銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

 3

 波多野順子は、チャイムの音にドアホンの受話器を取った。
「はい」
「こんにちは」
 小さなモニターに映ってるのは、髭をはやしたロマンスグレーの男である。
「なんでしょうか?」
「奥様も気になると思うんですが、旦那さんを夢中にするものがあるんですよ。パンフレット、ご覧になりますか?」
 波多野順子は自分の魅力を高める何かと勘違いしたらしく、鏡の前で化粧をチェックし、髪を撫でつけてから、ドアに出た。
「なんです?」
「これです、ご覧になって下さい」
 波多野順子は、天野教授が差し出した、天体望遠鏡のパンフレットを手にして眺めた。これは、もちろん、さっき車でプラ模型店に立ち寄り入手したものだ。
「最近、ご主人が夜遅いことはありませんか?」
「たまにはね」
 波多野順子はすぐにパンフレットを返そうとしたが、そこは毎日たくさんの生徒を前に心理学を講義してるだけあって天野教授の弁舌はさわやかだ。
「まさかとは思いますが、ここで浮気なんてされたら悔しいじゃないですか。この天体望遠鏡を与えると、旦那さんは毎晩、家に直行すること間違いなしです」
「あら、口がうまいのね」
「はは、始めたばかりで」
「でも、都会じゃ、星なんかあんまり見えないでしょ」
「月とか、火星とか、木星とか、少し見えれば十分なんです。あまり小さい星は点にしか見えないから、家庭用では面白くないんです」
「おいくらなの?」
 波多野順子に、そう聞かれると天野教授は焦った。なにしろ、こっちは本当に売る気はないのだから。
「え、えっとですね、消費税入れて五万ちょっとで、高いですよね」
「でも、隣の家とか覗けるかしら」
 狙いはそこか、と天野教授は内心噴き出した。
「ああ、残念です。それなら、もっと倍率が手頃で安いのがデパートとかにあります。
 じゃあ、また機会がありましたら、残念でした」
 天野教授は、次の雨海重子宅でも使うパンフレットを波多野順子の手から奪い返すと、頭を下げて玄関ドアを閉じた。

 雨海重子はなかなか出てこなかった。
 天野教授はおよそ30秒毎にチャイムを鳴らして待ったが、既に5分は経過している。
 そろそろチャイムを押そうかと考えたところで、ドアのロックが解除される音がして、ドアノブがまわる。
「なんなの?」
 言葉と、ドアから雨海重子の顔が見えるのと同時だった。
「こんにちは、こちらのパンフレットをご覧になってください」
 そうパンフレットを出しながら、教授は雨海重子を観察した。白髪が混じり、目にも警戒心が宿っている。
 雨海重子はパンフレットを両手で持ってしばらく眺めた。
「何よ、これ」
「天体望遠鏡のご紹介にまわってるんです」
「うちは間に合ってるよ」
 雨海重子はドアを閉じようとするが、教授はドアのノブを押さえて言うる
「でも、退屈な夜なんか、天体望遠鏡でお月さんの顔でも眺めると和みますよ」
「何?あんた、もしかして、隣のクソ婆の差し金かい?」
「まさか、どうです、夜の暇つぶしに?」
「うちはね、夜は忙しいの、帰ってちょうだい」
 雨海重子はすごい勢いでダンッとドアを閉めてしまった。
 
 天野教授が戻ってくると、戸山刑事はまるで仕事仲間にするように声をかけた。
「お疲れ様でした。どうでした?」
「ええ、波多野順子にはひとつ売れそうでしたよ」
 天野教授の言葉に、二人の刑事はえっと声を上げて驚いた。
「ほんとうですか?」「お見それしました」
 天野教授は愉快そうに笑った。
「いや、それで隣を覗けると勘違いしたみたいですよ。
 この近所の地図があればちょっと見せていただけますか?」
「署か派出所に住宅地図があります」
「ではそれで結構です。推理がまとまりそうですよ」
 天野教授はひとりでうなづいた。

 4
 
 天野教授と戸山、矢原刑事は最寄の派出所の前に車を駐車し、中に入った。
「ご苦労さん、ちょっと教えてくれないか」
 戸山刑事が口を切り、敬礼を返す制服警官に天野教授が尋ねる。
「この地域近辺にある神社を教えてほしいんです」
 すると制服警官はデスクの透明マットの下の地図を指で示しながら答えた。
「それなら、ここに氷川神社、こちらに井筒神社、あと派出所の管轄から外れますが、こっちに八幡神社、あと稲荷ですが玉受稲荷がそちら、」
  天野教授はさらに尋ねる。
「この中で木が多いのは?」
「それなら八幡神社か氷川神社ですね、境内もそこそ広いですし」
 天野教授は矢原刑事に聞く。
「矢原さん、場所はわかりますか?」
「もちろん」
「じゃあ、戸山さん、張り込みっていうんでしたっけ、ご苦労だけど、深夜にやってもらえますか?」
「必要ならしますが、その前に教授の推理を説明して下さいよ」
 戸山刑事が言うと、天野教授が答えた。
「雨海重子は、夜忙しい、と洩らしました。彼女はドアノブを右手でつかんでました。そして左手の人差し指とその付け根が打ち身で青くなっていました」
「それはもしかして」
 戸山刑事が言うと、教授はうなづいた。
「ええ、暗い中で釘を打ってたんですよ」
「丑の刻参りすか!」
 矢原刑事が声を上げると、戸山刑事が唸った。
「うーむ、先生、丑の刻参りでは、裁判で因果関係を立証できないんですよ。
 物質化現象だってそうです。科学的な論証ができなければ、裁判に持ち込めないんで、我々も手が出せない」
「張り込みの意味がないとは断定できないと思いますよ。
 私の専門から少しずれますが、この世を動かしているのは量子理論らしいです。私は量子理論は、意識により現実が変化することを受け入れると思います。
 裁判官はアインシュタインが量子理論に負けたことも知らないのかな」
 戸山刑事は量子理論とかアインシュタインという言葉が苦手だ。
「先生、我々には話がむずかしすぎる」
「とにかく物質化には強い意識の集中が必要です。今回、釘という物質化を可能にしたのはひとつは、雨海重子の丑の刻参りという儀式による意識の集中ですが、それだけでは呪術は成功しない。呪術には常に協力者が必要なのです」
 教授の言葉に矢原刑事が言い返す。
「共犯ですか?」
「ええ」
 戸山刑事も聞き返した。
「共犯がいると?」
「いや、きわめて単純な話です。
 被害者の波多野順子が協力者です」
「そんな、おかしいですよ。彼女は迷惑してるんですよ」
「いや、それがスタンダードな呪術なんですよ。
 映画で『陰陽師』というのがありましたね?」
「ああ、観ました、たしか安倍清明ってやつですね」
「映画は面白くするための過激な演出がありますが、それを除けば、昔は、世界各地でああいう呪術師が活躍しました。
 いいですか、活躍ですよ、実際に効果を上げたんです。
 その一番のポイントは、被害者も呪いを怖れるという意識の集中で、加害者である呪術者に協力したのです。
 その意味で、雨海重子が呪ってやると言い、呪い殺すぞとチラシを入れたのも重大な意味があったんです。
 そして、丑の刻参りという儀式を通した雨海重子の意識の先鋭化に対して、波多野順子は呪いを怖れるという形で受け入れの儀式を行い、両者は意識の核融合を起こし、釘が実際に出現したのです。
 一度、張り込んで、確かめてもらえませんか?」
「うーむ」
 戸山刑事は俄かに信じられないものの、天野教授の話の可能性は感じたようだった。
 なにしろ、出所の怪しい釘は、現に無から湧き出すように出現しているのだから。
「戻りましょう」
 戸山刑事は親指を立てて、車を指した。
「邪魔したな」
 戸山刑事が、口を開いて、やりとりを聞いていた制服警官に言った。
「引き上げるよ、今の話は捜査上の秘密だぞ」
 すると制服警官は、
「賽銭泥棒ではないんですよね」と確認するのが精一杯だった。

 5

 午前一時すぎ、八幡神社の境内の宝物庫の影で、戸山刑事と矢原刑事は雨海重子を待ち受けていた。
 矢原刑事がささやく。
「来ますかね?」
「来るだろう」
「どんな格好で来ますかね?」
 戸山刑事は興味なさそうに、
「さあな」
「やっぱり、白装束で、頭に蝋燭台をはちまきで固定して来るんすかね」
「シッ」
 戸山刑事が身を屈めた先で、電灯の明かりが横切ってゆく。
 明かりが境内の奥に向かうのを確認した戸山刑事は矢原刑事に小声で言う。
「行くぞ」
「はい」

 奥まった場所で一本の杉に向かった雨海重子に、斜め後ろから接近すると、グレーのジャージ姿の彼女は肩から大きめの電灯を吊り下げていて、それが杉の樹肌を照らしている。
 雨海重子は、ショルダーバッグから用意してきた、紙をくり抜いたひと形を取り出し、樹肌にあてがうと、続いて釘と鉄鎚を取り出した。
「雨海重子さん」
 戸山刑事が後ろから背後から声をかけると、雨海重子はびっくりして振り向いた。
「大丈夫ですよ、まだ釘を打つ前だから」
 丑の刻参りは、他人に見つかると本人に呪い返され死ぬという言い伝えもある。だから釘を打つ前に止めて、大丈夫だと告げるように天野教授にアドバイスされていた。
 雨海重子は鉄鎚で殴りかかろうとしたが、矢原刑事が老いた素人の振りかざした鉄鎚をすぐに取り上げた。
「釘を打つと器物損壊だよ、でも、もう大丈夫だから」
 矢原刑事は鉄鎚を戸山刑事に渡すと、雨海重子の手を包むように握った。

 6

 再び、戸山刑事が天野教授を訪れたのはニヶ月近くしてからだ。
「天野教授、すみません、ごぶさたしまして」
「おひさしぷりです、矢原さんも」
「お邪魔します」
 教授は戸山刑事と矢原刑事、そして案内してきた有森朋子とソフアに腰をおろした。
「先日はすっかり協力していただいたのに、お礼が遅れてすみません。
 これはうちの課長と私たちからの品物です。協力いただいたのに、正式な経理にまわせないので、こんなものですみません」
 と、戸山刑事が差し出したのはひとかかえある箱だ。
「これは、ご丁寧にありがとうございます」
「こちらは波多野順子さんからです」
 と、矢原刑事が差し出したのはケーキの箱らしい。
 天野教授が戸山刑事からもらった箱を開けるとそれはコーヒーカップのセットだ。
「前回は思いがけず、美味しいコーヒーをいただきましたが、今回は、図々しくも初めからそれが目当てですよ」
 戸山刑事が笑うと、教授も喜んだ。
「じゃあ、早速淹れますか」

「うーん、おいしい」
 朋子がケーキを口に入れて言うと、向かいのソフアに座った戸山刑事と矢原刑事も頷いた。
「俺たち、仕事柄、あちこちの喫茶店によく入るが、これは本当にうまいな」
「ええ、いつも一番安いブレンドで。たまには戸山さん、いいものおごって下さいよ」
「おいおい、こんなところでばらすなよ、ハハハ」
 みんなが揃って笑った。
「ところで、雨海重子さんはどうなったんです?」
 天野教授が尋ねると、戸山刑事が答える。
「ええ、先生の指示通り、すぐに病院に連れてゆき、脳のMRIを撮影しました。
 驚きました。
 先生の予測通り、脳梗塞が見つかりました」
「そうですか」
 天野教授がうなづくと、戸山刑事は続けた。
「それから手術して、今は退院して普通の生活に戻りました」
 朋子は感心して言った。
「へえー、よかったですね。
 でも教授って、すごいんですね。脳梗塞までわかっちゃうんですか?」
「いや、可能性を考えて、病院で検査させるように伝えただけです。
 脳梗塞や血流性痴呆症になると、よく被害妄想を起こすというので、それが原因かもしれないなと思いついたんですよ。」
 朋子がうなづいた。
「そういえば、ニュースになる近隣トラブルの加害者って、大体五十代以降ですね」
「そう、世の近隣トラブルの何割かは、脳の血管障害による被害妄想がからんでると思いますよ。
 それで、雨海さんの状態は改善したんですね?」
「ええ、かなり改善しましたよ」
 続けて矢原刑事が答えた。
「改善と言えば改善ですが、本当、ちょっとむかつきますよ。
 あんたが丑の刻参りしてたんだよって聞かせても、全然、信じないんですからね」
 朋子はにこにこして言った。
「まあ、そうなんですか、おかしい」
「隣の波多野順子さんも最初はびくびくしてたけど、脳梗塞による被害妄想が原因だったと教えたら、最近では安心して、昔のように挨拶してるようですよ」
「まあ、これでよかったんだよ。
 先生に相談しなきゃ、俺たちは、侵入か傷害か事件になるまで何もできなかったかもしれない。それを先生のおかげで、雨海重子の病気を見つけてやれて、事件を未然に防いだんだから、これは理想的な解決だ。
 先生、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 刑事二人はまた頭を下げた。
「いやあ、照れますね」
 天野教授は髭を撫でおろした。
 矢原刑事が何気なくつぶやく。
「俺もコーヒー道、始めてみよっかな」
「やめとけ、やめとけ」
 戸山刑事が言うと、矢原刑事はムキになった。
「それ、俺にセンスがないって言うんですか」
「違うよ、うまいコーヒー飲みつけると、署や出先の喫茶店のコーヒーがまずくてたまらんぞ」
「あ、もしかして、戸山さん、始めてしまいましたね」
「ハハ、ばれたな」
 四人は再び大笑いした。                    了




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丑の刻参り



 その日の昼下がり、天野教授の部屋を、地味なスカートと白いブラウスに黄色のカーディガンを羽織った事務の有森朋子がノックして入ってきた。
「天野教授、お客様なんですけど」
「うん」
 白衣をひっかけた天野教授は立ってコーヒーをドリップしているところだ。
「よかった、まだお昼寝の時間かと心配してたのですが」
「たった今、起きたところです」
 そこで有森朋子は教授に歩み寄り、耳元に囁いた。
「警察の方を廊下に待たせてるんです、くれぐれも大学に迷惑かけないようにして下さいと事務局長から伝言です」
 天野教授は微笑んで、コーヒーカップを持ち上げた。
「飲んでゆきますか?」
「いえ、私は」
「おいしい豆が入ったんですよ、事務局長には監視のために同席したと答えればいい。
 それにあなたもどんな話か興味津々でしょ?」
 朋子の顔に笑みが広がった。

「どうです?」
「おいしい!」
 教授の隣の席に腰掛けた有森朋子が言うと、向かいのソフアに座った戸山と名乗る刑事も頷いた。
「こんなおいしいコーヒーは久しぶりですよ。いや、思いがけず美味しいコーヒーにありつけました。ごちそうさまです」
 天野教授はコーヒーの秘訣を明かす。
「おいしく淹れるコツは、熱しすぎず、ゆっくりと、ですよ」
 戸山刑事は五十歳ぐらいで、体型もむっくりとして、笑みを浮かべると人当たりがよさそうな印象だ。笑いながら警察手帳を出されても刑事とは信じられないだろう。
「それで今日、伺ったのは、他でもありません、ちょっと厄介な相談なんです。
 私の課は生活安全課でして、まだ事件にならない相談が多く持ち込まれるんです」
「なるほど」
「そのやっかいな相談というのが、これです」
 戸山刑事は小さなビニール袋を天野教授の前に差し出した。
 ビニール袋には長さ2センチから3センチほどの釘がと十数本ぐらい入っている。そして釘の一本一本にセロテープで日付がつけてある。
「苦情を申し立てた主婦によると、朝目覚めたら、パジャマ、肌着の下、胸の上に、この釘があったというのです」
「気持ち悪い」
 朋子は乗り出してた上半身を、思わず引いた。
「実は前から隣の主婦が、財布の中身を抜いたのはお前だろうと言い張り、勝手に呪ってやると言われ困ってると申し立ててまして、これは今日は持って来なかったのですが、呪い殺してやるという趣旨のチラシも郵便受けに入ってたんです」
「やだあ、怖い」
「申し立てた、まあ、被害者と言うと大げさですが、被害者は、私の課に相談に来た後、監視カメラを玄関に設置しまして、映像を確認したところ、侵入した姿は映ってませんでした」
「玄関以外から侵入したという可能性は?」
 天野教授が尋ねると戸山刑事は首を右に振った。
「前面は高さ2メートルの石塀、側面と背面は高さ1.5メートルのブロック塀が囲ってます。隣の主婦が側面の塀から侵入しようとしたら、踏み台が必要になりますが踏み台やその痕跡は見当たらなかった。特に、帰る時は、相手の敷地に残る踏み台を簡単には片付けられませんからね」
「ふうむ」
「それで課内では被害者の狂言説も飛び出したのですが、課長のお子さんがこちらの大学生でして、天野教授が難しい事件を解決してると聞いて、ご意見を伺いに来たわけです」
「ちょっといいでしょうか?」
 有森朋子が刑事と教授双方に発言の許可を求めた。
「どうぞ」と言ったのは戸山刑事だ。
「教授は事件を解決してるんではなく、解説してるだけですよね」
 朋子が事務局の意見を述べると、天野教授は笑みを浮かべた。
 最近、大学にも天野教授による心霊写真の鑑定や原因不明の病気の理由を問い合わせてくる例が少しずつ増えて、事務局は対応を決めたところなのだ。
「ああ、そうです、今のが大学と私の公式見解です。
 面白い事件は大好きなんですが、あまり相談が集まっても対応できませんからね」
 戸山刑事は「ええ、ええ」と頷いた。
「そこで、この釘なんですが、どう思われます」

