込みに来た俺が扉をあけ、倒れていないかと部屋に上がって、たまたま血を抜き取った器具を発見し、捜索令状を取ってきて押収する」
「あっと、今の順序がずるくないですか?」
「なんだ、おめえはどっちの味方だよ」
「あははっ、桜田門に決まってるじゃないですか」
窓の外もだいぶ暗くなってきていた。アパルトメントの玄関に入る人影を監視していた林田が、「鳶さん」と小声で呼んだ。
すると鳶松は玄関の方に移動して、細く開いた扉の隙間から芥川の部屋の前にその人物が現れるかと見張った。
このアパルトメントには上下四部屋ずつ部屋があったが、これまで一階の住人が三組ほど、二階の住人が一人帰ってきたが、いずれも芥川ではない。
そろそろお出ましだろう。
鳶松が心につぶやくと、案の定、マントに学帽といういでたちの学生が芥川の部屋の前に立ち止まった。
扉の真鍮の鍵を開けて、芥川が室内に入ると、鳶松は抜き足差し足で林田のいる奥の部屋に戻った。モダン建築といっても、そこは木造の真似事、薄い壁一枚隔てた隣の音はよく響く。咳払いなど驚くほどはっきり伝わる。
まして、鳶松には用意してきた聴診器がある。
鳶松は聴診器を壁にあてがい、聞き耳を立てた。
バサッと何かを床に放る音がして、ゴトッと何かを置くような音がし、シュッシュッとマッチを擦る音がした。煙草でもつけたのか。続いて金属質の音がした。
退屈な張り込みである。
かの犯行を仄めかしたり、これからの犯行を呟いてくれればいいが、そんな僥倖にありつけるかどうかは鳶松も自信が持てない。
ただ淡々と張り込む。それだけの地道な作業が捜査の王道なのだ。
そしてパタンと厚い表紙の本でもひっくり返したような音がする。
読書でも始めたのかもしれねえな。
鳶松はそう思いながら、息をこらして盗聴に精を出した。
やがて小さくシンシンシンと貧乏ゆすりでもしてるような音がした。
そして再びパタンと厚い表紙の本をひっくり返す音。
林田が忍び足でお茶を持ってきて差し出す。
鳶松は受け取ると音を立てないようにひと口飲んだ。
林田が(どうですか?)とでも訊くように無言で唇を動かすと、鳶松は首を横に振り、湯呑みを返した。
天野は貴子と屋形船に乗って夜空を見上げていた。
屋形船の屋根の上で、ドンドンドーンと大音量で花火が炸裂する。
「きゃああ」
その音のあまりの大きさに、貴子は震えて天野にしがみついている。
花火は四方八方にきらめく光を散り広げてゆく。
「ははは、そんなに怖がらなくても大丈夫です。
花火が爆発してるのは上空はるかかなたですよ、きれいじゃないですか」
そういって貴子の肩を抱えて、顔を覗き込んだ。
「そうではないのです」
貴子は怪訝な顔で言い返した。
「というと、何なのです?」
天野が訊き返すと、貴子の声は思いのほか小さかった。
「早くここを開けて下さいな。
大事件なのです」
ここに至って、天野ははっと瞼を開いて、朝の光があふれているのに気づき、眩しさに思わず目をつぶる。
「天野様、お目覚めですか?」というのは執事の声。
どうやらドンドンというのは執事が扉を叩く音だったらしい。
「どうしたのです?」
天野がベッドから降りて、ズボンに足を通しながら尋ねる。
「また殺人があったようなのです」
「そ、それはまた…」
天野はズボンのチャックをあげるのも忘れて、扉を開けた。
「どういうことなのです?」
天野が訊くと、貴子が答えた。
「いまさっき、叔父上から電話がありましたの。
五棟さんの許婚のみすずさんが死体で見つかったそうです」
詳しいことはまだわかりま…、きゃっ」
貴子はそこで天野のズボンのチャックが開いてるのに気づいて、執事の背中に隠れた。
執事はのんびりした口調で自分のズボンを指差して言う。
「天野様、おはようございます。
この方面をばお締めください」
「ああ、これは失敬」
天野は慌ててはみ出たシャツを押し込んでチャックを締めた。
「それで、五棟さんの許婚のみすずさんは殺されたんですね?」
「調べてみないとはっきりとは言えないそうですが」
「犯人はまだ捕まってないのですね?」
「ええ、叔父上はもしかしたら連続殺人かもしれぬとのことでした」
「ふうむ、大変なことになりましたね」
「ええ、自分の接した同年代の方が二人も亡くなるなんて、怖いですわ」
「貴子さんには私がついてますよ」
天野は思い切ってそう言って、貴子が嬉しそうに頷くのを見やり、執事が聞かなかったというふうに目をつぶるのを眺めた。
(8につづく)
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「鳶さん、隣の奴が本ボシですかね?」
窓の脇に立っている林田は、卓袱台に向かっている鳶松に小声で話しかけた。
鳶松は大きく頷いた。
「あらかた間違いないな。
山川芳円も少し匂ったが、奴には尋常と違うところを絵にぶつけるというはけ口があるからな。しかし、芥川はそういうものはなさそうだ」
