銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

 †††

 鳶松刑事は芥川の部屋を見張る前に、真登子が通っていたという薙刀道場を訪ねた。
 垣根の内に入ると古めかしい道場そのままの平屋造りである。
 時々、女性の高い掛け声が聞こえてくる。
 開け放たれていた玄関に立ち、中へ呼びかけると、すぐに男が出てきた。
「なんの御用ですか?」
 鳶松は警視庁の手帳を掲げて言う。
「警察の者です。阿南さんのことで聞きたいのです」
 男はやや緊張した面持ちで言った。
「はい?そのことなら、先日、お話しましたし、自殺ならいまさら調べることもないと思いますが」
 鳶松は隙を与えず訊ねる。
「申し訳ない、まだ自殺か病気かどうか判定しかねておるのです、そこで今一度聞かせてください。
 阿南さんが亡くなる前の様子を思い出してもらいたいのです。いつもと変わったことはありませんでしたか?」
 男は「前も話しましたが」と前置きして、
「特に、変わったことはなかったですね」
「特にはなしと。ただ、強いて言えばどうです?」
「そうですねえ、強いて言えば、少し元気がないことはあったかもしれないですがね」
 その言葉に鳶松は喰らいついた。
「死ぬ前に元気がないと見えたんですな?」
「ええ、しかし、そんなのは誰にでもあることでしょう。
 元気のいい時と元気のない時は波のようにくるもんでしょう。ちょっと元気がないぐらいで人が死ぬなら、町は葬式だらけです」
「それは、たしかにそうですな。
 ま、よろしいです。
 よかったら、こちらの生徒さんにも話を聞かせていただきたいのですが」
「生徒ですか、ちょっとお待ちください」

 男が奥に引っ込んだかと思うとしばらくして、男は道着に袴姿の若い女性を二名連れて戻ってきた。一人は丸顔におちょぼ口で、もう一人は切れ長の目で肩で息をしている。
 鳶松は一礼して切り出す。
「練習中、邪魔します。
 阿南さんのことで教えてください。つきあっている男性はいたようですか?」
 すると、二人は同時に首を左右に振った。
「阿南さんは真面目なひとです」「聞いたことないです」
「では、亡くなる前、何か気になったり、気づいたことがあれば教えていただきたい」
 鳶松がじっと見つめていると、切れ長の女性は小さく唸って困るようだったが、不意におちょぼ口の女性が切り出した。
「そういえば、私、練習に遅れたことがあったんですが、その時、垣根のところに帝大生が立って、中を覗いてました」
「その男が帝大生とわかったのですか?」
「私が近づくと気づいてこちらを振り向いたんです。学生服に白い学帽、※校章は帝大のものでした。学帽から毛が出てましたから、刈り上げ頭じゃないです」
 鳶松の耳は急に赤みを帯びた。
「それだ。いや、失敬。
 それで顔は覚えてますか?」
「ええ、頭のよさそうな印象でしたが、少し目つきが冷たい感じでした。私は顔を伏せて通り過ぎて道場に入りました」
「その帝大生の似顔絵を作りたいのでご協力いただけますか?後刻、係の者をこちらかご自宅に伺わせますから」
「ど、どうして?」
「死因がはっきりしないので、いろんな可能性を調べておるのです」
「その帝大生が何か?」
「もしかしたら事情を知ってるかもしれませんからな。ご協力してください」
「わ、わかりました」
「感謝します」
 鳶松は彼女の住所を聞き取ると礼を言って薙刀道場を後にした。

 芥川の住む二階建てのアパルトメントは神田の通りを少し入った小学校のそばにあった。
 木造ではあったが、震災後、お上の肝入りで始まった同潤会アパートを真似た設計で、屋根も傾斜がゆるく四角張った形をして、モダンな雰囲気がある。
 玄関を入ると、まず下駄箱というものが見当たらない。土足のまま、廊下をすすむと各々の部屋の扉があるという造りだ。
 鳶松は静かに階段を上がって、芥川の部屋の扉の前に立ち、気配を窺った。
 まだ帰っていないのか静まり返っている。
 そこで鳶松は隣の部屋の扉をひとつノックして開けて、中に入った。
 扉を開けると、そこが壁際に便所と洗面が個室としてある。実際に居住する部屋はさらに奥にあるという西洋の宿のような造りである。
 鳶松は靴を脱いで、奥の部屋に入ると声をかけた。
「まだ帰ってないようだな」
「はい、まだです」
 窓際から振り向いて、そう言ったのは部下の林田だ。
「うん、芥川だが、薙刀道場を覗いてたかもしれねえぜ」
「それは、いよいよ怪しいじゃないですか」
「被害者に目をつけていたのかもしれねえな」
「取調べに引っ張れるといいですが」
「目撃した者の話でとりあえず似顔絵を描いてもらい参考人として話を聞くって算段だな」