 教授はトレードマークの髭をそっと撫でおろすと、言った。
「ちょっと開けて並べてもいいですか?」
「えっ、ええ、指紋は取れませんでしたから構いません」
 天野教授は念のために白い手袋をして、ビニール袋から釘をあけて、大判の紙の上に、一本一本、丁寧に釘の頭が手前になるように横に並べた。
「日付順に並べました、よく見て下さい」
 続いて、教授は、釘の手前に厚手の定規を置くと、釘の頭に均等に力がかかるようにそっと押して揃えた。
「あ、きれいに並んだ」
 朋子が言うと、戸山刑事が言った。
「ああ、それは署でもやってみました」
 釘の先端は、左端の2センチぐらいから、右端の3センチまで、ほぼ一直線になった。
「それで、製造元とかはわかりましたか?」
「いや。そこまではわかりませんでした。案外釘のメーカーは多いんですよ、最近は海外からも入ってるようで」
「私が思うに、この品質は一定に見えます」
「ええ」
「そして長さも日付につれて、1ミリ以下の刻みで長くなってる」
「ええ」
「ひとつの釘メーカーで、長さをこんなに細かく分けて市販するでしょうか?
 犯人の側にしても、わざわざ日付をおって、一本一本少しずつ長いものを用意して置くのはかなり面倒ですよね」
 天野教授がそう言うと、戸山刑事が息を呑んだ。
「うかつでした、1センチの幅にこんなに細かい種類があるというのもおかしな話だ。
 それでは、どういうことなんですか?」
 すると天野教授はあっさりと答えた。
「ええ。もしかしたら、これは物質化現象かもしれませんね」
「エッ」と朋子。
「ブッシツカゲンショウ?」と繰り返したのは戸山刑事。
「そうです、この場合、この釘のわずかずつの巨大化は、物質化現象という説明が一番わかりやすいと考えます。
 犯人がだんだん物質化に慣れるに従い、釘が大きくなってきているんですよ。
 しかし、物質化にはそれなりの意識の集中が必要と考えられます。それは通常の意識の範囲を超えた集中です。それを可能にするのは……」
 教授は言葉を切って、戸山刑事の目を見つめた。戸山刑事は目をぱちくりとした。
 教授は眼鏡を押さえて言った。
「それは、現地を見てから、慎重に考えさせてください」
 戸山刑事は唾を飲み込んだ。
「わかりました、案内します。ただ知り得たことは全て外部に極秘にして下さい。それから署内も他の部署には秘密にしたい。うちの課長はいいですが、他の部署は頭の堅いやつも多いですから」
「ええ、心得ました」

 2

 晴れたのどかな昼下がり、一台の乗用車が住宅街に駐車していた。
 運転席にいるのは生活安全部の若手刑事矢原、後部座席に並んでいるのは戸山刑事と天野教授である。さすがに今日は教授も白衣は脱いでいる。
 戸山刑事が前方の家を指で差し示す。
「右手の、あの白っぽい壁が被害者波多野順子の家、奥の庇が赤く見えるのが加害者と思われる雨海重子の家です。
 パトロール等で差し掛かった際は、双方の家を観察するように管轄の警邏隊、派出所には通達してありますが、今のところ何事もありません」
「それで年齢はいくつです?」
「えー、波多野順子が54歳、雨海重子が67歳です。
 波多野順子は夫と息子の三人暮らし、雨海重子は夫は既に他界して一人暮らし。たまに嫁いだ娘が顔を出すようです。
 身長は波多野順子が157センチ、雨海重子が150そこそこ。
 体型は両者共に、ややころっとしてますが、太ってるという程ではない」
 天野教授が矢原刑事に尋ねた。
「矢原さんは実際に会いましたか?」
「ええ、両者共に」と矢原刑事は唇に笑みを浮かべた。
「印象はどうです?」
「うーん、波多野順子は普通のおばさんですよ。
 最初は警戒してたけど、親しくなると冗談とばして笑わせるぐらい。
 雨海重子はやはり警戒心が強い感じです。
 僕は、逆にあっちが悪いんじゃないかって態度で聞いてやるんですが、表情の堅さが変わらない。普通、共通の敵を持てばもう少し心を覗かせると思うんですが、それがない感じですね」
「なるほど」
「天野教授、どうです?」
「そうですね、僕も会ってみたいんですが、いいですか?」
「会うんですか。
 警察に協力してるとか言わないで下さいよ」
「まさか、言いませんよ」
 そこで天野教授は真顔で尋ねた。
「僕はセールスマンで言うと何のセールスですかね?」
「先生がセールスマンですか?」
 戸山刑事は唸って考え込んだ。
 矢原刑事は笑いながら「わかりました」と切り出した。
「天体望遠鏡。これしかないと思いますよ」
 今度は戸山刑事が笑って手を叩いた。
「うん、こりゃあイメージは、ぴったりだな」
 天野教授は照れて髭を撫でた。


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丑の刻参り 後編 に続く 

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 4

 翌日の午前九時半すぎ、和香奈は秋人を送り出すと一階のクリーニングサービスにワイシャツを受け取りに行き、ついでに『狸穴ヒルズ』の住人だけが利用できる中庭のラウンジでひと休みした。
 アイスグリーンティーを飲んで、昨夜の秋人の話を思い出して溜め息を吐いた時に、声をかけられた。
「こちらの席、空いてる、あるか?」
 見ると、黒いチャイナ服に金縁の眼鏡、金のブレスレットをした男が笑みを浮かべていた。
「あ、もう帰りますから、どうぞ」
 黒いチャイナ服の怪しい男は椅子にかけながら言った。
「ふむ、あなた、新婚さんあるね、しかし、夫と意見食いちかうとこある」
 和香奈は驚くと共に、不気味に思った。
「何なんですか?」
「私、有名な占い師あるね、昼飯すきから、店開けるね。社長、政治家、芸能人、コキフリみたいソロソロ来るね。秘密たけと、この前も総理たいちんがそうたん来たあるよ」
「あ、週刊誌で読みました、裸の殿様の総理が狸穴ヒルズの占い師に会って、ようやく辞職したとか、あれはあなたでしたか」
 占い師はうなづいて言った。
「店たと1時間百万ね、てもあなた、こきんしょたから、30分40万にまけとくあるよ」
 和香奈は断ろうとする。
「でも、私、あまり時間がないんです、梅さんがいるので」
「わかった、ては、10分10万」
 和香奈はなぜかひきこまれるように「お願いします」と夫のことを相談した。

「どうしたら、私は秋人さんともっとうまくゆくでしょうか?」
 占い師は竹ひごをさばいて分けていき、文鎮のようなものを並べて言った。
「占いは、とちらか、たたしいか、わるいか、言うものちかうね。
 あんたの思いと彼の思いはとこまていっても平行線ね、これか運命あるね」
 和香奈はがっかりして聞いた。
「そんな……、私と夫は仲良くなれないんですか?」
「あんた、いいひとね、その調子て信念を貫くことね。
 そうすれぱ、さいこは彼もわかってくれるあるよ」
 占い師はそう言って頷いた。
「本当ですか?」
 和香奈は笑顔を取り戻した。

 5

 その日は結婚後初めて、よそ様のパーティに出るため、秋人は夕方早くに帰宅した。
 運転手が箱を五つ運び込み、ソフアの上にあっという間に五着のイブニングドレスが重ねられた。
「まあまあ、若奥様。素晴らしいドレスですわよ」
 梅さんは歓声をあげ、秋人が言った。
「さあ、今日のパーティに着てゆくのを選びなさい」
 和香奈はドレスをまとい、宝石を身につけて着飾った。
「あんまり背中が開いてるのは恥ずかしいわ」
 和香奈がそう言って姿を見せると、秋人は和香奈のまわりをぐるりと一周して徴笑んだ。
「とてもいいよ、きれいな背中だし、それぐらい開いてた方かセクシーに見える」
 秋人は満足そうに和香奈を車にエスコートした。

 車に乗り込むと秋人は真剣な表情で言った。
「今夜のパーティの主催の青成則近ってのは、撲がこの世で一番嫌いな人間だから君も気をつけるんだよ」
「どう気をつければいいんです?」
「そう、なめられないようにキョロキョロせず、この会場にいる人間は、お客も含めみんな自分の召使いだと思って、うんとすましていればいい。
 挨拶は『ごきげんよう』だけ。
 何か聞かれたら適当に相槌をうっていればいい。細かいことには答えなくていい。
 あとは僕が頃合いを見て、君の先祖が三方ケ原で徳川家康を守らなければ、江戸時代がなかったことを演説してやる」
「なんかお芝居みたい」
「芝居じゃない。妻の家の歴史を見せつけてやるのさ」
 秋人は興奮気味に言った。

 やがて車が林の中に入ったと思うと、まもなく青白くライトアップされた青成家のお屋敷が目の前に現れた。
 車が玄関に横付けになると、執事が駆け寄ってドアを開けてくれた。
「これは、伊修院様、御足労ありがとうございます。
 則近様がお待ちです、さあ、中へどうぞ。」
 和香奈は執事に「ありがとう」と言って車から降り、続いて降りた秋人の腕に手を預けた。
 屋敷の中からは弦楽器の音が洩れてくる。
 執事が外扉を開き、内扉を開けると、三階まである吹き抜けには豪華なシャンデリアがさがり、奥の広間ではお客が賑やかに談笑しているのが見えた。
 銀のタキシードを着て髪をオールバックにしたハンサムな青年が和香奈達に徴笑んで近寄ってきた。
「やあ、伊修院さん、どうもありがとう。披露宴の時は途中で急用ができて失礼した、怒ってたら、どうぞ許してください」
「いやあ僕はそんなこと気にしてませんよ、ハハッ」
 秋人は笑って答えたが、和香奈はそういえば披露宴が終わると秋人が「則近のヤロー」とつぶやいてびっくりしたことを急に思い出し、こみあげる笑いをなんとか噛みつぶした。
「奥様、ようこそ」
 青成に挨拶を向けられた和香奈は用意していた「ごきげんよう」を繰り出す。
「奥様は本当にお美しいですね、秋人さんが羨ましいですよ」
 そうお世辞を言うと青成はヴィスコンティの映画みたいに和香奈の手を持って、甲に口づけしようとしたが、急にその顔を止めた。
 そして顔を上げた青成は「奥様、しばしお許しください」と手を離し、目を輝かせて秋人に向かった。
「驚きました、秋人さん。あなたは奥様に田舎の香水か何かを使わせているのですね、なんともユニークです」
 とたんに秋人は顔を蒼白にして和香奈の手を引きその匂いを嗅いだ。
 和香奈はすぐに悟った。糠味噌の匂いが残っていたのだ。手袋を外していたことを、手にほとんど香水をかけなかったことを悔やんだ。
 秋人の蒼白だった顔が真っ赤になり、和香奈はいきなり頬をぶたれた。
「秋人さん、御婦人に暴力はいけないなあ」
 青成は余裕でのんびりと言った。
 秋人は何も言い返すことができず、真っ赤な顔をさらに真っ赤にすると和香奈の手を引っ張って逃げるように屋敷から出た。

 帰りの車の中で秋人は和香奈を責めた。
「一体、何の匂いなんだ?」
「ごめんなさい、糠味噌の匂いです」
 秋人は糠味噌を知らないのか、顎を突き出してさらに聞きた。
「何だい、それ?」
「ほら、秋人さんも誉めてくれた漬物、ピクルスです」
 そう言うと秋人も思い出した。
「ああ、そういえばあのピクルスの匂いだ、こんなに匂いの残るものなのか」
「はい、毎日、漬物桶の中の糠をひっくりかえして新鮮な空気を混ぜないと美味しくならないんです。」
「なんだって?」
 秋人は目を見開いて、鋭く睨んだ。
「料理なんかしなくていいと言ったじゃないか!
 君はどうして僕の言いつけを守れないんだ!」
 怒鳴られて和香奈は弁解した。
「だって秋人さん、喜んで食べてくれたじゃありませんか、だから私はうれしくて。あの梅さんも褒めて食べてくれたから、糠漬けだけはさせてもらってたんです。」
「そんなもん買えば済むことじゃないか、君はおかしなところに頑固になる欠点があるよ。
 もう今後は二度と台所に入っちゃいけないよ」
 和香奈は泣きたい気持ちで言い返した。
「そんな。秋人さん、和香奈のしてあげたことで秋人さんが唯一、喜んでくれたのが糠漬けだったんですよ。
 その仕事まで私から取り上げるんですか?」
「何を言ってるんだ、さっきどんな恥をかかされたかもう忘れたのか?
 こんな臭い手になって何が嬉しいって言うんだ?
 よりによって則近のヤツに笑われて、僕はあの場で死のうかとも考えたんだぞ」
 秋人は怒ると同時に泣くような顔で拳を握りしめ 和香奈は情けなくなった。
「秋人さんに恥をかかせてしまい、申し訳ありません。
 でも、たかが糠漬けの匂いで、死のうなんて、そんなこと仰らないで下さい」
 秋人は黙り込んだ。

 6

 クリスマスイブ。
 朝食のテーブルで、秋人は和香奈に言った。
「今夜はイブだしデートしよう、僕の店『アスタナインテン』の銀座店で待っててくれるか?」
「ええ、楽しみにしていいんですね」
「ああ、夜の8時に来てくれるか。
 大事な奥さんにプレゼントあげなきゃ」
 秋人は珍しく子供のような目をして笑った。
「実は、私も、秋人さんへのプレゼント、用意してあるの」
 和香奈も微笑み返した。
 給仕していた梅さんも嬉しそうだ。
「仲がよろしくて、ようございますね」

 和香奈が『アスタナインテン』の銀座店に着いたのは7時半だった。
 店名の『アスタナインテン』は粋(いき)という漢字を分解して、米偏をアスタリスク、九、十をナインテンに読み換えたものだ。
 この店は二回目だったが、和香奈が「伊修院の妻です」と告げると、コンシェルジュは覚えていてくれて、すぐに微笑を浮かべて「これは、これは、奥様、お待ちしていました」と、すぐにリザーブされた席に案内された。
 店内の席は、座った時の肘の高さの厚みのある仕切りで、区切られていて、その上には緑の葉に赤の花が映えるポインセチアの鉢が1メートルに3個ぐらいの間隔で載せられている。テーブルにはキャンドルが灯って、クリスマスの雰囲気を盛り上げている。
 客層は、カップルや家族連れもいるが、明らかに近くのクラブの出勤前のホステスさんが殿方と向かい合ってるのもちらほらいるようだ。
 和香奈は秋人に渡すプレゼントの包みを眺めて幸せな想像をした。

 しかし、8時をまわっても、秋人はなかなか現れなかった。
 8時半にコンシェルジュが「お腹がすくだろうから先に食べ始めてくれ」と伝言を持って来た。9時すぎにちょっと遅れると携帯にメールが入る。
 和香奈からもメールを送るが返事は来ない。
 10時になって、ようやく秋人が姿を現した。
「よ、待たせたな、次々とお得意さんが来て、抜けられなくて」
 秋人は椅子にかけると尋ねる。
「何を食べたんだ?」
「紅茶だけ。だってあなたと食べたかったから」
 和香奈が言うと秋人が怒った。
「食べろって伝言聞いただろ」
「これから食べられるでしょ。今日はデートって言ったじゃない」
「言ったけど、どんどんお得意から予定が入って、いつ抜けられるかわかんないんだよ」
「わかんないって、もう10時よ、まだ抜けられないの?」
「悪いな、あ、そろそろ行かないと、外に車を待たせてるんだ、ごめん」
 そう言うと、秋人は椅子を立って、振り向きもせずに出て行った。
 和香奈はあまりの速さに呆気に取られて何も言えなかった。
 ただ、そのまま席に居座ったのは、秋人が何時に戻るか見極めたかったからだ。

 12時の閉店時間になって、他の客は全部帰ってしまった。
 和香奈が最後の客である。
 コンシェルジュが申し訳なさそうに言う。
「閉店なんですが、よろしいですか?」
「すみません、主人が帰るまでいさせてください」
「そう言われましても、こちらには戻らないかもしれません」
「私と約束したんですよ、主人の店なんだからずっといてもいいでしょう?」
「はい、しかし、奥様を一人残して、私どもが帰るわけにいきません」
「かまいません、一人で残りますから」
 和香奈が強情なのを見ると、コンシェルジュも観念して引き下がった。
「では、片付けさせていただきます」
 そう言って他の席のキャンドルやテーブルクロスを外し、仕切りに置かれたポインセチアを大きなビニールのゴミ袋に投げ入れてゆく。ポインセチアの鉢はゴツゴツと音を立てて、時々、欠けて、花は上の鉢の重みに潰されてゆく。
「ちょ、ちょっと、ポインセチアを捨てるの?」
 するとボーイは面倒そうに答える。
「明日の午前には別の花が運ばれてくるんですよ」
「だって、生きてる花よ、生き物よ」
「じゃあどうするんです?」
「これが秋人さんのやり方なのね、どこが粋(イキ)なの?」
 和香奈は捨てられるポインセチアに自分の運命を見た気がした。