「なるほど」
「張っていて尻尾を出しますかね?」
「こういう猟奇の殺しは、繰り返すことが案外あるんだ」
「そうですか、それも困りもんです」
「問題はまだ証拠がねえからな。できればそれも手に入れたい」
「どうやって?」
「たとえば奴がうっかり鍵をかけ忘れて出かけることもあるだろう。そこで偶然聞き込みに来た俺が扉をあけ、倒れていないかと部屋に上がって、たまたま血を抜き取った器具を発見し、捜索令状を取ってきて押収する」
「あっと、今の順序がずるくないですか?」
「なんだ、おめえはどっちの味方だよ」
「あははっ、桜田門に決まってるじゃないですか」
窓の外もだいぶ暗くなってきていた。アパルトメントの玄関に入る人影を監視していた林田が、「鳶さん」と小声で呼んだ。
すると鳶松は玄関の方に移動して、細く開いた扉の隙間から芥川の部屋の前にその人物が現れるかと見張った。
このアパルトメントには上下四部屋ずつ部屋があったが、これまで一階の住人が三組ほど、二階の住人が一人帰ってきたが、いずれも芥川ではない。
そろそろお出ましだろう。
鳶松が心につぶやくと、案の定、マントに学帽といういでたちの学生が芥川の部屋の前に立ち止まった。
扉の真鍮の鍵を開けて、芥川が室内に入ると、鳶松は抜き足差し足で林田のいる奥の部屋に戻った。モダン建築といっても、そこは木造の真似事、薄い壁一枚隔てた隣の音はよく響く。咳払いなど驚くほどはっきり伝わる。
まして、鳶松には用意してきた聴診器がある。
鳶松は聴診器を壁にあてがい、聞き耳を立てた。
バサッと何かを床に放る音がして、ゴトッと何かを置くような音がし、シュッシュッとマッチを擦る音がした。煙草でもつけたのか。続いて金属質の音がした。
退屈な張り込みである。
かの犯行を仄めかしたり、これからの犯行を呟いてくれればいいが、そんな僥倖にありつけるかどうかは鳶松も自信が持てない。
ただ淡々と張り込む。それだけの地道な作業が捜査の王道なのだ。
そしてパタンと厚い表紙の本でもひっくり返したような音がする。
読書でも始めたのかもしれねえな。
鳶松はそう思いながら、息をこらして盗聴に精を出した。
やがて小さくシンシンシンと貧乏ゆすりでもしてるような音がした。
そして再びパタンと厚い表紙の本をひっくり返す音。
林田が忍び足でお茶を持ってきて差し出す。
鳶松は受け取ると音を立てないようにひと口飲んだ。
林田が(どうですか?)とでも訊くように無言で唇を動かすと、鳶松は首を横に振り、湯呑みを返した。
天野は貴子と屋形船に乗って夜空を見上げていた。
屋形船の屋根の上で、ドンドンドーンと大音量で花火が炸裂する。
「きゃああ」
その音のあまりの大きさに、貴子は震えて天野にしがみついている。
花火は四方八方にきらめく光を散り広げてゆく。
「ははは、そんなに怖がらなくても大丈夫です。
花火が爆発してるのは上空はるかかなたですよ、きれいじゃないですか」
そういって貴子の肩を抱えて、顔を覗き込んだ。
「そうではないのです」
貴子は怪訝な顔で言い返した。
「というと、何なのです?」
天野が訊き返すと、貴子の声は思いのほか小さかった。
「早くここを開けて下さいな。
大事件なのです」
ここに至って、天野ははっと瞼を開いて、朝の光があふれているのに気づき、眩しさに思わず目をつぶる。
「天野様、お目覚めですか?」というのは執事の声。
どうやらドンドンというのは執事が扉を叩く音だったらしい。
「どうしたのです?」
天野がベッドから降りて、ズボンに足を通しながら尋ねる。
「また殺人があったようなのです」
「そ、それはまた…」
天野はズボンのチャックをあげるのも忘れて、扉を開けた。
「どういうことなのです?」
天野が訊くと、貴子が答えた。
「いまさっき、叔父上から電話がありましたの。
五棟さんの許婚のみすずさんが死体で見つかったそうです」
詳しいことはまだわかりま…、きゃっ」
貴子はそこで天野のズボンのチャックが開いてるのに気づいて、執事の背中に隠れた。
執事はのんびりした口調で自分のズボンを指差して言う。
「天野様、おはようございます。
この方面をばお締めください」
「ああ、これは失敬」
天野は慌ててはみ出たシャツを押し込んでチャックを締めた。
「それで、五棟さんの許婚のみすずさんは殺されたんですね?」
「調べてみないとはっきりとは言えないそうですが」
「犯人はまだ捕まってないのですね?」
「ええ、叔父上はもしかしたら連続殺人かもしれぬとのことでした」
「ふうむ、大変なことになりましたね」
「ええ、自分の接した同年代の方が二人も亡くなるなんて、怖いですわ」
「貴子さんには私がついてますよ」
天野は思い切ってそう言って、貴子が嬉しそうに頷くのを見やり、執事が聞かなかったというふうに目をつぶるのを眺めた。
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