 その時、扉が開く音がして人が入ってきた。
 この部屋の住人であり、近くの医療具問屋につとめる中間管理職の独身男である。
 男は手ぬぐいで顔を拭いながら言う。
「ご苦労様です」
「どうも、お邪魔してます」
「いいえ、警察に協力するのは東京市民の義務ですから」
「いや、そう言っていただけるとありがたい限りです。
 宿の方は本郷に取りましたから」
「はあ、そうですか、大変ですね、本郷とこちらと往復じゃ」
 鳶松は困って苦笑した。
「いや、我々ではなくあなたの泊まる宿です。
 重要な事件なものですから、我々はここを離れるわけにはいかんのです。宿代はさる筋がお払いしますのでご協力お願いします」
「は、はあ」
 鳶松が旅館への道を書いて渡すと、男は溜め息を吐いて部屋から出て行った。

(吸血鬼ドラキュラ7につづく)



※銀杏の校章は戦後の制定。また専門課程の帝大と教養課程の一高(オリーブ)でも違うようです。ご想像をたくましくして下さい。




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え、あの名作『檸檬』に似てるって? 梶井基次郎さま、すみません!




 その塊は俺を始終監視していたのだ。
 そいつはずっとずっと前から、俺のそばにいて、何も言わぬまま、一挙手一投足を見つめていたのだ。
 しかし、俺はそれほど苦痛ではなかったのだ。
 彼女があのことを言い出さないうちは。
 

 街から街を彷徨うように歩き続けた俺は、ふと果物屋の前で足を止めた。
 その果物屋はテレビなどでもよく紹介される最も有名な果物店『万疋屋』であった。
 それはすこぶる立派な店であって、果物の美しさと美味しさを演出するということにおいて最も巧みに感ぜられた。果物はガラスケースの台の内に並べてあって、この果物たちがもっと小粒であったら通りすがりに一瞥した者はここは宝石店かと錯覚してしまうだろう。
 パパイヤの黄色、マスクメロンの若竹色、巨峰の紫黒色、キウイの緑、桃のピンク、マンゴーの濃橙、マスカットの黄緑色、クリスタルローズの赤ワイン色。
 見ているだけで、何か華やかな美しい音楽のメロディが聞こえてきそうな色彩のハーモニーである。
 俺はその店内へと足を踏み入れた。

 若い女性店員はガラスケースを眺めている俺ににこやかな挨拶を寄こした。
「いらっしゃいませ。
 ご注文がお決まりでしたら、お申し付け下さい」
 俺はガラスケースの内側の桃とマンゴーを見較べた。
 大きさやコントラスト的にはマンゴーがよさそうだ。
 問題は少し距離をおいた店員がまだマントゥーマンで俺をマークしていることだ。
 そのうえガラスケースの端には警告プレートが貼り付けられている。
 悪ガキどもの間ではその店名のためか、万疋屋で万引きすることが一種のステータスになっているらしい。その警告のため、プレートには「万引きされますと驚いた店員により果物ナイフで怪我をされる場合があります」と書かれている。
 最初はもっとありきたりな「万引きは直ちに警察に通報します」だったが、効果が薄いため、この文に変えたそうだ。おかげで万引きの被害件数が2割ほど減ったと新聞に書かれていた。
 だから、見つからないようにタイミングは慎重に選ばなければならないのだ。

 その時、俺の背後から入ってきた初老の女性客が店員に声をかけた。
「富有柿はあるかしら?」
「いらっしゃいませ、ございます」
「よかった、五つほど貰うわ」
「かしこまりました、少々お待ちください」
 店員は富有柿を出すためにしゃがみこんだ。
 今だ。
 俺は素早く周囲を見回し、懐から出した白球をそっとマンゴーの中に置いた。
 その白は濃橙の中で浮き上がっている。
 捨てたのではない。捨てるならもっと他の場所で目立たないようにした筈だ。
 つまり、これは時限爆弾なのだ。万疋屋のショーケースのマンゴーの中で真っ白く輝く時限爆弾は、もう十分したら、この万疋屋がマンゴーのショーケースを爆心として爆発を起こし大騒ぎになるだろう。
 俺は身を翻すとそっと店から出て行こうとした。