 7

 翌朝、梅さんは30畳のリビングを埋め尽くしているポインセチアにびっくりして、秋人を叩き起こした。
 秋人はポインセチアに囲まれたソフアに掛けている和香奈に怒鳴った。
「これはどういうことだ?」
 和香奈が言い返した。
「私も聞きたい、まだ生きてるポインセチアをどうして捨てられるわけ?」
 秋人はうなづく。
「ふん、君の言ってるのは感情論に過ぎないよ。この世の中を動かしているのは経済効率だ。感情じゃない。」
「それは違うわ。」
 和香奈は興奮を止めることができなかった。
「あなたって、わからないひとね。
 いつくしむ心、いたわる心、思いやる心、感謝する心が少しもわかってない。この世は動かしているのは心だわ。
 もし、ポインセチアを捨ててるところを誰かに撮られ、マスコミに流されたら、あなたの店の料理がどんなに美味しくたって、全ておしまいになるのよ!」
「……」
 秋人はそこで予想外のことを口にした。
「つまり、お前が撮影したビデオを買い取れと言うんだな?」
 和香奈は開いた口で息を吐いた。
「馬鹿じゃない、私はあなたの妻よ、そんなことするわけないでしょ、しっかりしてよ」
「わかったよ、じゃあ、一応礼を言っておくよ」
 
 秋人に一応、礼を言われてから三ヶ月後の日曜日に和香奈は伊修院の弁護士に離婚届けと念書を提出した。
 私物を取りにマンションに帰り、書斎に最後の挨拶をしに行くと、秋人は慌てて年鑑に目を通すふりをした。
「秋人さん、長い間、お世話になりました」
 和香奈が挨拶すると秋人は背中で言った。
「ああ、家風の違いとはいえ残念だよ」
 何が家風の違いなものですか、と言い返したいところだが、和香奈はそんな秋人が哀れに思えた。
 この別離の時にも背中を丸めて、妻の最後の顔を見返すこともできない憶病者の肩を、和香奈は揺すぶってやりたかった。
「秋人さん、他の女の人は知らないけど、私は別れてもあなたの全てを否定しない。あなたにはこれからも頑張ってほしい、元気で長生きして」
「ありがと、君も元気で」
 和香奈は書斎のドアをそっと閉じ玄関を出た。
 気持ちに区切りがついたせいか、いつもと変わりばえのしない空が澄んでいるように見えた。

 8
 
 実家に戻った和香奈は近くの洋品問屋に仕事を見つけて、すっかり以前の暮らしに戻っていた。
 そんなある日、家に差出人のない封書が届いた。
 封を開けてみると、中にはしわくちゃに丸めた跡のある竃の護符が入ってた。
 キッチンの収納の内側にこっそり貼っておいた竃の護符を、たぶん梅さんが見つけて、秋人に渡したのだろう。秋人は、思わず護符を握りつぶしたのだ。光景が目に浮かびそうだ。そうしたものの、和香奈へのうしろめたさも手伝って不安になり、匿名で送り返してきたのに違いない。
 しかし、護符を送り返されてみると、今度は和香奈の方が心配になってくる。たしかにもう縁の切れた情けないひとだが、一度は運命を信じた相手である。
 和香奈は秋人に手紙を送った。
 遅ればせですけれど、こちらからのささやかな離婚の粂件ということで竃の護符はそちらのキッチンの元の場所に貼ってください。私の護符が気にいらないなら、どこの護符でも構いません。そうすれば私も安心してあなたのことを忘れますから。
 と、こんな感じのことを便箋に書いて、返しの一枚は同封せずに送った。

 9

 和香奈が勤めから帰ると、玄関に来客の靴があった。
 驚くことに、秋人が自分に会いに来たのだった。
「和香奈さん」
 改まって呼ばれると、奇妙な感じがした。
「どうしたの?」
 和香奈が聞くと、秋人は神妙な口調で言った。
「僕はこんなことが起きるなんて、いまだに信じられないんだ。だけど、ヒルズの家が火事になった」
「やだっ」
「原因はキッチンの電化設備の配線ミスらしいんだ。それが時間をかけてショートしたのではないかということだ」
「で、あなたはいいとして、梅さんは?」
「ちょうど本家に帰ってて無事だった。そして僕は寝室で寝てたけど無事だった」
 そこで秋人は頭を深々と下げた。
「ありがとう、君が助けてくれたんだ」
「どういうこと?」
「僕はその夜、手紙の束をベッドのサイドテーブルに載せて、上の三通ぐらいを読んで眠くなって寝たんだ。
 その後に火事になった。消防の専門家が言うには、寝室の両側の部屋と廊下が燃えているのに、寝室が燃えなかったのは科学的にあり得ないということだ」
 秋人はそう言って和香奈を見つめた。
「あ、私の手紙があったのね?護符を入れた手紙」
「まったく、奇蹟だよ。君に命を救われた。
 そしてなんていうのかな、自分のしてきた間違いに目が醒めた」
 そう言う、秋人の目がみるみる潤んでゆく。
 和香奈はひとつ頷いて、口を開いた。               了


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スーパースティション(迷信)

 1

「なんだい、キッチンのあれ?」
 和香奈がテーブルに朝食の皿を並べていると、秋人が英字新聞を読んだまま聞いた。
「あれって何です?」
 和香奈が聞き返すと、秋人は顔を上げてキッチンのグリル脇のタイル壁を指差した。
「ほら、あそこに紙が貼ってあるだろ」
「ああ、あれですか」
 それは和香奈が家からもらってきた護符だ。
「あれは実家に伝わる竈(かまど)の護符です。江戸時代からずっと家を守ってくれた霊験あらたかな護符を写したものなんです。
 ほら、江戸時代は火事が多かったでしょ、うちは旗本で商人町じゃなかったからまだ火事に遭うことはあまりなかったらしいんですが、それでも、一度、門まで燃え落ちてもう駄目だという時があったらしいの。でも台所に火が移るという時に、急に風向きが変わって助かったんだそうです。
 あれを貼っておけば火事に遭わずに済むって母が言って、菩提寺のお坊さんに頼んで写してもらったんです。」
 和香奈は得意になって説明したが、秋人は鼻から息を吐いた。
「ふっ、原始的なオカルト、まじないじゃないか。
 もう少し理性的に考えてごらん、あの紙切れと火事が発生しないことの間には、なんら因果関係はないんだよ。火事になる時は紙切れを貼っていてもなるし、統計的に考えても、紙切れを貼ってなくても火事に遭わない家の方が圧倒的に多いはずだ、そうだろ?」
 秋人は体を起こすと、和香奈を上から見下ろした。
 和香奈にしたら、都心一等地の最高級マンション『狸穴ヒルズ』にある、自分たち新婚家庭の大事なお城を守るつもりで貼った護符なのだ。
「でも、万が一の時、神様やご先祖様が守ってくれるような気がしたから」
「そういうの、迷信だから。
 君は、いや、君に限らず、女の多くはそういう傾向がある、雑誌やサイトに載ってる占いなんか真に受けるんだから、明らかな欠点だね。
 君は由緒ある伊修院家の嫁になったんだから、これからは常に理性的に判断することを覚えてほしい。いいね?」
 秋人に言われると、和香奈は仕方なく小さく頷いた。
 さらに秋人は和香奈をたしなめる。
「よくごらんよ、あの迷信の紙切れのせいで、特注した十センチ角80万のタイルがつくるプローニュの模様がぶちこわしじゃないか。
 君は伊修院家の嫁であると同時に、高級美食倶楽部『アスタナインテン』CEOの妻でもあるんだから、もっと美的センスも磨いてくれよ。
 あの紙切れは今日中に外しておきなさい、いいね」
 秋人はそう言ってまた英字新聞に目を戻した。が、まもなく、さすがに言い過ぎたと思ったらしく「もちろん紙切れがいけないんであって、君を嫌ってるわけじゃないよ」と付け加えた。しかし、視線は英字新聞から一センチと上げはしなかった。
 夫の冷たい言葉と態度に、和香奈は心の中で凍えるように感じた。

 和香奈の実家は、徳川家康三河時代からの旗本だった。父は普通のサラリーマンになりきって、そうでもないのだが、祖父母はまだ武家の誇りと伝統を強く守っていて、和香奈の躾けも時代錯誤のような琴、お茶、生け花等の習い事から、日常のしきたり、武家の娘の心得としてなぎなたも教わり、果ては匕首による自害の仕方まで説明されたのだ。
 もちろん、和香奈だって馬鹿らしくて稽古事は形をなぞってただけだが、ただ古くても美しいものはあると感じたのも確かだ。
 それがたとえば、今回の護符だ。
 非科学的でも、守ってくれるものを信じるだけなら生活の邪魔にはならない。
 それを秋人は気に入らないと言うのだ。
 秋人の伊修院家は公家の末裔だが、三、ニ代前がうまい具合に商売に長けていた。だから激動の時代を巧みに乗り切って、今は不動産とレストラン経営で都心にビルをいくつも構えて、名を知られている。
 そこへ和香奈の祖母が見合いの写真を持ち込んで、とんとん拍子に結婚まで至ってしまったのだ。

 2

 タイルの護符を外せと言われた和香奈だが、完全に外すのは気がひけて、キッチンの上の棚の中の側面に貼り付けておいた。これなら目障りにはならないから大丈夫だ。
 和香奈は毎晩、心を込めて料理を作り秋人を迎えるのだが、レストランの経営が仕事であるので、どうしても帰宅時間は9時、10時、場合によっては深夜のこともあり、せっかく用意した夕食に箸もつけないこともある。
 その日は、運良く10時前に帰ってきたので、和香奈は嬉しくなって秋人に料理を出した。
 しかし、秋人は業界誌の記事に没頭していて、笑顔を用意して待ち受ける和香奈に見向きもしない。
 和香奈が声をかけた。
「秋人さん、どうですか?」
「うん?」
「お料理、お味はどうですか?」
 秋人は驚いたような顔をした。
「あ、評価が必要なの。
 うーん、このピクルスは日本的でいいんじない」
 和香奈は呆気に取られた。糠漬けの漬け物をピクルスなんて呼ぶのは初めてだ。
 そこで和香奈は少しムキになった。
 秋人がカボチャの煮付けを口に入れるのを見て、和香奈が聞く。
「秋人さん、そのカボチャの煮付けはどう?」
「うん……」
「ホクホクで柔らかいでしょ」
 和香奈が微笑みかけると、秋人は箸の先をじっと見て言った。
「ああ、パンプキンね、柔らかいけど、少しパサパサしてるね。クリームソースでもかけてほしかったな。」
 和香奈は驚いた。
「ク、クリームソースですか?」
「ああ、君の料理は和風ばかりだけど、僕は子供の時から、お抱えのシェフが作るフランス料理ばかりだったから、舌がそれに慣れちゃってるみたいでね」
「そうだったんですか、すみません、それは知りませんでした。
 じゃあ、私もこれからは頑張ってフランス料理を出すようにしますね」
 和香奈は秋人が喜ぶように精一杯、言った。
 しかし、秋人は興味なさそうに言う。
「いや、無理しなくていいよ」
「いいんです、秋人さんに喜んでほしいから」
 和香奈は秋人に笑顔の返事を期待したが、それはなかった、その代わり、
「いや、いいんだよ、料理でこき使うために、君と結婚したんじゃないからね。
 料理なんて、金を出して、コックを雇えば済むことだから」
 和香奈は胸のあたりを風が吹き抜けるのを感じた。
 和香奈はもともと料理好きなのだ。結婚したら、ダンナさまや生まれてくる子供たちに料理を「美味しい」と褒めてもらうのを生きがいにしようと、ずっと思い描いてきた。しかし、秋人は和香奈に料理なんかしてほしくないと言うのだ。

 3

 一週間ほどした午後、和香奈が三十畳のリビングに掃除機をかけていると、玄関チャイムが鳴った。
 モニターに映ったのは着物姿の白髪の女性だ。年齢は60代ぐらいだ。
「はい、なんでしょうか?」
「秋人坊っちゃまにこちらで家事をするように言われた梅でございます」
 和香奈はロックを解除して、梅さんを玄関に迎えた。
 梅さんはドアが開くなり、宣言します。
「今日からお手伝いとしてこちらに住み込むことになりました。若奥様、よろしくお願いします」
 和香奈はびっくりした。
「私は全然聞かされてませんけど」
「やはり若奥様一人では料理や掃除、洗濯が大変らしいと、秋人坊ちゃんが仰られて、私を呼んだのです。
 私は秋人坊ちゃんの乳母となって以来30年近くお仕えしてきましたが、本当に秋人坊ちゃんは子供の頃からおやさしくて、思いやりがあって、ええ、若奥様はずいぶんな幸せ者ですわ」
 そう言うと、梅さんはさっさと部屋にあがり、後ろから本家の運転手の方がボストンバッグを運び込んだ。
 和香奈は毎日きちんと掃除していたし、洗濯だって、アイロンかけだってきちんとしていたつもりだ。料理だって、秋人の好みのフランス料理を出してきた。
 それもいやいやではない、楽しんでやってきたのに。
 和香奈は、寝室に入るとこっそり泣いた。

 午後三時、早めに買い物を済ませた和香奈は、大型のフランス料理の本数冊と首っぴきで、晩の料理作りにとりかかった。
 そして若干の試行錯誤を入れて、四時間後に料理はほぼ完成した。
 その頃、自分用に占拠したゲストルームで荷物の整理をしていた梅さんがキッチンを覗きに来た。
「若奥様、今夜は坊ちゃまに何をお出しになるんです?」
 和香奈は弾む声に自信を込めて言った。
「仔羊のスープリヨン風と、平目のムニエルニース風なんです、梅さん、ちょっと味見して下さい」
 しかし、梅さんは急に眉をしかめて言った。
「やだ、秋人坊ちゃんは平目はお嫌いなんですよ」
 和香奈はびっくりした。
「あの、魚はなんでも食べると聞いてたんですが」
「大体はね、ただ平目は別、たぶんカレイも駄目。
 小さい頃は召し上がっていたんです。しかし、中学の時に図鑑で平目の写真をご覧になり、目が中心線の片側に二個あるのは、シンメトリー的に美しくないと仰って、以来、生理的にも受け付けなくなってしまったんです」
 和香奈には、そんな理由はおかしいと言い張る余裕はなかった。
「どうしましょう?」
「もう七時、これから他の材料で料理するにしても、秋人さまのご帰宅に間に合わないかもしれませんよ。
 とにかくお屋敷に電話してみます」
 梅さんはリビングの電話を取ると椅子にかけて、ひそひそ声に時々笑いを交えて、しばらく電話した。
 キッチンに戻った梅さんは和香奈に言った。
「お屋敷のシェフに無理を聞いてもらえそうです」
「梅さん、ありがとうございます」
「若奥様、もし主婦業が無理なら早めに言って下さいね。その方が坊ちゃまだって、切り替えができるでしょうし……」
 和香奈が嫁失格だと言わんばかりだ。
「だ、大丈夫です、私、頑張りますから」
 和香奈は言ったが、梅さんの目は冷ややかだった。
 
 夜、二人きりになれたところで、和香奈は秋人に「どうして梅さんを呼んだんです?」と尋ねた。
「ああ、君にはフランス料理は大変そうだから。
 それに、洗濯や掃除だって大変だ。最初のうちは新婚だからね、二人きりの方がいいかと思ったから、梅を休ませていたんだ。予定通りのことだよ。
 君は伊修院家の妻にふさわしい教養を積み、いつも綺麗に化粧して着飾っていれば、それだけでいいんだ」
 和香奈は言い返した。
「でも、私は秋人さんのために、料理とか家事をしていると楽しいんです。気に入らないところがあれば努力して直しますから、家事をさせてください」
 秋人は声を荒げた。
「そんなのは貧乏所帯のすることだよ。
 家事なんかする暇があったら、君は文化芸術に目を向けなさい。
 今はまだ落ち着かないから招待も外出もしていないけど、そのうち、上流階級のいろんな客とつきあうようになる。
 その時、会話を楽しめるように教養を積んでおかないと、寂しい思いをするのは君なんだぞ。
 家事は梅に任せりゃいいんだ。体力的にできない部分は本家のメイドが手伝いに来るから何もしなくていい。君は美術館を巡ったり、ブランド品を買いあさって必要な知識を身につけるんだ。いいね?」
 秋人はそう言うと自分の唇で和香奈の唇を塞いだ。



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スーパースティション 後編 に続く

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[短編小説] 自首

 1

 警察署の正面玄関。夜の八時をまわり、立哨する警官もなくひっそりとしている。
 鷹木はドアを開けると、カウンターで隔てられた中を見回した。
 数人の警官が何やら机に向かっている。そのうちのニ十代後半の一人がこちらを見てゆっくりと立ち上がった。
「どうしました?」
「その、自首をしたくて」
 自首という言葉で、他の席の警官も一気に立ち上がった。ここで気が変わりでもしたら追いかけようということなのか。
 鷹木は笑みを噛み殺しながら言う。
「三課の牛場刑事を指名できますか?」
 そう言ってしまって、指名じゃキャバクラみたいかとまた笑みが浮かびそうになる。
 牛場刑事は以前逮捕された時にいろいろ話を聞いてくれた刑事で、その後も葉書をくれ、出所時にも世話になった。
「とにかく、そっちへまわってくれますか。」
 警官はやはり鷹木の気が変わらないか警戒してるような目つきで言った。
 
 すぐに三十歳そこそこの刑事が降りてくると、取調べ室に入れられ、椅子に座らせられた。
「牛場刑事はまもなく来る」
「ありがとうございます、前に牛場さんにお世話になった鷹木です。
 失礼ですが、お名前は?」
「湯木沢だ。
 三課でいいんだな?」
 つまり自白したい事件は盗犯だなという確認だろう。
「はい」
 まもなくドアが開いて、鷹木より四つ年上の四十ニ歳の牛場刑事が入ってきた。しかし、髪に白髪が混じり見た目は五十近い。中肉中背の鷹木よりも腹が出ているが、肥満というほどではない。
「なんだよ、呼び止められて来たら、お前、鷹木か。
 もうこういうところで会わない約束じゃなかったか?」
 牛場刑事が言うと鷹木は頭を下げた。
「すみません」
 牛場がスチール机の向かいに座ると同時に、湯木沢刑事も脇の長机に向かって着席した。
「まったくだ。
 ま、やっちまったものは仕方ない、自分から出頭した分進歩したととるか。」
「すみません」
 牛場刑事は、そこからゆっくりとした調子になって聞く。
「その後、どうだ、手かがりは掴めたか?」
「ああ、ないですね」
「俺もお前の母親のこと、気にはかけてるんだがな」
 牛場刑事は残念そうに呟いた。
「ありがとうございます。
 実は、シバさん」
 そこで、鷹木は牛場刑事を通称で呼んだ。
「俺にも、血を分けた家族みたいなものがいるんですよ」
 牛場刑事は目を斜めに動かした。
「うん?他に兄弟でもいたか?」
「いえ、そうじゃないんですが。
 こんな俺が家族みたいなものじゃ、あっちも迷惑するだろうから、ここでびしっと足を洗う決心をしたんです」
「ほおー」
 牛場刑事の頬に微笑が浮かぶと、鷹木はその「血を分けた家族みたいなもの」との出会いを告白を始めたのだった。

 2

 侵入して十数分、獲物は主寝室の黒いタンスの中から唐突に現れた。
 引き出しを下から順に開けてゆくと、上から二段目の中に、小さなジュエリーボックスがいくつも入ってる。
 試しにひとつを取り出し、小さな引き出しをスライドさせると、大粒のルビーやエメラルドのヘッドをつけたネックレスがぞろぞろと出てきた。
 アタッシュケースの容量を考えたら、全部は無理だな。
 鷹木は黒いベルベットの大きな布を広げると、上物だけをチョイスして並べる。
 次のジュエリーケースは指輪だ。ネックレスを並べた部分の上に布を折り、その上に今度は上物の指輪を少し間をあけて置いてゆく。
 次のジュエリーケースは腕時計だ。
 欲張ってはいけないぞ。
 自分に言い聞かせながらも、高級時計を並べる顔はほころんでいる。
 
 と、その時だ。
 何かのスイッチの音がした。いや、少し離れたところで車のドアをそっと開ける音だ。
 この稼業をしてる者は音には敏感だ。
 警察か?
 違うかもしれないが、躊躇なく撤退にかかる。
 鷹木は素早く布をたたむと、アタッシュの底板の裏にしまった。
 それから足音を立てぬように階段をおりると、死角の多い側のサッシに腰をつけると、素早く短靴の踵を覆っていた胴だけのソックスをふくらはぎにしまい、覆面を内ポケットにしまい、予定通り、塀に飛びつき隣家の敷地にいったん降り、さらに奥の家へつながるフェンスに登り、向こう側に降りる。
 そこは安っぽいアパートの通路だ。
 鷹木は手袋をここで取り、スーツの左右のポケットにしまいながら、弱い近視のメガネを押さえて、道への出口で両脇に注意を配った。
 いかん、道の右側四十メーター先に刑事らしき背広姿だ。
 これ以上間隔を詰められたらまずい。ここで潜むのは危険だ。

 鷹木は覚悟を決めて、道に出て左へ折れる。
 刑事が急に道に現れた自分をどの時点で見つけるか。
 1秒、2秒、3、4、
「あ、君、ちょっと。」
 かなり後ろで声がする。
 こっちはダッシュして、一旦、右折。
 や、ヤバッ。
 前方五十メーターにも刑事らしき背広姿。
 鷹木はすぐに左側のマンションに入り、そこは塀を飛びついて、隣の敷地へ。
 こうなると塀を使ってハードル競走をしているようなものだ。
 いくつかハードルをまたいだ鷹木はワンルームマンションの庭に入ると、手袋をつけて一番奥の部屋の手すりを越えた。但し、まだつま先立ちだ、そのまま踵にソックスのカバーをおろす。
 中は暗く、気配がない。誰もいないようだ。
 ようし、夕方までここで時間をつぶそう。
 鷹木はガラスを切る特殊カッターを取り出そうとして苦笑した。
 無用心だな、おかげでこっちは楽だが。
 サッシがロックされてないのだ。
 鷹木はそっとサッシを開き、靴先の砂を落として室内に入りカーテンを閉じた。

 3

 鷹木は小さなテーブルにひじをついて、室内の壁に貼られた写真や、角に吊るされた千羽鶴や、ベッドに並ぶぬいぐるみを眺め、住人は女子大生だなと考えた。
 次の瞬間、ベッドの熊のぬいぐるみがぴょこんと動いて、鷹木は焦った。
 続く瞬間、若い娘の声が響く。
「おじさん、私の足長おじさんでしょ?」
 ベッドからパジャマ姿の女が降りてきた。
 鷹木は唖然とした。
 明らかな侵入者である自分に対して、おじさんと親しげに笑顔で語りかけてくる女。
 鷹木は暴力は使わない主義だし、脅すための凶器も持ってない。
 だからこそ、そういう場面に出くわさないように細心の注意を払い、侵入時には覆面をしている。しかし、今は絶対無人だと決めつけて、覆面をしてなかった。
 うかつだった。
 だが、もしかしたら、頭の相当、弱い女かもしれない。
 鷹木は手で鼻と口を覆い、二十歳すぎに見える女の出方を観察した。
「ちょうど、足長おじさんの夢を見てたの。だから、すぐにそうだってわかったわ。」
 鷹木としては答えようもない。
「おじさんのおかげで私、こんなに元気になれたんですよ。
 ありがとうございました。」
 女はペコリと頭を下げた。
 顔を上げると、鷹木を見る目が潤んでいる。
 鷹木は、こいつは本物のバカかもしれないと思いつつ、ここはヘタに否定しない方が騒がれないと踏んだ。
「いや、たいしたことしてない。」
「ううん、おじさんは私の命の恩人だから、本当にありがとうございました。」
 女はもう一度お辞儀して、思い出したように、
「お名前は、高田さんですか?」
「いや、鷹木……、」
 鷹木はうっかり言いかけた。タカという音だけでも合っていたのはすごいと思ってしまったのだ。
「夢の中ではそんな感じだったので、そうか、タカギさんかあ。
 私は鞍川詩織です。」
 鷹木は千羽鶴にちらりと視線を投げかけた。
「鞍川さん、病気は大変だったみたいだね?」
 詩織は「ええ、ほんとに」と微笑んで言った。
「何度もくじけそうでした。死んだ方が楽かと何度も思いました。
 だけど、タカギさんの骨髄のおかげで命を拾いました。
 こうして、一人で下宿もして、少しずつ普通の生活になれて、毎日たいした痛みもなく呼吸できるだけでも嬉しくて嬉しくて。
 ぽかぽかのお陽さまを浴びて、そよ風を感じて、お散歩するだけでも幸せで幸せで。
 みんな、タカギさんのおかげですよ。」
 鷹木は詩織の言葉に、気になることがあった。
「そんなことないよ、君が頑張ったんだよ。
 手術はいつ頃?」
「一年半前の五月です」
 その答えは鷹木を驚かせた。
「ほんとに?」 
「ええ、あ、今、何か淹れますね、コーヒー、お茶、紅茶、ココア、何がいいですか?」
「じゃあ、コーヒーを。」
「砂糖とクリームは?」
「うん、両方抜きで。」
 詩織は立ち上がって、小さなキッチンでお湯を沸かし始めた。
 鷹木はそっと靴を脱いでアタッシュの上に置き、立ち上がって、壁に貼られている応援の手紙らしいものをざっと眺めた。
「この壁の手紙は?」
 詩織はドアの向こうから首だけ出して、
「うん、高校の時のクラスメートとかから貰った手紙、私の宝物ですね。」
 すぐ、またキッチンに引っ込んだ。
 鷹木は悪いと思ったが机の引き出しをそっと引いて、中から手帳を見つけて、プロフィールページを覗いた。
 名前鞍川詩織 年齢19歳 誕生日10月15日 天秤座 血液型O型 身長159cm 体重 kg
 鷹木はホッとした。

 実は鷹木は骨髄ドナーに登録していたのだ。
 鷹木は幼い頃に父親と弟を交通事故で亡くし、それから2年後、母親に捨てられ、施設に預けられて育った。だから鷹木は自分の中に流れている血こそが母親につながる唯一の手ががりのように感じて、それでドナー登録を早い時期にに行っていたのだ。もちろん、それで本当の母親に会える確率など、大海から自分の吐いた唾を探すようなものだということは、十分わかってはいたのだが。
 そして1年半前の五月、適合者がいるのでと連絡を受けた時は、ほぼあり得ないと思いつつも、一瞬、心がときめいた。
 担当した医師からは、基本的に移植希望者の情報は教えられないが、年齢からしてあなたの母親ではないのは確かだと告げられて採取を受けたのだった。
 その後、移植を受けた者からの手紙が骨髄バンク経由で二度、届いた。しかし、規則で相手方も名前や病院名等の個人情報に関わる内容は書かないと決められているので、それはただ感謝の言葉が何度も繰り返されているだけの文面であった。ただ手紙の字はどうみても少女の手によるものだった。
 鷹木には、そういう過去があったので、もしかしたら、その時、骨髄を提供した相手の部屋に、偶然、今、忍び込んでしまったのかと思いついたのだが、詩織の血液型はO型で、鷹木のB型と違っていた。
 そうわかると、鷹木は少しだけ落胆している自分に気付いて苦笑した。
 それにしても、突然、上がりこんでる自分に対して、詩織は少しもおかしいと思わないのだろうか。おかしいと思わないとしたら、おそらく夢の中でやりとりがあって、現実と連続しているのかもしれない。
 しかし、夢と現実が連続していると思うこと自体がおかしい。それはどういうことが惹き起こしているのだろう?
 例えば、高熱などで意識が朦朧として、混濁している……、
 
 4

 その時、キッチンでドスッと音がした。
 鷹木はドアを開けると、コーヒーのドリッパーを手にしたまま倒れている詩織を見つけた。床には豆が散乱している。
 やっかいなことになったぞ。
 鷹木はそのまま詩織をひきずるように室内に入れて、額に手をやり、かなりの熱があるのを確かめると、ベッドの枕を頭にあてがい毛布をかけてやった。
「おい、大丈夫か?」
 声をかけても返事はない。今度は名前を呼んでみる。
「詩織ちゃん、大丈夫か?」
 しかし、返事はない。
 できれば放り出したいところだが、どうやら重い持病のある娘となれば、盗人にも五分の魂がある。
 鷹木は詩織のかかりつけの病院を知ろうと、薬の袋か診察券を探した。
 すぐに冷蔵庫の上のかごに薬袋がまとまってるのを見つけた。
 それから、バッグの中から学生証を見つけ出した。
 どうやら、今は21歳らしい。住所がはっきりした。
 鷹木はベッドの脇にある電話で、薬袋の病院に電話をかけた。

《もしもし、今ですね、お宅の患者の鞍川詩織が急に倒れまして、担当医の方にアドバイスをいただきたいんだが》

《お名前をもう一度いただけますか?》

《名前が、鞍川、詩織です》

 まもなく担当医が電話に出た。
《恐れ入ります、そこは学校ですか?》
 
《自分の部屋です、コーヒーを淹れてて、急に倒れたんです。》

《意識はありますか?》

《呼んでも答えないんです》

《熱はどうです?》

《かなりあるみたいです》

《呼吸は苦しそうですか?》

《ええと》
 鷹木は詩織の胸がゆっくりと上下しているのを見た。
《呼吸は落ち着いてますね》

《顔色はどうです?》

《うーん、少し赤いですかね》

《わかりました、彼女には特殊な持病がありますので、他の病院に行くよりも、当病院に来ていただいた方がいいと思います、申し訳ないですが、お願いします》

《わかりました、あのタクシーでもいいですか?》
 鷹木がそう聞いたのは、救急車だと記録が残りそうで嫌だったからだ。

《ええ、タクシーでもかまいません、よろしくお願いします》

《わかりました》
 待てよ、結局、タクシーも呼んだら記録が残るか。
 鷹木は呟いて苦笑しながら、携帯で近くのタクシー会社の電話番号を調べた。

 まもなくタクシーが到着したらしく、クラクションが鳴った。
 鷹木はサスペンダーでアタッシュを背中にぶらさげ、パジャマの上にジャンパーを羽織らせた詩織を抱き上げると、廊下に出た。
 すると、あろうことか、廊下で制服警官二人が部屋の住人と話をしてる。
 ち、ついてない。
 まあ、制服ならまず俺の顔は知らないだろう。
 鷹木は覚悟を決めて詩織を抱いたまま、歩き出した。
 警官はちらりとこちらを見た。
 胸の鼓動が急激に高まる。
 警官を通り越して、鷹木は出入り口のガラス扉に向かって早足で進んだ。
 すると、警官らしい足音が鷹木を追いかけて来る。
 気付かれたのか?
 胸の鼓動は異常に高まった。
 次の瞬間、警官は鷹木を追い越すと、出入り口の扉を開いて鷹木にうなづいた。
 そうか、自動ドアでなかったので、気を利かしてくれたのだ。
 おかげで寿命が十五分ぐらい縮まったぞ。
 鷹木は「どうも」と警官に言って、外で待っているタクシーに乗り込んだ。

 5

 鷹木はタクシーが来たところまで話すと、喉が渇いてしまった。
「すみません、水をもらえますか」
 そう言うと、湯木沢刑事が立ってドアを開けて声をかけ、まもなく制服の警官がみっつの湯飲みを持ってきた。
「すまんな」と牛場刑事は礼を言ったが、口はつけない。
「ありがとうございます」
 鷹木は番茶をすすると話を再開した。
「私はタクシーの中で眠るように自分に寄りかかっている詩織を眺めながら、愛しい感情が湧いて来ることに驚きました。
 赤の他人である。何の関わりもない、ニ十近くも歳が違う娘です。
 しかし、普通に生きるという、一般人からしたらなんでもない低い目標のために、精一杯戦ってきたであろう勇敢な娘なんです。
 そして、苦しみの果てに勝ち取った、息をする幸せ、散歩する幸せをかみしめる娘です。
 私は、今まで自分など死んでもいいと思ったことは幾度もありました」
 鷹木は牛場刑事を見つめた。
「しかし、生きたいという気持ちに正面から取り組んだことなど一度もありませんでした。
 だから、素直に感動したんですよ。
 偉い娘だなという尊敬と、この娘のために何かしてやりたい、という気持ちが湧いてきました。
 もちろん、よこしまな下心などありませんよ。
 私は医者に会ったら自分にできることを聞いてみようと考えました」
 牛場刑事はこめかみを指で掻いて平坦な口調で言った。
「そこで、お前は、偶然に出会ったその娘を自分の家族と思うことにしたわけだ」
 牛場刑事が勝手に納得すると、鷹木は「いや」と言い返した。
「偶然じゃないんですよ」
「では、どういうことだ?」
「きっと私と詩織は磁石のように引き合ったんですよ」
「しかし、お前と血液型は違ったんだろう?」
 牛場刑事は腕組みをした。

 そこで鷹木は大きくうなづいて続けた。
「ええ、病院で詩織はいろいろ検査されたようですが、そこで意識を回復して私をおじさんはどこ?と探したようです。そのためか私は、主治医からも叔父と思われて診察室に通されたのです。
 医師は私に言いました。
『危惧するようなGVHD由来の炎症ではありませんでした。』
『はあ、それじゃあ大丈夫ですね?』
『今は落ち着いてきました。念のため、このまましばらく経過を見ますが』
 そこで私は何気なく聞きました。
『詩織の骨髄提供者はどこの誰なんです?』
『いやあ、ドナーの個人情報は骨髄パンクが管理していて、私どもは医学的なデータ以外は関知しないんです。』
『そうですか、たしか一年半前の五月で、相手はO型ですよね?』
 私は詩織の話と手帳を思い出しながら言いました。
『ええと、相手はたしか、ABO型は、』
 医師はカルテをひっくり返して言いました。
『B型の36歳の男性ですね』
『エッ!』
 私はびっくりしました。
 B型の36歳なら、まるで私です。
 医師は笑って言いました。
『ああ、一般の方は誤解されてるんですよ、骨髄移植の場合は赤血球のABO型ではなくて、白血球のHLA型で適合を判定するんです。』
『それではまずいんじゃ?』
『もちろん、B型血をO型の人に輸血してはまずいんですが、移植の場合、自分の血液が病気でだめだから全部殺して、ドナーの血液に入れ替えるのだと思ってください。正確に言うと頭の中等は自分の血液型がずっと残りますが、骨髄で作られ循環する血液はすっかりドナーのABO型に入れ替わります。詩織さんの場合なら、もう少しすると、この36歳の男性のB型にすっかり変化してゆきます』
 医師の言葉に、私は不思議な感動に震えました。
『では、一年半前、ドナーになったB型の36歳男性は何人ぐらいいますかね?』
 医師は面白いクイズでも解くように言った。
『B型の確率が0.22ぐらいかな、提供者の年齢が18歳~55歳とすれば、36歳である可能性は37分の一の0.027、男性だから単純に半分0.0135、それでもって一年半前の5月にどれぐらいの骨髄移植があるか、おそらく日本全国で10件もないでしょうし、そもそもHLA型の適合する確率をかけなきゃならない、これが大きくて500分の一から数万分の一です。
 ということは、面倒な計算をするまでもなく一人ですよ』
『つまり一年半前、ドナーになったB型の36歳男性は一人だけだろうと?』
『ええ、そう思います』
 私はいよいよ感動に胸を熱くしてしまいました。
『実は私、一年半前に骨髄を提供したんですよ、それは詩織の命を助けたんですね?』
『本当ですか?
 すごいな、兄弟なら確率は四分の一ですが、親子でも他人並みにガクッと適合の確率が落ちてしまうんです。ですから、奇蹟的な確率です』
『そうなんですか』
『ええ、たしかに詩織ちゃんはあなたの骨髄のおかげで助かったんですよ。その後もとても順調にきてます。私からも、ありがとうと言わせて下さい』
 医師は嬉しそうに言った。
『私でも、私の血でも、役に立ったんですね』
 私はそこで涙をぼろぼろと、こぼし……」
 鷹木は言いながら思い出したらしく、頬を伝う涙を手で拭いた。
 牛場刑事も目頭を押さえた。
「母親に捨てられ、それ以外にこの世との繋がりなどないと思っていた私の血が、見知らぬ娘を救い、その娘の体の中を満たし元気にしているんですよ。
 それがどんなに嬉しいことか、他人には決して想像もできないでしょう。
 そればかりか、私と同じ血液型になると言うんですよ。
 詩織は、私にとって、同じ血が流れている、家族のようなものなんです。
 そうとわかったら、詩織のためにも盗人稼業なんかしてられません。
 だから自首しに来たんです」
 牛場刑事は大きく何度かうなづくと、笑って言った。
「じゃあ、鷹木よ、お前の人生最後の取調べを始めようじゃねえか。」       了