 しかし、次の瞬間。

「こらあ!」
 突然、甲高い声で怒鳴られて、俺は足を止めざるを得なかった。
「この冷血漢、わしを捨てるのか」
「……」
「親不孝にもほどがある」
「違うんだよ」
「何が違う?
 えっ?
 言ってみろ!」
「俺じゃないんだ」
 俺はマンゴーの中の声の主に向き直った。
「誰だと言うんだ!
 今、わしを捨てたのはお前じゃないか!」
 いよいよ甲高くなる声にたじたじとなりながら俺は答えた。
「だから、実は猫娘なんだ。猫娘が風呂に入ってる時にいつも覗かれている気がするから、父さんをうんと遠くにやってくれと、ごめ……、あ、あれ?」
 さっきまで勢い激しく怒っていた目玉親父はうつむいたかと思うと、急に押し黙ってしまった。
「まさか、父さん!
 本当に猫娘の裸を覗いていたのか?」
「す、すまん、鬼太郎、つい、出来心で……」
 目玉親父の告白に、俺は怒鳴ってしまった。
「ざけんな、このエロおやじ」
「すまん、以後、二度とせんから許してくれえ」
 目玉親父は手を合わせて鬼太郎を拝むのだった。
「たくっ、しょうがないな」
 鬼太郎は、驚いたまま固まっている店員の前のショーケースから、目玉親父をつかむと、下駄を大きく鳴らして歩き去るのだった。     おしまい。。





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 †††


 天野助教授が神田から帰るや、執事に「お客様がお待ちです」と応接室に通された。何事かと入ると、貴子と中年の男が振り向いた。
「天野様、こちらは警視庁の鳶松(とびまつ)様です」
 すると開襟シャツを着た男は腰を浮かせて胡麻塩頭を下げた。
「はじめまして、警視庁捜査一係の鳶松と申します」
 鳶松は癖なのか天野を見つめると強く瞬きした。
「じゃあ、殺人事件と決まったのですか?」
 天野が訊くと、鳶松は慌てて手で宙を裂くよう。
「まだです。死因もはっきりしないうちに捜査は異例のことです」
「では貴子さんの叔父上が?」
 天野が言うと貴子が頷いた。
「ええ、鳶松様が叔父の部屋に呼ばれて直々に頼まれたそうで」
「そのことですが、私が動いていることは口外無用に願います」
「心得ました」
 天野が納得すると、貴子が説明する。
「叔父は私が心配してると察して、天野様と入れ違いに鳶松様を説明によこしてくださったのです。
 それから、鳶松様はいろいろ調べに出かけられて」
「そうですか。ああ、それは私の作った名簿の写しですね」
 テエブルの上の紙片を指差すと鳶松は頷く。
「ええ、天野様の推理はご令嬢から聞きました。
 あれが殺しで、冊子の話を真似た可能性が高いなら、犯人は冊子を読んだものの中にいるに違いない。
 私も同じ意見です。この名簿は役に立ちそうですな」
 鳶松はそこで手帳を開いた。
「とりあえず画家の山川芳円について調べてみましたが、作品はあまり他人様にこれだと見せられるような代物じゃありませんでした」
 鳶松は古い日付の東京日々新聞を開いて挿絵を見せた。
 亭主、不義密通の妻を斬りつけると記事の題がある横に、男が刀剣をふりかざし、布団の上で女が血を噴き出して腸のようなものまで出かかっている禍々しい絵である。
「こういう絵を得意としているようです。
 あと、カンバスに描いた絵もあるようですが、昼間の明るい窓辺で腰巻一枚の女が乳を出してるような破廉恥極まりない絵ですぜ」
 鳶松が言うと、貴子は急に染まった頬を押さえた。山川に面と向かって言われた時は気丈に拒絶できたが、こうして違う人間に客観的に言われてみると、そんなモデルをしたわけでもないのに、恥ずかしくなるから不思議だ。
 天野はそれを見てかすかに笑い、鳶松は慌てた。
「あ、これはご婦人の前で失礼しました」
 貴子は平静を装った。
「かまいません。
 それで山川芳円さんについて他には何かわかりまして?」
「住まいは本郷区谷中の小さな借家です。妻はなく、賄いのため近所の婆様が朝と晩に通っています」
 天野と貴子は続きはあるのかと、じっと鳶松を見つめる。
「私の勘ですがね、山川芳円はちと匂いますね。
 こいつは人間に対して常人の感覚と違うものがあると思います。具体的にどうとなるともう少し探ってみないことにはわかりやせんがね。
 あの口絵の傷とぴたりと合う傷にこだわる偏執なものがあるやもしれません。
 私の家は祖父まで五代に渡って奉行所の十手を預かってましたから、その辺りの勘は代々譲りで間違いないんで」
「ほお、それは天職の勘の強みですな」
 天野が言うと、鳶松は当然たと言う代わりに頷いたが、さらに言葉を続けた。
「ただ、もっと匂うやつが他にいます」
「どなたですの?」
 貴子は驚いたように訊ねた。
「吸血鬼の話を翻訳した芥川という帝大生ですよ」
「ほお、彼が犯人かもしれぬと?」
「ええ、普通の殺しなら包丁で刺して、それで終りです。
 しかし、今回のは血だけを抜いて殺した。
 私の経験では、こういう猟奇のなせる事件の犯人は類が決まってるんです。これは常人より想像のはなはだ強い、異常な感覚と、傲慢な思考を持つ者の犯罪だと睨みます。
 ご令嬢から聞きましたが、この芥川は普通の人間が犯罪者となる瞬間の心理に興味があると述べたそうですね」
 そこで天野が頷いた。
「ええ、私も聞きました。
 そういえば、貴子さんが帰った後に、彼は『罪と罰』を書いたドストエフスキイは犯罪者そのものだと言ってました」
「そうですか」
 鳶松は手帳に書き込んで頷いた。
「これから、ちょいと芥川の住むアパルトメントを張り込んでみようかと思います」
 天野は「アパルト?」と聞き返した。
「ええ、震災の後、お上の同潤会がモダンな鉄筋アパートメントを建築し始めているでしょう。それを真似た民間の二階建てのモダン風長屋です。といってもこっちは肝心の造りが木造ですがね」
 そこで貴子が訊いた。
「場所はどこですの?」
「神田です」
「えっ」
 天野は驚きの声を上げ、貴子が言った。
「真登子さまの家も神田で、天野さんも調べに行きましたの」
「ええ、そこなんですよ、うまく運べば二人の接点が見つかるやもしれません」
 天野は頷いた。
「私も犯人が阿南さんをどう見つけたのか気になってました。
 同じ町内なら、偶然、見つけている可能性も高いですな」
「そうです。そろそろ帰るかもしれない頃合だ。それでは私は張り込みに行きますので、失礼します」
 鳶松はドアに歩み寄った執事より先にノブをまわし出て行った。