 


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 街を歩いていて、ファッションで自己主張する人を眺めるのはなんとなく好奇心を刺激されて、面白いものだ。
 特に、その人がスタイルのいい女性だったりすると、ついつい目が釘付けになって、時間に余裕があれば、すれ違った後も振り向いて、後ろ姿を眺めてしまう。

 ところがそれがどんなに素敵なフォルムとカラーリングの服でも、店頭でそれを着ているマネキンに頭がないとどうにも気持ち悪いと感じるのである。
 勝負はボディだから、頭部はいらないというつもりなのかもしれないが、戦国時代に前世を生きているかもしれない人間としては、不気味なことこの上ない。
 いや、戦国時代はどうでもいい。
 人間の基本的な形態認識にあって頭部のない人形はどこか歪んでいるとしか思えない。
 こういうところにも、人間としての根源的な感覚の欠如が表れていると思うこの頃だ。
 



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結 物語の祖(おや)

 その日、嵯峨帝は、高尾山寺の空海を参内させると、先の疫病の広がりを密教の修法により収めた功績を称えて褒美を授けた。
 引き統いて帝は清涼殿に渡り、詩吟の宴の席に空海を加えた。
 漢詩の朗唄がひと区切りつくと、帝は列座する臣下たちに何か面白いことはないかと問うた。
「畏れながら、」
 参議小野岑盛が一拝して発言を乞うた。
「もはや御前に持ち出す話ではないやもしれませぬが、先に正史よりお削りあそばした、月に帰られたかぐや姫について話がありますが。」
 帝は杓で膝を打って「うむ、構わぬ」と発言を許した。
「先日、いずこより屋敷の女房に、竹取物語と題する仮名書きの綴じ本が届けられまして、これが本朝の様々な伝説を巧みに取り入れた物語の中に、かぐや姫の、はかなくも麗しい様子が見事に記されており、感心いたしました。」
「ほおー。」
「それは趣き深いこと。」
 帝をはじめ、難題に敗れた大伴皇子、葛原皇子、右大臣藤原園人、大納言春日御行、中納言菅原麻呂なども並ぶ一座は相槌を打って興味を示す。
「ここにその本をお持ちしました。」
 参議小野岑盛は蔵人を通じて帝に本を献じた。
 帝は本にしばらく目を通すと言う。
「なるほど、養父を竹取の翁に見立てておるようだな。
 筆も文才もなかなか見事な様子、書いたのは一体。誰じゃ?」
 聞かれた参議小野岑盛は慌てて平伏した。
「申し訳ございません。
 使いの者が約束の品と言えばわかると申したため深く問い質さず、どこの誰ともわかりません。」
「誰ぞ、書き手を知る者はないか?」
 帝に聞かれた一堂は、互いに顔を見合わせると静まり返った。
 帝は微笑んで、わざと空海の木像然としている顔に向かう。
「別当、そちなら知っておるだろう?」
 空海は上体を前に倒してしらばくれる。
「畏れながら、山に棲む坊主は麗しい姫の話など噂すら聞いたことがございません。」
「ふふ、そうか、別当も知らぬか。」
 帝は満足そうに頷くと声を高めて呟いた。
「されば、月の者が我らを慰めるためによこしたものかもしれぬの。」
「なるほど。」
「まことにそうかもしれませんな。」
 臣下達は帝の着想を楽しんで頷いた。
「よし、皆揃って『竹取物語』の写本を作り、かの姫を偲ぽうではないか。」
「御名案にございます。」
「では、早速に写本の順番を決めましょう。」
 一座は籤つくりに浮かれた。

 空海は、あの悪党広忠のことを思い返していた。
 広忠はあれから、もう一度、空海の寝所を訪れ、様々なことを語った。
 月の都はこの世を一千万歳生まれ変わって、徳を積んで入れる極楽であることと、かぐやがまことに月の都の者であったこと、そしてかぐやがこの世に遣わされた理由が、この世で一番凶悪な自分を改心させるためであったこと。
 広忠が悪から足を洗うと改心したことで、かぐやは月に帰りかけたが、司直と言い合ううちに、月に帰るより自分を選んでくれたこと。
 最後に、広忠は「坊主、礼を言うぞ。この通りじゃ。」と言うと、空海の足元に殊勝に頭をすりつけてから、帰ったのだった。
 これでよかろうて。
 空海は浮かれる一座を眺めてつぶやいた。
 かくして『竹取物語』は世に流布した。

 しかし、かぐや姫がこの世に降ろされた理由や、強盗広忠との恋の顛末、そしてその後も続いた平穏な生活は、決して世間に出ることはなかったのである。     了


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 かぐやは言葉を続けた。
「かぐやはその月の都で、数十万歳前の前世の自分の親に偶然に巡り合い、愛しく思いなし、他の方に配るよう割り当てられていた、音楽を奏でる石をつい差し上げたのです。
 その前世の親は、これは他人に配るものではないのか、と尋ねてくれたのに、私は違いますと嘘まで申しました。
 そのため私は月の大神の司直に捕らわれたのです。」
「たったそれだけのことでか?」
「はい。月の律法は厳しいのです。
 そして、私は罰として、こちらの地でもっとも寂しい夫婦を慰め、もっとも凶悪な悪人を改心させるように言いつかって、赤子の姿に戻され、なすべき務めは、しかと覚えたまま、この地に降ろされたのです。」
「な、なんだとお、」
 叫んだ口を開いたまま、天空の月を一瞥すると、広忠は胸の縮みゆく思いで虫の音のように呟いた。
「俺の妻になったのは、そのためだったか?」
 かぐやは懸命に首を左右に振った。
「いいえ、そのためだけではありません。
 正直に申しますと、確かに最初は広忠様のことを恐ろしいとも思いました。
 なれど、この地に体を持ち生きるということは、様々の愚かな、しかしそれ故に強く激しい情を持つということです。
 それは律法ばかり気にする月の民がとっくに忘れておる心なのです。
 かぐやが広忠様のためにひたむきになれたのは、まっことに広忠様のくださる情を嬉しく思い、心底お幕い申した恋のカのおかげです。
 それだけは決して疑ってくださいますな。」
 かぐやが答えると、広忠はその言葉尻を掴んだ。
「そうであるなら俺の元に留まってくれ。
 俺はかぐやなしには、もはや生きた心地せん。
 お願いじゃ、行かないでくれ。」
「そう言われると、もう胸裂く心地がいたします。
 広忠様が改心された時に、私が激しく泣いたのは嬉しいからではございません、別れるのが辛すぎて泣いたのです。
 しかし広忠様が見事に改心なされたからには、かぐやは月の都に帰らねばならないのです。勝手に地上に留まることはなりません。」
 かぐやはそう言うと袖に顔を埋めて号泣した。
「いやじゃ、かぐやは渡さん、絶対、月になど帰さんぞ、」
 広忠は姫を強く抱き寄せようとしたが、かぐやははっと空を振り向いた。
「広忠様、かぐやはそろそろ月の司直に引き戻されるようです。」

 広忠はかぐやを押さえようと思ったが、不思議な力が働いて、指一本動かすことができない。
「いかん、かぐや。
 俺の傍にいてくれ、なあ、思い留まれ。」
 童子のようにねだる広忠に、かぐやが月を指差す。
「もう留まれません、あれが迎えです。」
 見ると、月に純白の光の塊が生まれ、こちらに向けて一筋の光を伸ばす。
 広忠はかぐやを失う恐怖に身の毛をよだて身震いした。
「来るなあ、かぐやは渡さんぞ。」
 広忠は一筋の光を眈みつけ大声で叫んだ。
 その光は滑るように降りて、空に残る少ない雲を突き抜けて、地上へ地上へと向かって眩しさを増してくる。
 すると風もないのに庭の木の葉は渦を巻いて舞い上がりだす。
 広忠は一筋の光の眩しさに目を細めつつかぐやに懇願した。
「かぐや、行くな、
 俺はまだまだ悪党だ。明日にも悪さをするかもしれんぞ。
 お願いだ、この世に留まってくれ。」
「広忠様こそ、多くの徳を積まれて、早う月の都においでください。
 そこでお逢いしたあかつきは、辛い物語も楽しい思い出も心ゆくまで言いかわしましょうぞ。」
 かぐやが言う間にも一筋の光はどんどん近づいて釆る。
「この世の数え方では遠い先かもしれませぬが、またお逢いできる時は必ずまいります。」
「必ずか?」
 吹き上げる強風の中で、広忠が涙を流しつつ聞ぎ返すと、かぐやは屋根の上まで迫っている一筋の光を袖で遮り、強い調子で頷いた。
「はい、きっと月で一緒になりましょう。
 今度は私が広忠様に約束いたします。」
 広忠はかぐやを見つめたが、すぐに首を横に振った。
「……いいや、そんなのは当てのないのと同じだ。
 俺はずっとかぐやを離したくないんじゃあ。」
 叫びながら広忠はありったけの力を奮って、かぐやの手を掴んだ。

 しかし、次の瞬間、眩しい光がかぐやの頭上に降りた。
 そしてかぐやのまわりに緑に輝く五尺ほどのひと形の光が降り立った。
「さあ、参ろうぞ。」
 緑に輝く者の声が響いた。
「かぐや、行っては駄目じゃ。俺はかぐやなしには生きてゆけん。」
 広忠のみっともない言葉に、かぐやが緑に輝く者に問いかける。
「司直さま、私がこの地に留まることはなりませぬか?」
 かぐやが尋ねると、緑の光に黄色い光が混ざった。
「何を愚かなことを言う。
 このような野蛮な地に留まってなんとする。」
「私はこの方に添い遂げたいのでございます。」
「これは、この地でも最も恐ろしい人間、最も卑しき人間じゃぞ。」
「それが見事に改心なされたのです。この方がこれから歩む行方を間違わぬよう、一緒について差し上げたいのでございます。」
 かぐやが言うと、緑の光に赤い光が混ざった。
「よいか。そなたが月に帰れる機会はこの夜限り。これを逃せば、あとはこの地の卑しき者どもと同じように、一千万歳生まれ変わり、一から功徳を積まねばならぬのだぞ。
 すでに十分に積まれた功徳を無にするなど月の大神が許すと思うか。
 それ以上、逆らうと言うなら、月にて新たな裁きを致すしかないぞ。
 月の大神の命に従うのだ!」
 そう言われるとかぐやはうつむいて覚悟を決めるようだった。
 しかし、広忠が叫んだ。
「どうしてもかぐやを連れてゆくならば、」
 広忠が太刀を抜くと、かぐやは大声で制した。
「広忠様、おやめくだされ、月の大神様ご直参の司直様です、畏れ多いこと。」
 広忠は咄嗟に考えて、太刀の刃を自分の胸に向けた。
「かぐやを連れてゆくならば、俺は生きていても意味もない。
 もともとかぐやが認めてくれなければ、まともな心もない、人の形をしたただの獣じゃ。 ここで俺とかぐやと、二人突き通して果てて見せるわ。」
 司直は吐き捨てる。
「け、汚らわしい、吐く言葉の全てが忌まわしいわ、さ、姫、参るぞ。」
 司直の言葉だが、かぐやは従おうとしない。
「お待ち下さい。」
「なんじゃ?」
「私は月に帰るより、この男の刃にて共に死ぬることを選びます。」
 緑の光が紫に点滅した。
「ゆ、許さんぞ、今の忌まわしき言葉、月に帰りても大神様もお許しにならんぞ。そのような言い様、心の芯まで汚れて腐り果てたか。」
 しかし、かぐやは司直から広忠に向き直る。
「広忠様、どうぞ、私の覚悟はなりましたぞ。」
「おお、かぐや、よいのだな?」
 広忠がそっと太刀を自分の胸に突き立てようとし、切っ先から血がわずかばかりぴゅっと噴き出し、緑の光の方へ飛んだ。
「グゥゲッ」
 月の司直は吐き出すような声を上げ、かぐやは急いで広忠の手がそれ以上進まぬよう止めた。
 緑の光はかぐやの頭上の光に吸い込まれると、大きな白い光は逃げるように空を昇り、天に引き返した。 
「かぐや?」
 広忠は予想外のなりゆきに目をまばたいた。
「ようございました。司直様には広忠様の血の汚れがよほど恐ろしかったのです。」
「では、かぐやはずっと俺の傍にいてくれるのか?」
「はい、約束いたします。
 広忠様、私が添い遂げますゆえ、これからはいかなる悪さも許しませぬぞ。」
 かぐやが笑みを浮かべ見つめると、広忠はにやにやとして頭を掻いた。

 仰ぎ見れば仲秋の満月、実に静かな夜空である。



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 その日、広忠が狩から帰る頃には、夕焼けが闇に飲まれ天に丸い月が輝いた。
 広忠は家が近づいてくると今宵の睦み事を考えた。
 最近は、広忠が仕向けると、かぐやも求めるように力を入れてくる、それが可愛いくてたまらないのだ。
 広忠はつい鼻の下を伸ばしながら、家の門をくぐり、土間に獲物を投げ出してかぐやを呼んだ。
「かぐや、遅うなって心配かけたの、今、帰ったぞ。」
 しかし、返事はない。
 広忠はおかしいと思いながら、適当に足を拭いて、奥の室の戸口を開けた。
 かぐやは蔀戸を跳ね上げて差し込む月光を眺めていた。
「かぐや、そこにいたか、遅うなって心配かけたの。」
 かぐやは振り向いて微笑んだ。
「お帰りなさいませ、広忠様。」
「ん、その格好は、どうしたんじゃ?」
 この夜のかぐやは、汚い小袖の帷子ではなく、衵を鮮やかに重ねた上に蘇芳(すおう)の表衣を付け、さらに裳までつけた盛装である。
 しかし心舞い上がる広忠は、微笑むかぐやの目に真っ赤に泣きはらした跡があることに気付かなかった。
「ははあ、俺の好みの衣装をしてくれたか?」
「そうであればよいですが。
 今日はかぐやにとって最も悲しい日でもございます。」
 広忠は訳がわからず首を傾しげた。
「何を言っておるんじゃ?」
 広忠が尋ねると、かぐやは膝の前に静かに両手をつき揃えて言った。
「今宵限り、かぐやは広忠様にお暇申し上げなければなりませぬ。」
 その光景はずっと前の悪夢にそっくりであった。
「ば、馬鹿なことを言うな、
 俺はかぐやの願い通り、悪事をすっかり止めたんじゃぞ。」
 広忠は笑って言いながらも、かぐやの堅く思いつめた表情に、内心の動揺を大きくしていく。
「仰せの通りです。
 広忠様の誓い、かぐやも間違いなきこと確かめ、何よりも嬉しく思いました。
 だからこそ、かぐやはお別れせねばなりません。」
 かぐやが繰り返すと広忠は大声で怒鳴った。
「何を言ってるんじゃ、
 悪事を止めて、かぐやに逃げられては道理が逆だ。」
 広忠の苛立ちに静かに頷いたかぐやは、
「本当のことを申し上げます」と告白を始めた。

「実は、かぐやはまことに月の都に住む者なのです。」
 かぐやの言葉に広忠は一瞬、呆気に取られ、すかさず怒る。
「ば、馬鹿な、それは俺の吹き込んだ猿芝居ぞ。」
 しかし、かぐやは静かに続ける。
「芝居ではありませぬ。
 かぐやは、まことに月の者なのです。」
 広忠を見詰めるかぐやの瞳は今にもこぼれそうな涙をようやくこらえている。
「御存知ないかと思いますが、月の都というのは、こちらの地上にて一千万歳の前世を生まれ変わり、数えきれない徳を積んだ果てにようやく入れる世界でして、こちらの方は極楽などと呼びますが、実際は信じられぬほど厳しいところなのです。
 いかに厳しいか申しますと、たとえば親が自分の子を他人の子よりも大事に扱うだけで大罪なのです。
 そこは神の律令の支配する、ひとかけらの私心も赦されない世界なのです。」
 両手をついて打ち明けるかぐやの頬から、光のしずくが、きらり、またきらりと床にごぼれ落ちた。
 広忠は腕力のありったけを使ってもかぐやの告白をやめさせようと手を伸ばした。
 しかし、かぐやは、高貴な輝きに包まれていて、別世界のカで広忠の手を押し戻してくるのだった。


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 先月27日に、京都大の再生医科学研究所がマウスの皮膚から万能型のiPS細胞を再生させることに成功したニュースに関して「クローン細胞」というタイトルでちょっと書きました。
 それから1ケ月もしないうちに、大阪大学医学部付属病院と東京女子医大病院との合同チームが足筋肉から培養した細胞シートを、重症の拡張型心筋症の心臓に張り、見事に機能回復したというニュースが飛び込んできました。
 手順としては、太ももの筋肉から「筋芽細胞」を取り出す。これを直径4センチほどのシート状に培養したうえで、多数のシートを3層ほどに重ねて、弱った心臓の表面に張り付ける。
 その後、シートは心臓の組織と一体化し、専門の方も驚くほど、正常の心臓とさほど見劣りしないほどに機能回復しているらしいです。
 前回のiPS細胞は万能細胞ですから、本来と違う目的に使用される危惧がありましたが、今回は同じ種類の細胞ということで、倫理的な壁も、リスクも低いようです。また実用化もiPS細胞よりも容易と思われます。
 自分の細胞で移植待機の重症患者が助かったケースは今回が世界初とのことです。
 心臓疾患で移植待機しか道がなかった人々に大きな希望をもたらしてくれたのではと、拍手をもって迎えたいと思います。
 全世界のカノンちゃん、よかったね!
 