「ふう、これで肩の荷が下りました。専門家が動いてくれるなら、僕の推理の出番はなさそうです」
 天野が言うと、貴子が笑った。
「あら、重荷でしたの?
 てっきり熱中してるのかと思いましたわ」
「冷やかさないでください。
 しかし、芥川君が候補というのはうなづけますね」
「どうしてですの?」
「阿南さんの本棚に小説がたくさんありましたから、芥川君なら話が合うように感じたのです」
「なるほど、そういえば真登子さんは樋口一葉が好きでしたわ、机にはいつも樋口一葉の読みかけの本が乗ってましたわ」
「一葉ですか?」
「ええ」
「漱石はどうです?」
「漱石はあまり読んでませんでしたね」
 天野は「ふうむ」と唸ったが、ふと思い出したように貴子に聞いた。
「もし、真登子さんが自殺を考えるとしたら、どんな理由からでしょう?」
「女は殿方が考えるよりずっと繊細ですのよ。
 ささいなことでも、本人は悩んで思い詰めるということがありますわ」
「それで真登子さんが慕う男性はいなかったんでしょうか?」
「いないと思いますわ。
 一度、問い詰めてみたのです、そしたら真っ赤になって、そんな方がいるはずありませんと答えましたわ。
 あの真登子さんがもうこの世にいないなんて、信じられません」
 天野は貴子が視線を向けた庭を眺めながら考え込むのだった。

(吸血鬼ドラキュラ6 に続く)