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十四 あらたなる約束

 夕闇が静かに山々を呑み込もうとしていた。

 広忠は猪を二頭肩にかけ雉子を五羽背負いながら、身も浮き上がる心地で家路を急いだ。
 今日は、カケスの赤子を救い、また悪事をやめることを誓った。
 思い返せば、他の生き物を救い、他人のために己れを抑えたのは生まれて初めてだ。
 それがこのように清々しい気持ちになれるとは考えもしなかった。
 かぐやの喜ぶ姿を思い描きながら、どうして俺は今までこの簡単なことに気がつかなかったのだろうと広忠は不思議に思った。
 かぐやは最初に何が欲しいと尋ねられた時から、広忠に悪事を止めることを願っていたのだ。
 それを長い月日を重ねないと成し遂げられなかったのは、いつも広忠が悪の出来心に負けてきたからだ。
「弱いのう。」
 広忠は己れが膂力はあっても、実は心の弱い男だということをようやく認めると、苦笑いを満面に押し広げてどっと大笑いした。

 駆け込むように家に入った広忠が、獲物を土間に投げ出すと、かぐやは戸を開けて微笑んで出て来た。
「お帰りなさい、今日は真面目に働きなされましたね。」
「かぐや、口を聞いてくれるか?」
「はい、私とて黙ってるのは辛うございます。
 広忠様が真面目に働いてくだされば黙っておられましょうか。」
「実は今日は良いことをしたのじゃ。」
 広忠は足を洗うのも忘れ、板の間に上がってかぐやの手を両手で包んだ。
「はい。」
「街道のあたりで、間抜けな面の金持ちが馬に乗ってやってきたのだ。
 俺は、つい、ちょっとこづかい稼ぎをしようかと思いたった。」
「まあ、それのどこが良いことなのです?」
 かぐやはまた怖い顔になったが、広忠は急いで続ける。
「いや、そうではないのだ、聞いてくれ。
 ふと、向かいの林で小さなものが落ちるのが目に入った。
 それから、ここで悪事をしては、かぐやに捨てられると思った。
 そこで俺は、追いはぎはやめて、向かいの林で落ちた小さいものを探しに行って、そいつを見つけたのじゃ。
 なんだと思う?」
「さあ、なんでしょう?」
「カケスの赤子じゃ、俺の親指ほどの赤子がぴいぴい鳴いておった。
 俺は近くの杉に巣を見つけて、よじ登ってカケスの赤子を返してやったのだ。」
「それは、それは、良いことをなさいましたな。」
 かぐやは目に涙を浮かべて、手の甲で拭うようにした。
「おう、俺も気持ちがよかった。俺が助けてやらねば親にはぐれたまま腹を空かせて死んでただろうよ。それを俺が助けてやったのだ。
 それから俺はもうひとつ良いことをしたのだ。
 今までしようという気持ちはあっても出来心に負けてかなわなかったことじゃ。
 わかるだろう?」
 広忠が聞くと、かぐやは察しがついたとみえ、いよいよ涙を溢れさせて声も出せずにうなづいた。
「かぐやにずっと頼まれていたことじゃ。
 俺は、二度と悪事を働かんと誓ったのじゃ。」
「ぉおぉぉ」
 かぐやは声にならない声を上げて、そのまま広忠の胸に顔を埋めた。
 広忠は、今までは、胸のうちに、かぐやと不釣合いだというわだかまりがあった。しかし、今、そのわだかまりがかぐやの涙ですっかり溶けてゆくような気がした。
「かぐや」
 広忠もかぐやの背中をやさしくさすって言う。
「ははは、そんなに泣かなくてもよいではないか。
 さては、かぐや、よほど俺が悪から足を洗えぬと思っておったな。」
「ち、違います、嬉しうて、」
 かぐやの嗚咽はしばらくやまなかった。


 それから、広忠とかぐやの生活は前にもまして喜びに溢れていた。
 広忠はかぐやと屋敷の庭に畑を作り始めた。
 力仕事なら広忠にはたやすいことだ。屋敷を流れる小川から水撒き用の小さな水路を通した。
 そして、広忠が畝を作ると、かぐやが種を蒔いてゆく。
「よい畑ができたの。」
「ええ、手前が大根。池に近いあたりが茄子、塀の近くは芋がなりましょう。
 食べきれない分は行商の方にお願いして都で売れば、お金になりますよ。」
「そうか。かぐやはおつむがええのう。」
「広忠様、ほんに悪事をやめてくださり、ありがとうございました。」
「うん、悪事などなさずとも、このように楽しく暮らせるのじゃ。もう考えも起きんようだ、ははは。」
 かぐやは嬉しそうに広忠を見つめた。しかし、不意に涙を溢れさせる。
「どうした、かぐや。」
「父上、母上のことを思い出したのです。今頃、どうなされているでしょう。」
「ああ、かぐやが月に行ったと信じて、思い出語りなどしてるだろうな。
 あれは、こうするしかなかったんじゃ。」
 広忠はかぐやの肩を抱き寄せた。
 


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十三 広忠の改心

 その朝も、広忠は無言のかぐやに給仕され朝飯を食べてから猟に出掛けた。
 実は朝飯を終えた時、土下座してでもかぐやにあやまろうかと思ったのだが、あと、わずかというところで果たせなかったのだ。
 秋空は青、雲は白にくっきりと晴れ渡っていたが、広忠は暗欝たる黒雲を背負った気分で山に分け入り獣道を歩いた。
 この日の広忠は。麓で鹿が角を鳴らす音にも、枝を渡る猿に驚いた雉子が立てるけたたましい羽音にも見向きもしなかった。いつもなら二十間先の茂みの奥に猪が潜んでいても野生の勘で見抜ける広忠だが、今日は五間先を鹿が横切っても目に入らないのだ。
 広忠はただひたすらにかぐやのことを思っていた。
 かぐやの明るい微笑み、かぐやの澄んだ声、かぐやの柔らかな体がなけれぱ、己れの膂力によりこの世の富を全て手にしたとしても、広忠は生きた心地がしないのだ。
 広忠を受け入れてくれるかぐやが傍らにいてくれるからこそ、盗みがばれて叱られることさえちょっとした愉しみだった。しかし、この数日間、かぐやは笑みも見せず口すら聞いてくれず、広忠の分厚い胸の内はずっと凍える思いだった。
 なんとかしてかぐやとの仲を元に戻したいものだと考え考え歩くうち、広忠は昼を過ぎる頃には山をふたつ越えて街道に突き当たった。

 道端の石の上に腰をおろし、かぐやが無言で渡してくれた握り飯を喰らっていると、都の方角から馬に乗ったいい身なりの男が下男に手綱を引かせてやって来るのが見えた。
 反射的に広忠はその気を起こした。
 少しばかり面白いことを働くか。
 もちろん、大金を捲き上げて高価な絹を買ったところでかぐやが喜ぱないのははっきりしているのは、広忠にもわかっていた。
 しかし、うまい菓子とちょいと小奇麗な小袖でも土産にして謝ったならば、かぐやも受け取って仲直りしてくれるのではないか。
 それくらいの土産ならこの三日の稼ぎを貯めたと言って信じてくれるに違いない。
「そうしよう、俺もうまい酒にごぶさたしてるしな。」
 広忠は握り飯をゆっくりと食いながら待った。

 山鳩の絶え間ない鳴き声に、郭公が合いの手を挟む中、次第に獲物達が近づいてくる。
 広忠は獲物に己れの鋭い眼を見せぬよう反対の方角に顔を向けて待った。
 さっきまでかぐやを思いながら衰えていた五感は、今や研ぎ澄まされている。
 俺が迫ると下男は刀を抜くかもしれないが、その時は石で刃を折ってやろう。
 駆け逃げたら馬の首の後ろに飛びついて首を折ってやろう。
 主人は黒面広忠と知ると真っ青になって命請いするだろうが、俺が僅かばかりの金で許してくれたら狐にばかされたような顔をするに違いない。
 はっははっ、愉快だ。

 笑みを噛み殺すと、獲物達は間近に迫っている。
 広忠は足元の石をそっと掴むと、気合いを入れて立ち上がろうとした。
 その時、三十間先のひとつの木の脇を何か小さなものが落ちるのが、広忠の目に捉えられた。
 なんだろう。
 次の瞬間、額を一滴の汗がたらりと流れた。

 広忠は、はっと悪夢を思い出した。
 瞼の奥で、かぐやは両手をつき「これでお暇いたします」と宣言する。
 広忠は慌てて首を振った。
 そうだ、もしこの悪事がばれたら、かぐやは呆れ返って俺と別れる気を起こすやもしれない。
 いや、きっと別れると言い出すに違いない。
 それはまずい、どうしてもまずい。
 確かにちょいと他人を殴りつけて金品をせしめるほど面白い仕事はないが、今の俺にはどんな悪事の楽しみよりもかぐやの笑顔の方が大事なのだ。

「あの糞坊主の予言通りには運ばせんぞ。」
 広忠はそう叫ぶと、木の脇を落ちたものを確かめようと立ち上がった。
 そしていい身なりの男一行の先を横切る形で、脇の林に入り何かが落ちたあたりをゆっくりと探した。
 小さい何かは意外にもあっさりと見つかった。
 なぜなら、それはぴいぴいと必死に親を呼んでいたからだ。
 広忠は近くの杉の、十間ほどの高さの枝に巣を見つけた。
 これが堅い地面ならひとたまりもなかったところだったが、いくつかの違う草や羊歯が葉を重ね合わせ、落ちてきたカケスの赤子を柔らかく手渡ししたから無事だったのだ。
「よかったのう。
 お前、まだ目も開いておらぬのか。」
 広忠の手のひらにすくわれたカケスの赤子は広忠を親と思ったか、ますますぴいぴいと声を上げる。広忠は赤子の愛らしさに微笑んだ。
 カケスの赤子を握り飯を入れてきた布にそっと包み、よじ登る邪魔にならぬよう首のうしろにくくりつけ、広忠は木をよじ登った。
 そしてカケスの巣に赤子をそっと戻すとまた微笑んだ。
「お前もわしやかぐやのように親とはぐれるところだったのだぞ。
 これからは気をつけよ。」
 広忠は生まれて初めて味わう爽快な喜びにひたった。
 そして物心ついて以来いつも自分を支配してきた悪の心を、すっかり捨て去る決心をした。
 広忠は大声で叫んだ。
「よし、かぐや、決めたぞ。
 今こそ誓うぞ。
 この広忠、生涯二度と悪事は働かん。」
 カケスの赤子は何事かと驚いて黙り込んだ。
 広忠が振り返って見遣ると、いい身なりの男一行は道の遥か先をのんびりと去って行った。


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 かぐやは、広忠のものではない、その財布を素早く拾い上げ鼻先に突きつける。
「これはなんです?」
「あっ、そ、それはのう、」
 かぐやは礫(つぶて)のような勢いで言葉をぶつけた。
「なんと情けないこと、
 かぐやがこんな格好になったのも広忠様に悪事をやめてほしい一心なのですよ。
 それがわかっていただけませぬか?」
「つい、出来心でな、すまんかった。」
 広忠は照れ隠しに頭を掻いて謝った。
「いつになったら悪さが治まるのです?」
 なおもかぐやが厳しく迫ると、広忠は姫を抱き寄せて無理やりに唇を吸った。
 姫は広忠の体をカの限り押し返して怒る。
「いつもそうして話をうやむやにされる。
 どうして改心してくださらぬのです?」
 目尻を弛ませて聞いていた広忠は答える。
「そのうち改心するさ。」
 そして、広忠は今度はかぐやの懐に手を滑り込ませようとした。
「やめてくだされ、」
 かぐやは広忠の手をピシャリと叩いた。
 広忠はムッとして言い返す。
「お前は俺の妻じゃ、文句を言うな。」
「かぐやはきちんと話をしてほしいのです。」
「俺はかぐやにちゃんと約束してるぞ。
 とっとと赤子を産んでみせろ。
 されば俺も誓い通り、きっぱり足を洗ってやるわ。」
 広忠が怒鳴りつけると、かぐやは空を食むように口を動かし、どっと涙を溢れさせると、身を翻して、逃げるようにして奥の室に駆け込んだ。
 広忠は瞬時に後悔した。
 かぐやとて心から子供を欲しているに違いないのだ。それが果たせないのは少しもかぐやの罪ではない。広忠は言い過ぎを悟って大きな足音を立てて姫の後を追いかけた。
「かぐや。」
 呼びかけると、かぐやは鍵を下ろした妻戸の向こうで鴫咽を上げたままで答えない。
「おい、かぐや。」
 再び呼んだが、かぐやは答える気配がない。
 言い過ぎを詫びる気でいた広忠だったが、二度三度とかぐやの返事がないと生来の短気から腹が立ってきた。
 結局、やさしい言葉の代わりに、
「勝手に泣いてろ」と言い捨てて寝所に入った。
 そしてふて寝を決め込んだ広忠だったが、愛しいかぐやと喧嘩してみると、おもむろに空海のあの予言が思い返されてきて、なかなか寝つけなかった。

 ようやく眠りにつけたと思ったら今度は明け方になって実に嫌な夢を見てしまった。

──追い剥ぎをはたらき予想以上の大金を手に入れて、ほくほくして家に帰ると、かぐやが艶やかな絹を着て微笑んでいる。
 広忠も笑みを浮かべて「今日はたんまり儲けたぞ」と言うと、姫は徴笑んだまましなやかに床に両手をついて
「ようございましたな、かぐやもこれでようやく広忠様にお暇を申し上げる決心がつきました」と広忠に別れを告げるのだ。
 広忠はびっくりして「行くな、行かないでくれ」と懇願して追うが、姫は笑いながら闇に消え入ってしまう。
 広忠は手を伸ばそうとするが、見ると両腕がなくなっており、空しく絶叫する。
 どっと汗をかいて広忠は目を覚ました。
 慌てて床を出てかぐやを探すと、かぐやはいつものように朝飯の支度をしており、広忠は、ほっと息を吐いた。
 しかしながら、膳につくと、もはや様子は昨日とは違っていた。
「もうひとつ。」
 広忠が椀を差し出すと、かぐやは無言で受け取りお代わりをよそって、無言で返す。
 やはり、昨日のことを怒っておるんじゃな。広忠はそう感じて、思い切って照れる台詞を吐いてみる。
「うまいのう、かぐやのこさえた飯を食える俺は幸せもんじゃ。」
 しかし、かぐやは自分の飯を黙々と食べるだけで、広忠の言葉に答えない。
「行ってくるぞ。」
 そう言って広忠が腰を上げても振り向きもしない。
 もう何を言っても聞いてくれぬのか。
 広忠は溜め息を吐いて、ひっそりと支度を整えると狩りに出かけた。

 


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十ニ 忍び寄る影

「さあ、かぐや、着いたぞ。」
 広忠がそう言って、かぐやを家の門で背中からおろした。
 都の街中ではないが、かといって不便な山奥でもない、里を少し入ったあたりに建つその家は、かぐやの前の家よりも立派な造りだ。
「ここは誰の家です?」
「わしらの家じゃ。」
「広忠殿に家を買う代金がありましたか?」
 かぐやがきつい目で問うと、広忠は慌てた。
「あ、そうではないぞ、盗んだのではないぞ、なんとかいう大臣の別荘じゃ、わしが、毎月、猪を届けてやるから、小さい家を借してくれと持ちかけたら、そういえば大原の先の別荘が使わずにあるから自由に使えと貸してくれたのだ。」
 かぐやは呆れた。
「それは、広忠殿の猪が目当てなのではなく、広忠様が恐ろしくて貸したので、まともな貸し借りではありませぬ。」
 かぐやに叱られると、大男の広忠がうろたえる。
「そ、そうか。ではどうすればよい?」
「いつぞや広忠様の家は山の洞窟だと聞いてましたが、」
「ああ、あそこは大雨で崩れて、入り口が塞がって住めなくなったんじゃ。
 俺はかぐやがどこに住みたいと言えば、どこへでも行くぞ。」
 広忠はそう言われても、かぐやに住まいのあてがあるはずもない。
「仕方がないですね、しばらくこの家に住まわせていただきましょう。」
 かぐやがそう言うと、広忠は喜んだ。
「そうか、それがよい。ここなら水を汲みに行かずとも屋敷の中に小さい川が流れておるし、庭にもかぐやの好きそうないろんな花の木があるんじゃ。」
 広忠は広忠なりに、かぐやのことを気遣ってくれているのだ。
 そう思うとかぐやは微笑んだ。
 