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 †††

 朝食後、食事を終えた人々と後片付けの使用人が退出してゆく食堂で天野が貴子を呼び止めた。
「貴子さん、阿南真登子さんはどういう方です?」
 貴子は椅子に座り直して答えた。
「ですから、前にも話したように同級では活発な方ですわ。
 毎週薙刀の稽古をしていたんですから」
「ええ、たとえば最近、悩んでいる様子などは見かけませんでしたか?」
 そう問われた貴子は瞳を斜め上に上げてから答えた。
「さあ、特には気づきませんでしたわ。
 念のため、申し上げておきますけど、殿方という種族は、女学生はいつもころころと笑い転げていると思い込んでおりませんか?」
「い、いえ、そのようには」
「私の通う聖蹟女子大学では、女学生といえども世情や経済を議論し、静かに思い耽ることもありますのよ。
 私だって好きな方を心配する時もありますから、それを同級の者が見て苦しい悩みがあるのかと訊かれることはありますわ」
 天野は思わず訊き返す。
「あ、それは貴子さんが私を思って同級の方に心配されるということですか?」
 貴子は給仕の者たちが下がったのを確かめて頬を染めた。
「そうなりますわ、私の好いた方は天野様だけですから」
 天野は貴子の手を握って「貴子さん」と呼んだ。そして接吻しようと顔を近づけた時に、ドアの開く音がした。
 天野は慌てて貴子の手を離し、身を引いて振り向いた。
 入って来たのは、関東大震災の館倒壊時に救われて以来、天野を敬愛してやまない貴子の母徳子である。
「あら、天野様、まだおいででしたの?
 朝食が足りなければ、何か作らせましょうか?」
「いいえ、毎日、十分にいただいています」
 天野が答えると、徳子は嬉しそうに微笑んだ。 
「貴子、早く準備なさらないと、車が出ますわよ」
「お母様、今少し、天野様と打ち合わせがありますの」
「そう、では運転手にそう伝えさせましょう」
 徳子は天野に会釈して、ドアの外に消えた。

 しかし、また徳子が戻ってきそうな気もして接吻することは躊躇われて、天野は咳払いをひとつしたのみだ。
「貴子さんは、阿南さんの家が神田にあると言ってましたね」
「ええ」
「実は、私は本日、休講なのです。神田なら歩いていける距離ですし、かの阿南さんの家を訪ねたいと思うのですが」
「では何かひらめいたのですか?」
 貴子が尋ねると天野は頭を振った。
「いいえ。見当がつかないからこそ、阿南真登子さんの家で話を聞いてみようかと思っているのですよ。真登子さんの出歩く範囲に、犯人と接触する機会があるはずですからね、もし殺人事件だとすればの話ですが」
「なるほど、それも推理の糸口になりますね。
 今、地図を描いて差し上げますわ」