 当初は慣れない炊事に戸惑うかぐやだったが、ひと月もせぬうちに飯炊きも包丁使いも上達し、鮮やかな衵の上に襷をかけた奇妙な姿もさまになってきた。
 広忠の方は猪を追ったり、雉子を射落としたり、川魚を獲ったり、畑を耕したりして、二人が食べてゆくのに充分な食糧は楽々と得ることが出来た。獲物が余れば都に向かう行商人に売り、銭に替えることも覚えた。
 しかし、獲物を大量に獲って商う才覚まではないので、いったん家を出た後に何か食いたい、酒を飲みたいとなると、広忠はかぐやの目が届かぬのをいいことに、旅人を脅して金を巻き上げる悪癖を続けていた。
 その日も広忠は山を越えた街道で追い剥ぎを働いたが、かぐやに悪事を悟られるような土産は買わずに、何げない顔を作って帰って来た。

「あら。お帰りなさい。
 今日は行商の方からお酒を買って、少し用意しましたよ。」
 そう言って笑顔で出迎えたかぐやを見た広忠は、ロを開いてびっくりした。
 姫はいつもの艶やかな絹の衣ではなく、庶民の着る鼠色の小袖の帷子(かたびら)を着ているのだ。
「かぐや、その汚い衣はどうした?」
「広忠様のおさがりを手直ししたのです。
 なかなか動きやすいですよ。」
「なぜ綺麗な装束を脱いだんだ?」
「わたしたちはもう世間並みの夫婦なのですからね、つましく暮らさねばならないのですよ。」
 広忠は納得ゆかない。
「しかし、ない物ならともかく。似合っているものをわざわざ脱ぐこともあるまい。」
「いいえ、絹などすぐに傷んで惨めになるだけです。
 だいたい裾を引きずる衣では一歩も外へ出られません。
 これからはかぐやも少しは畑仕事も覚えて広忠様の役に立ちたいのです。」
 広忠は頭を横に振った。かぐやがどんな道理を立てようとも、ずっと絹装束を着ていてほしかった。
「いいや、かぐやが畑仕事なんぞすることはない。
 かぐやには麗しい絹が似合うんだ。
 新しい衣ぐらいはなんとかするから、行く末など心配せずに絹を着ろ。」
 広忠がいらだって命令すると、かぐやば鋭い調子で釘を刺した。
「世間並みの実入りでどうして絹が着られます?
 広忠様はまさか盗みで行く末を賄うおつもりなのではないでしょうね?」
「そ、そういう訳ではないが。」
 かぐやは広忠が猪を一頭ぶらさげただけなのを見て言う。
「今日は獲物が少ないですね、広忠様ともあろう方が一日じゅう歩いてこれだけという筈がありません。
 どこで何をなさってたのです?」
「うん、ほ、ほれ、干し肉がだいぶあったろ、だから今日はのんびり昼寝をしたんだよ。」
 かぐやは動揺した広忠に近寄り、懐に手を差し入れようとする。
 広忠は素早くその手を払ったが、その拍子に背負っていた矢立てから矢がぱらぱらとこぼれ落ち、その矢を拾おうとかかんだ。すると今度は旅人から巻き上げた財布が懐から、こぼれ落ちてしまった。





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 衛府の中将が参内するや、帝は来たる満月の夜には内裏の衛士の三分の一をかぐやの家に差し向けることを命じた。
 同時に近隣の諸国に力自慢の者や武術の達人を臨時に招集する宣旨を下す。
 都の大エも召し出され、来たる満月までに、姫の屋敷のまわりに巡らされている垣を、内裏のそれより高くて堅固な土塀に築き変えるように命じた。
 こうして万全の準備が進められた。

 当日になると朝のうちから、兵士たちが、かぐやの家に続々と集結した。
 騎馬に乗ってやって来た衛府の中将は、馬から降りると真っ先にかぐやの父に挨拶する。
「帝より姫の警護に千人の兵を賜りました。」
「まことに畏れ多いことです。」
「いかなる迎えが来ようとも、姫の部屋には近づけませんゆえ、安心召されい。」
「はい、ありがたいことです。」
 父はひしめく兵たちを見て安堵した。

 昼になると、ある兵たちは屋根に昇り、ある兵たちは改築された土塀に上がり、ある兵たちは庭に並び、残りの兵は土塀を囲むように並び、屋敷はすっかり守り固められた。
 夕方には勅使が到着した。
 勅使が懐から大きな紙を取り出して見せると、衛府の中将以下が畏まって膝まづいた。
「姫君を守り通した暁には、もれなく恩賞を遣わす」
 宣旨が読み上げられると、衛府の中将が答礼する。
「ありがたき仰せ、承りました。」
 衛府の中将は立ち上がると、振り向いて部下たちに言う。
「皆の者、姫を守りとおさば、主上より、恩賞を頂けるそうじゃ。
 心してあたれ、決してぬかるな。」
 すると「おお」と、どよめきのような歓声が上がった。
 兵士たちの士気はいやがうえにも高まったのである。
 父母はこれならかぐやを取られることはあるまいと安心した。

 やがて宵闇が垂れ込めて東の空に月が昇った。
 塀の内外には煌々と篝火が焚かれて、ニ千のいかつい眼が、欠けるところのない美しい満月を睨みつけた。
「見逃すな。
 空をよぎるものはたとえ蚊一匹といえども矢を射かけるのじゃ。
 決して屋敷に近づけるな。」
 衛府の中将が怒鳴ると、兵士達は矢を弦にかけ、大刀を抜き、空を見張った。
 父は蔀戸を堅くおろしたかぐやの室の外縁に腰をおろし、使い方も知らない刀を腰に差していた。
 そして、時々、室内に詰めている朝廷から差し向けられた女官や、妻、かぐや本人に向かい「大丈夫か、安心せよ」と声をかけていた。


 やがて夜も更けた子の刻(ねのこく)であった。
 交替のため屋根に昇ってきた兵士が叫んだ。
「なんだ、あの光は!」
 南天の満月ばかりを睨んでいた兵士達は、叫び声に北の空を振り返ってあっと驚いた。
 そこには、満月とは、別の小さな菱形の光るものがいつの間にか浮かんでいたのだ。
 それは大きさこそ満月にははるかに及ばぬものの、明るさは見劣らない。
 しかも、なにやら菱形の上部の左右に、銀色の目がきらりきらりと光るのである。
 兵士たちは今しがた洩れかけていた眠気を一気に払った。
「それっ、射落とせー!」
 号令一下、夥しい数の矢がヒュンヒュンと音を立てて放たれるが、菱形の光には一本も届かないようだ。
 しかし、菱形の光の方もそれ以上屋敷に近づくと、矢に当たるのが恐いのか、近づきもせずに宙空に留まっている。
 それから延々と兵士と菱形の光との睨み合いが続いた。
 ところが、寅の刻(とらのこく)を過ぎた頃だろうが、忽然と菱形の光は消えてしまった。
「やったぞ、怪しの光は恐れをなして逃げ去ったぞ。」
 兵士達は恩賞が近づいたと大歓声を上げる。
「皆の者、引き続き気を緩めるでないぞ。」
 衛府の中将は兵士たちに注意する。
 それから中将はかぐやの室の縁に陣取る父に怪しの月が消えたことを告げに近寄った。 夜風に白い髪をなでられ、うつらうつらしてる父の肩を中将が揺り起こそうとする、まさにその時、かぐやの室の中から「あれー」と女官の悲鳴が上がった。
「何事ぞ?」
 中将は蔀戸の外から怒鳴る。
「姫様が、姫様が消えました。」
「ほんの僅か、目を離した隙に消えてしまわれた!」
「黒い鬼のような影が見えました!」
 女官達の叫び声に、中将は無礼を承知で室内に踏み込んだ。
 女官の右往左往する閨にかぐやの姿はなく、傍らにいた母は姫の表衣を掴んだまま失神している。
「姫君が盗まれた、屋敷の内外を急いで探せ」
 中将は大声で外に叱咤した。
 兵士たちは一斉に動き出す。
 兵士は、かぐやの室の床下にも這い入り調べたが、そこにはとても人力では動かせない大きく平たい石があるのみだ。
 かぐやの父は妻をゆすぶる。
「どうした、お前がついていながら、かぐやを盗られてしもうたか?」
 母はかぐやの姿がないのに気付くとばたばたと這いまわった。
「かぐやは、かぐやはいずこ?」
 父は肩を落として答えた。
「どうやら月の迎えに盗まれたようじゃ……、」
「ああ、ずっとかぐやの手を握っていたのに、急に目を塞がれ腹を突かれてしもうて。」
 母はそう言うとかぐやの表衣に顔を埋めて号泣した。


 その頃、広忠は林の中に降ろした大凧を持ち上げた。それは二枚の菱形の大凧がニ尺ほどの骨組みを挟んで向き合う形で、広忠は大凧から三枚の手鏡を外すと、大凧をぱらぱらに壊して土に埋めた。
「まこと、かぐやの鏡はよき鏡よの、
 おかげで、裏の凧に仕掛けしたかぐやの鏡が照り返す月の光で、表の凧は月に負けぬほど輝き、表の凧の脇につけた小さな鏡はくるくるまわって、まるで、闇にふたつの目がある光る魔物が浮かぶようだったぞ。」
 広忠が鏡を返しながら、嬉しそうに言ったが、かぐやは答えない。 
「さあ、かぐや、急こう。」
 広忠はかぐやの手を引くが、かぐやは涙で濡らした頬を、篝火に浮き上がる家に向けて動かない。
「かぐや、こんなところでのんびりしてると探索の追っ手が来るぞ。」
 広忠が急かすと、かぐやは頬の涙を拭って頷きぽつりと眩いた。
「いずれは別れるのが、この世の定めですものね。」
「ああ、では行くぞ。」
 広忠はかぐやを軽々と背負うと、都を挟んで反対の山麓地にある新しい住まいに向けて獣道を駆け出した。



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【故事メモ 子の刻(ねのこく)、寅の刻(とらのこく) 】
 時刻に十ニ支(獣)をあてたのは中国の後漢代からで、子の刻(ねのこく)は一日の最初のニ時間であり、午後十一時より午前一時になる。寅の刻(とらのこく)はそれよりふたつ後の支だから、午前三時より午前五時となる。

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十一 月よりの迎え

 数日後の晩、丹波の里の空に半月が昇る頃、かぐやは頭を垂れて、両手を揃えて床につき、切り出した。
「父上、母上に申し上げたいことがあります。」
 父や母は不思議に思い問いかける。
「なんだい、かぐや?」
「あらたまって、どうしたんじゃ?」
 すると、かぐやは急に涙をこぼしながら身の上を告白した。
「長い間、まことの娘より大事に育てていただき感謝の言葉も言い足りません。
 今となっては全てを包み隠さず申し上げなくてはなりませぬ。
 実は、かぐやはこの地の人ではなく、もともと月の都にいた者なのです。」
 父母は胸を突かれたように驚いた。
「何を言い出すのだ!」
「嘘でしょう?」
 かぐやは黙ったまま首を横に振った。
 父は言って聞かせる。
「たしかに初めは朱雀門の下に捨てられてあったが、我と女房して大事に世話し、育ってゆかれし様子は、まっこと普通のおなごでしたぞ。
 いや、子のない我らが言うだけなら間違いもあろうが、手伝いに来てくれた者たちも、よいお子じゃ、初めてにしては育て方を心得てなさると、口々に褒めてくだされたからには間違いはありませんぞ。」
「いいえ、かぐやは月のお上より、この世にて為すべきことを申しつかり、その為すべきことをずっと覚えたまま、赤子の体に戻されて、この地に遣わされたのでございます。
 為すべき事も成った今は、来たる満月の晩に月よりの迎えが参ります。
 その迎えに導かれ、私は月に帰ります。
 ここまで育てていただいた父上母上にも、残念ながらお暇を申し上げねばなりませぬ。」
 かぐやは頭を垂れてあやまった。
「そのような嘘を言うてくれるな。
 天子様の勅使がいやでそのように言われるのだな?」
「いいえ、そうではございません。まことに月の者なのでございます。
 嘘でない証拠に、来たる満月の晩には、きっと月よりの迎えが参ります。
 どうぞ、信じてください。」
「そのように言われても、俄かに信じられようか。」
 父は納得いかない様子だが、母は感じるところがあったらしく、
「あまりに強情に殿方を拒みなさるから、何か言えぬ理由があるのではと思ってはおりましたが、なるほど、そのような訳があれば、殿方を迎えることができなかったのですねえ。」
 そう言うとその場に、よよと泣き崩れた。
「育てられた恩を忘れて、我等を見捨てると言われるか?」
 父が詰じるように言うと、かぐやも床に打ち伏して声を上げる。
「そのように言われては、かぐやはいっそここで死んでしまいとうございます。
 本当に大事にしていただき、月の親よりもありがたく恩い寄す父上母上です。
 どうして恩を感じないことがありましょうか。」
 かぐやはさめざめと泣いて、後はもう声にもならない。

「ここまで孫をほしくて育ててきたのですぞ。」
「どうか、この婆を哀れと思うなら月には帰らぬと言ってくだされ。」
 父母は涙声に責め立てたり、あるいは懇願するけれど、かぐやは首を縦に振ることはなかった。


 翌日の昼下がり、大内裏に戻った勅使の参議小野岑盛(おのみねもり)は急いで帝の御座所に入ると平伏した。
「おお、帰ったか、姫の機嫌はいかがじゃった?」
「畏れながら、一大事と覚えまする。」
「一大事とな?」
「は、かの姫の父が申しますには、かの姫はまことは月の姫なりと。」
 帝は驚いて、腰を浮かせた。
「な、なんと、かの姫は月の姫なのか?」
「仰せのごとく。月の姫なれば、次の満月には月に帰ると申して泣き明かしておるそうです。」
 帝は扇をピシャと音を立てて閉じた。
「面妖な、それはまことか?」
「疑いはまことに月よりの迎えが来れば明らかとなろうと、かの姫は申しておるようでございます。」
「あいわかった。
 かの姫が朕の后をあれほど断る謎がどうやら解けたわ。」
 そう言うと、帝は自ら御簾をめくり上げて命令した。
「衛府の中将をただちに召し出せ。わが軍勢を姫の館に差し向け、月よりの迎えを追い返すのじゃ。」
 兄帝の戦においても、そのように取り乱して御簾を跳ね上げた様を見たことがなかった参議小野岑盛はびっくりして、返事が遅れた。
「か、かしこまってございます。」





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十 名案

 広忠が、空海の、阿弥陀如来の化身のふりをしてはどうか、という言葉を伝えると、かぐやも溜め息を吐いた。
「それではかえって、拝みに来る者が増えましょう。」
「俺もそこには気付いた。何しろ育てられた寺で、仏像をありがたがる奴らをたくさん見てきたからの。」
「そうでしたか。」
「そこで、あの坊様に、もっとよい策はないかと尋ねたのだが、あのけちな坊様は、一から十まで他人に頼らず、自分で考えろと叱られてしもうた。」
「では考えてみるより他にないですね。」
 かぐやはそう言って考え込んだ。

 勅使は毎日のように訪れていたが、かぐやはいずれも会わずに泣いて断っていた。

 そんなある日、嵯峨帝は須磨の塩焼きを身に行くと口実をつけて、途中、丹波のあたりで気分がすぐれぬと言い出し、かぐやの家に御輿を留めさせた。
 まさか、かように辺鄙な土地を、天子様が突然に訪れるとは夢にも思わなかった父母は、恐縮のあまり胸を潰される心地で帝を家の中に通した。
 帝は板敷の床に敷物を敷かせ胡坐を組み、従者に大きな扇をあおがせて言う。
「先日、朕(ちん)が使いを娘に会わせず空しく帰したこと、非礼なふるまいであろう。」
 帝に咎められた父は床に鼻を押し付けてあやまった。
「は、非礼の段は、幾重にもお詫び甲し上げます。
 なにぶん山奥育ちの頑なな娘でして、この老いぼれ以外にはまったく男の姿を見たこともなく、男を鬼か何かのごとく避けておるのでございます。」
「今日は会えるだろうな?」
 帝は笑みを浮かべて催促した。
「天子様のお望みとあらば、会うことは会わせましょうが、
 まこと頑なな娘につき、はたして畏れ多い無礼をはたらかぬかと心配でございます。」
「かまわぬ、案内せよ。」
 帝が命ずると母がかぐやの室に通した。

 かぐやは几帳の陰に隠れている。
「かぐや、天子様がわさわざお越しになられたんだよ。」
 帝はまわりこんでかぐやを覗き込もうとするが、かぐやは慌てて扇で顔を覆う。
「姫、その扇、取って、顔を見せよ。」
「かぐや、父母のためだと思ってどうか御無礼をはたらかないでおくれ。」
 母にそう言われると、かぐやはやむなく扇を下げた。
 すると帝は息を呑んだ。
 噂に勝る、かぐやの美貌を目にして、帝はたちまち激しい恋心を覚えた。
「これは、そちは朕のどの妃よりも美しい。」
 帝はそう言ってかぐやをつかまえようと近寄ってくる。
「お寄りにならないでください。」
「駄々を言うでないよ。」
「私には鬼がついております。」
「ふむ、朕には高尾山寺の空海がついておるし、
 そちの美しさを手にするためなら鬼も恐くはないそ。」
 帝はかぐやに微笑みかけて近づく。
「お許しください。」
「逆らうでないよ。」
 帝の手が肩に触れようとすると、かぐやはこういう時に備えていた匕首(あいくち)を取り出して白分の胸に向けた。
「それ以上近づかれたら死にます。」
 かぐやの凄まじい拒絶に会うと、さすがの帝もそれ以上近づこうとはしなかった。