 貴子の手による地図は、麹町の伏見官邸のそばの漆原宮の館から、東に歩いて半蔵門に出て、皇居のお堀を四分の一ほど北にまわり、神田に出る道を示していた。

 天野は地図に沿って歩き、途中で果物を求め、市電の通りを横断し神田の古書店街に入った。明治末期に、この辺りに学生が多いのに目をつけた中西屋が古書店を始め、それが大当たりしたのが街の始まりである。
 天野は新刊書の三泉堂書店の前を左に曲がり、少し進むと右手の小路を通り抜けて、阿南石鹸本舗に辿り着いた。
 表戸は開け放たれて、入ると石鹸の匂いが漂っている。
 シャツにネクタイ、法被という格好の番頭がもみ手をして近づくと、天野は帝国大学の名刺を渡した。
「帝国大学物理学教室?」
「はい、天野と申します」
 天野が真登子さんの同級生に聞いて焼香に来たのだと説明すると、番頭は涙ぐんだ。
「これはご丁寧にありがとうございます。
 私にもそりゃあ優しい姪っ子で、家族も店の者も未だに信じられないんですよ」
「そうですか。男性とお付き合いは?」
 天野が訊くと、番頭は強く頭を振った。
「そんなのありゃしませんよ。毎日、顔を合わせ食事して、店の手伝いもしてくれるんですよ。もしいたら気付きますって」
「じゃあまったく変わった様子はなかったんですね?」
「ええ、だから真登子が起きてこないとなったその日は日曜でしたが、私もここに住んでますので、上へ下へのてんやわんやでした。
 今すぐ、兄の社長を呼んで参りますので、そちらにおかけください」
 天野は椅子にかけて、机で事務をとる中年女性や、一段高くなった畳に腰掛けている男の作業員二人と目を合わせ会釈した。
 まもなくやって来た髪を七三に分け、左顎に痘痕のある社長は深々と頭を垂れた。
「わざわざありがとうございます」
「この度はお気の毒なことでした」
 社長は探るように訊ねた。
「真登子の同級生から聞かれたとのことですが」
「ええ、私は漆原宮家に世話になってまして、貴子さんから聞いたのです」
 天野がその名を告げると、社長は大きく頷いた。
「ああ、そうでしたか、漆原宮のお嬢様には仲良くしていただいて、翌日にもすぐ駆けつけてくださって、感謝しております」 
 社長に連れられて行くと、店の奥は住まいらしく全体が細長い造りになっていた。
 天野は座敷に案内され、仏壇を拝んだ。
「貴子さんから聞いたのですが、お嬢様は薙刀もなさる活発な方だったそうですね?」
「そうなんですよ、毎週、薙刀の稽古に通ってましたから」
「では、病気もなかったのでしょうな」
「そうです、幼い頃のおたふく風邪ぐらいで、医者にも滅多に掛かりませんでした」
「では今回は突然で驚かれたでしょう?」
「ええ、朝食に起きて来ないので、家内が二階の部屋に上がってみたら冷たくなって……」
「お辛いことでしょう」
「ええ、そりゃもう。警察が死因が不審だとのことで、娘を調べてくれたんですが、まだ原因がはっきりしないのです」
「ええ、貴子さんも心配されまして、もしご家族がよろしければ、私に調べてくれと申しておったんですが」
 社長は物理学助教授という肩書きが死因解明の役に立つと誤解したらしく、
「それはありがたいです。是非、調べてください、お願いいたします」
 頭を下げられた天野は内心苦笑しながら訊ねた。
「お嬢様のお部屋は二階ですか?」
「ええ、そうです。二階は真登子の部屋と弟夫婦の部屋と、倉庫に使ってる部屋がいくつかあります。ご案内いたします」
 社長は廊下の端にある階段に連れて行った。
「階段はここだけですか?」
「いえ、店側にもあります」
 階段を上がると、廊下になっていて片側は手すりで一階と吹き抜けになり、反対側に部屋が並んでいる。
「玄関は?」
「玄関も店側と住まい側のふたつです」
「鍵はかけてますよね?」
「もちろん夜はいつもかけてます」
「当日はいかがでした?」
「うちは問屋ですから日曜は店の玄関は開けません。家の方は朝開けたと思いますが。
 ここが娘の部屋です。そのままになってます」
 社長が引き戸を開くと、六畳ほどの部屋に文机と本棚と小さな箪笥が並んでいる。
「当日、この引き戸の鍵は?」
「開いてました。身内だけですからね、着替えでもする時は用心にかけていたかもしれませんが、基本的に鍵はしなかったと思います」
「窓を開けてみていいですか?」
「ええ、どうぞ」
 天野は文机の上のガラス窓を開いて、首を外に出した。
 隣の商家の壁が七十センチほど向こうにあり、境界には丸太が斜めに立てかけられている。
 この部屋からだと高さがあるが、端の部屋の窓からならば丁度真下に丸太があり楽に足が届く。
「二階のあちらの端は何の部屋です?」
「倉庫です」
「鍵は?」
「いえ、面倒ですからね」
「ふうむ」
 天野は頷いた。
「それから、お聞きしづらいのですが、血の痕はありましたか?」
「警察にも聞かれましたが、なかったです。それから警察は家中を念入りに調べましたが、どこにも血の痕はなかったようです」
「それはまた不思議ですな」
 天野は本棚に並ぶ本の題を指でなぞった。夏目漱石、尾崎紅葉、樋口一葉の小説がずらりと並んでいる。
「書き置きのようなものはありませんでしたか?」
 遺書のことを婉曲して訊ねると、社長は頭を左右に振った。
「警察も探したようですが、ありませんでした」
「そうですか」
 天野は文机に置かれている本を手に取った。それは夏目漱石の『行人』だった。
 ページをめくって書き置きがはさまれてないかと探したが、何もない……、と、一瞬、何かの書き込みが視界を過ぎり、天野は慎重にページを戻してみた。すると、

死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない

 その一文、死ぬか、気が違うか、宗教に入るか、という言葉に傍線が引かれて、死ぬかはさらに楕円で囲まれている。ちょっとした覚書のための強調の印かもしれないが、もしかしたら死の決意の痕である可能性もかすかにある。
 だとしたら、阿南真登子は自殺なのか?
 いや、そうとしても自分の血を蒸発させるように消して死ぬなど不可能ではないか?
 天野はしばらく考え込むのだった。

(吸血鬼ドラキュラ5 に続く)




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gingak
  • Author: gingak
  • 銀河 径一郎
    (ケイイチロー・ギンガ)
    好きな言葉は『信じる』。
    飛べなくても頭が悪くても
    地球人も宇宙人だ(笑)

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