 帝は父母に微笑んで見せた。
「姫の無礼、気にするな、またまかる」
 そう言い残して満たされない思いのまま内裏へ帰った。
 その後も再三に渡り求婚の勅使が遣わされ、かぐやと両親の相反する悩みは深まるばかりだった。


 十日ほど過ぎた夜、広忠は嬉しそうな顔をしてやって来た。
「良い案が浮かんだぞ。」
 かぐやも微笑んで聞く。
「どのような案でございますか?」
 広忠は顔を近づけて囁いた。
「かぐやは月に帰ると嘘をつけ。」
 広忠の突拍子もない思いつきにかぐやは口を開いてびっくりした。
「月に帰る……どうしてそのような突飛なことを思いつかれました?」
「うむ、いつものように猪を待ちながら、ふと脇の大木にある巣を眺めていたんじゃ。
 すると一匹、また一匹と蜂が巣に帰るのが見える。
 そうして巣を見るうちに、急にその巣が月に見えての、これだと閃いたんじゃ。」
 かぐやはまだ口を開いたままうなづいた。
「かぐやの養い親はかぐやの実の親が誰なのか知らない、そうだな?」
「……ええ」
 かぐやは相槌を打つと俯いた。
「そこでひと芝居打つのだ。
 かぐやは実は月の人間で、次の満月には月から迎えが来てどうしても帰らねばならないと告白する。
 だから、たとえ帝の求婚でも受けられないのだと断れ。」
 かぐやは疑わしそうに問いかける。
「そのような嘘であきらめてくれましょうか?」
「いや、あきらめないだろう。
 きっと帝は、軍勢にものを言わせても、かぐやを月からの迎えに渡すまいとするはずじゃ。」
「しかし、そもそも嘘ですから、月からの迎えなど来ないでしょう?」
「うむ、そこで俺が月の迎えを作って飛ばすのじゃ。
 軍勢がニセの月の迎えに見とれている間に、俺がこの床下から、かぐやを攫ってしまうのだ。
 されば父母も、帝も、かぐやは月に帰ってしまったと信じて、あきらめてくれるぞ。
 どうだ、うまい計略だろうが。」
 かぐやは不安そうに言う。
「うまくゆけば良い策ですが。」
 すると、広忠は自信たっぷりに胸を叩いた。
「きっと俺がうまくゆかせてみせるぞ。」



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九 勅使 

 翌くる文月の七日のことであった。
 昼すぎ、家の門が叩かれたかと思うと、まもなく、門番の下男が「ヒー」と声にならない声を上げて走る音がした。
 それからややあって父と母が慌てふためいてかぐやの部屋に駆け込んで来た。
「かぐや、た、大変な、こ、ことになったよ。」
「どうしたんですか、お二人ともそんなに慌てて。」
 かぐやは父母の目があまりに大きく見開いているのでおかしくて笑った。
「慌てるも何もないよ。」
 父が言いかけるのに間を与えず、母がものすごい早口でまくしたてた。
「いいかい、よくお聞き、
 今、天子様のお使いが来られて、天子様がかぐやに会いたいと仰せなんだよ、
 どういう意味かわかるだろう?」
「えっ」
 かぐやには、どういう意味か飲み込めなかった。
「会いたいとはどういうことです?」
 かぐやが聞くと、今度は父が早口で言う。
「天子様が会いたいというのは、畏れ多くも、この国第一の大王がかぐやを妻として御召しになりたいということだ。」
「なんとも、ありがだいことですよ。」
「このかぐやに帝の妃になれと言うのですか?」
「そうだよ、こんなにおめでたいことはないよ。」
「今、この室に勅使を呼ぶから『謹んでお受けいたます』とお答えするんだよ、いいね?」
 父母はすっかり恐縮して受諾しようと考えている。
 この前の葛原皇子には蓬莱の玉の枝を天子様に献上しようと言ってやりこめたが、その天子様の方が自分を召し出すというのだから、これはもしかしたら天から罰が巡ってきたのかもしれない。
 しかし、広忠の妻であるかぐやからすれば、警護厳重な内裏に囲われる妃になるなど、何にもまして避けたい事だ。
「お断り申しあげます。」
 かぐやが言い放つと、父母は目玉を落としそうな勢いで驚いた。
「何を言われます?」
「天下第一の帝の妃を断るなど考えられないことだ。」
「どうしてそのように聞き分けがないのです?」
「勅使を断ったら、父や母は大王に背いているとして捕らえられるかもしれないよ。」
 父母は口々にかぐやを説得しようとするが、かぐやは泣き声になって言う。
「大王に背こうとかぐやは内裏には参りません。」
「どうしてなのだ、訳をちゃんと言ってごらん。」
 さらに尋ねられたかぐやは大きな声を上げて泣ぎ崩れてしまった。さすがに姫に大声で泣かれれば父母がどう取り繕おうとも、勅使も事情を掴めた。結局、返事を得られないまま勅使は引き返して行った。


 その晩、かぐやから帝の求婚について知らされた広忠は即座に言った。
「そうなると、ここは俺と駆け落ちするか。」
 かぐやは俯いて言う。
「それはできれば避けたいことです。」
「しかし、このままでは、いずれ無理矢理にでも内裏に違れてゆかれてしまうぞ。」
「そんなひどいこと、かぐやは広忠様の妻ですよ。」
「ならば、俺と駆け落ちするしかあるまい。」
「でも、かぐやは恩厚い父上母上の家を出るわけにはゆきません。」
「他に方策はないだろう。
 帝の妃になっても家は出ねばならないのだ、それより俺と駆け落ちする方がよいではないか。」
「ですが。
 突然、かぐやが姿を消せば、父上母上は裏切られたと感じておおいに悲しみます。
 せめて同じう悲しませるにしても、父上母上がこれならば仕方ないと、かぐやをあきらめてくれるような手立てはないものでしょうか。」
 かぐやは悩みに沈み込んだ。
「やれやれ、難しい問題だの。」
 広忠も考え込み頭を掻いた。


 次の晩、空海の寝所に、再び広忠が忍び込んだ。
「坊様よ、起きてくれ。」
 広忠の声に、空海はすぐに思い出した。
「おお、いつぞやの悪党じゃな。」
 空海は身を起こし、灯明をともした。
「していかがした?」
「この前の難題はうまくいったぞ、礼を言ってやる。」
 空海は口の聞き方を知らぬ広忠に笑みを見せた。
「まだ、別れてなかったか?」
 広忠はじっと睨みつけた。
「俺はな、貴様の思うとおりにはならん。」
「ふむ、たしかに未来は変わるかもしれんの。
 それで、こたびの用はなんじゃ?」
 空海が尋ねると、広忠は理由を聞かせる。
「俺の妻にの、帝が勅使とやらを寄こしたのだ。妻にしたいということらしい。
 しかし、かぐやは俺の妻じゃ。渡すわけにはいかん。
 断る口実を教えてくれ。」
 空海は、嵯峨帝は賢いが女好きの度がすぎるのが玉に傷だなと心の中で思った。
 皇后、女御、更衣があまたさぶらう中、さらに宮中の侍女にも手をつけてゆかれる。
 そして、どこかから噂を聞きつけ、かぐやとやらも召し出そうということらしい。
 空海は広忠に問いかける。
「どのような妻なのだ?」
「どのようか、ううむ、この世のものとも思えぬほど暖かく柔らかい女じゃ。」 
「そして、悪党のお前を夫に迎えた。変わっておるの。」
 広忠はむっとなって睨んだ。
「なんじゃ、その言い方は。」
「まあ、まことだからよいではないか。
 うむ、こう考えたらどうじゃ。」
 空海が切り出すと、今度は広忠は思わずかしこまって耳を傾けた。
「よいか、姫は阿弥陀如来の化身だと答えるのじゃ。
 それゆえ、時が満ちれば、あちらの世界に帰らねばならぬ。
 その時が満ちたゆえ、おいとまするという話にしてはいかがじゃ。」
「おう、それはよい話を授かった。」
 広忠は喜んで帰ろうとして歩き出し、ふと、また空海に向き直った。
「しかし、待てよ。
 都の者どもときたら、中身のない仏像ですらありがたがるのだぞ。
 かぐやが阿弥陀如来の化身では、それこそ、逃げられぬようにお堂に閉じ込められて拝まれるだけではないか。
 それでは困る。もっと他の策はないのか?」
 広忠がせがむと、空海は叱った。
「こら、他人に一から十まで頼るものではないわ。
 そうでなくても、坊主には毒の、のろけ話を聞かされて迷惑したわ。
 後は自分で考えよ。」
 空海は明かりを吹き消すと、とっと寝床に入ってしまった。
 広忠は小さく息を吐くと空海の寝所から引き上げた。


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 皇子が父と夕餉を共にして、すっかけ打ち解けた様子で談笑する隣で、かぐやは震えていた。広忠だけにと誓った身をまもなく皇子に任せなければならないのかと考えると気が気ではなかったのだ。
 やがて母が勧める。
「おふたりはそろそろ寝所に入られたらどうです。」
 広忠が来るのはもっと遅い時刻だ。できればそれまで引き伸ばしたい。
 かぐやはなんとか抵抗を試みる。
「まだ早うございます。」
 かぐやが言うと、母が言い返す。
「もう、よい頃ですよ。
 姫は男女の道をよく知らぬのですから、優しい皇子さまによく教えてもらいなさいませ。」
 かぐやはさらに抵抗を試みる。
「皇子さまは一度ご自分のお屋敷に戻られてから来るべきではございませんか。」
 本来なら、皇子はいったん帰って、かぐやの室に三日間、通うのが普通の手順なのだ。
 そして、父母は三日間、それに気付かないふりをした後で所顕し(ところあらわし)の宴会を催す。
「かぐや、めでたいことなのだから、そのように形に捉われなくてもよいではないか。」
 ほろ酔い加減のかぐやの父が言うと、皇子も「では、父殿のお言葉に甘えるとしましょうか」とご機嫌である。
「さ、かぐや姫。」
 皇子に明かした名を呼ばれ、かぐやは涙を流しながら手を引かれて寝所に入った。

「かぐや姫、そなたは、ほんに麗しいのう。」
 そう誉めて皇子が抱き寄せようとする腕を、かぐやはするりとかいくぐって几帳の陰にまわる。
「そのように恥ずかしがらずともよい。
 さあ、おとなしく側においでなさい。」
 皇子が捕まえにかかると、かぐやはさらに逃げた。
 しばらく几帳や燈台のまわりでのんびりした追いかけっこが繰り広げられた後、ようやく皇子はかぐやの袖を握って捕まえた。
「はは、妻が夫の気持ちに背いてはいけませぬぞ。」
 そこで皇子がやさしく肩を胞き寄せる。
 すると、かぐやはそれを力を込めて突き放した。
 そうなると、さすがの皇子も真っ赤になってかぐやを叱りつける。
「そなたは余を侮辱するつもりか?」
 それから皇子は気を取り直して、ひとしきりかぐやに男女の仲を諭して聞かせた。

「なにも恐がらずともよいのじゃ、余が優しう手ほどきするゆえの。」 
 皇子は笑みを浮かべながら、今度は逃げられないよう力を込めて強引にかぐやにのしかかってきた。
 表衣を取られ衵(あこめ)を剥がされ、汗袗(かざみ)一枚となったかぐやは覚悟の涙をこぼした。
 そして、みっつ瞬きするほどの間があって、急にのしかかっているはずの皇子の重さがなくなった。
 かぐやが不思議に思って目を開いて見た。
 そこには、いつの間にか広忠が皇子を組み敷いて姫に徴笑みを送っている。
「だ、誰じゃ、放せ。」
 皇子は足をばたつかせて喚いた。
 かぐやは嬉しさを満面に広げると、素早く頭を勧かせて、広忠に黙っているよう、自分の口を手で押さえて目くばせした。
 そしてさりげなく皇子に聞く。
「皇子さま、どうされました?」
「誰かが余の体を締めつけておるのじゃ、」
「私には見えませんが、もしや、何か出ましたか。」
 かぐやが怯えたふりをして言うと、皇子は聞き返す。
「出たとは、なんじゃ?」
「はい、実を言いますと、私は、三年ほど昔、殿方を迎えたことがあったのですが、その時、鬼が出たそうで。
 いえ、私の目には何も見えなかったのですが。
 ちょうど今、皇子さまと同じことを今は亡き殿方が申してたのでございます。」
「なんじゃと!」
「最初の晩は鬼はほどなく消えたそうでございますが、すぐれた大徳の調伏も効果なく、ひと月後の晩、殿方はとうとう取り殺されてしまったのです。」
 かぐやが打ち明けると、皇子は恐怖に声を引き攣らせて言った。
「ひ、卑怯ぞ、
 そんな怖ろしい話を隠して余を迎えるとは卑怯ぞ、」
「しかし、私には一向に心当りはなかったものですから。」
「心当りもなく鬼が出るものか、あ、痛っ。」
 広忠はここぞとばかり皇子を締めあげた。
「鬼よ、許せ。
 どうか、命ばかりは助けてたもれ。」
 皇子が懇願すると、広忠は、ことさら低い声を作って皇子を脅かした。
「よおし、二度と姫に近づくんじゃねえぞ、
 その時は手足をもいで、胴を鍋で煮て食ってやるからな。」
 広忠に背中を蹴飛ばされた皇子はかぐやを振り返りもせず、這う這うの体で部屋から逃げ出した。
「広忠様の乱暴も役に立つことがあるのですね。」
 かぐやはそう言って広忠に笑いかけた。
 まもなく、父が驚いた声で室の外から聞く。
「かぐや、皇子さまが慌てて帰られたぞ、何があったのだ?」
「さあ、なんでも鬼を見たとか申されて。」
 かぐやが言うと、広忠は口を押さえて笑った。


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【故事メモ 所顕し(ところあらわし) 】
 この時代、神仏に結婚を誓うという儀式は一般になかった。通い三日目に開かれる所顕しが、親戚への結婚披露宴となっていた。

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八 蓬莱の玉の枝

 その夜、かぐやから右大臣の話を聞かされた広忠は声を上げて笑ってしまい、すぐに、かぐやにたしなめられた。
「声を下げてくだされ、父上、母上が起きます。」
 広忠は小さい声であやまる。
「すまんすまん、しかし、それは見ものだったのう、わしのいる時に来てくれればよいものを。」
「ええ、見せとうございました。」
「なあ、かぐやよ、この家を出て俺と二人きりで暮らさないか?」
「急にどうしたと言うのです?」
 かぐやは広忠を見上げた。
 広忠はかぐやの肩を強く抱きしめて続ける。
「こう声をこらえておるのも疲れる、それにかぐやと一時も離れたくないんじゃ、よいだろう?」
 かぐやは顔を嚇らめながら言う。
「お気持ちは嬉しうございます。なれど、かぐやは父上母上を悲しませるわけには参りません。
 娘はいつまでも親の元で暮らすのがこの世の習わし、
 まして血の繋がりもないかぐやを我が子以上に大切に育ててくれた父上母上です。
 裏切ることはできませぬ。」
「ふむ、そうか」
 広忠は相槌を打ちながらも、かぐやと二人で暮らす家を探そうと決めた。
 広忠はいまだ強盗から足を洗ってなかった。猪や鹿を売ってえる稼ぎなどたかが知れている。ちょっと酒をたらふく飲み、小遣いを手にしようとすれば、強盗の方がはるかに手っ取り早い。確かに空海の予言は気にかかったが、その後、何ヶ月すぎてもかぐやとの仲が裂かれる兆しはどこにもない。となると、気が大きくなって昔の悪癖が頭をもたげてきたのだ。そして少しずつ蓄えもできてきたのである。
「広忠殿、悪事はおやめくだされ。」
「な、なんじゃ、急に、」
「時々、小遣い稼ぎに悪さをしておるでしょう?」
 広忠は慌てて心に呟いた。まったくかぐやの勘の鋭いこと、神通力のようだわい。
「いや、もう殆どないも一緒じゃ。
 それより、かぐや、赤子はまだできんか?」
 すると、かぐやは寂しそうな顔になり、
「まだでございます。
 こればかりは、私や広忠様の気持ちだけではどうにもなりませぬ。」
「まあ、焦らずともよいわ。
 わしは赤子を合図にきっぱり悪事をやめるとの誓い忘れておらぬぞ。」
 広忠が言うと、かぐやはうなづいた。


 それからひと月ほどしたある日、かぐやと広忠の平穏な日々にまたもや暗雲が垂れ込めた。
 牛車三台に従者を十数人引き連れて葛原皇子が、かぐやの家を訪れたのだ。
「父殿、例の品を手に入れたゆえまかりこした。」
 皇子が言うと、かぐやの父がかしこまる。
「これはこれは、御足路、恐悦にございます。」
「うむ、まずはささやかな貢ぎ物を受け取ってくれ。」
 引き出されたのは、黄金の仏像が一体、目にも鮮やかな反物が二十本あまり。砂金が五袋、金銀紅白の糸数十束、酒が三樽、ニ尺もありそうな鯛が一尾、米が五俵、そして見事な焼き物の壷や、向こうの透けて見える不思議な水差しなどがずらりと並べられ、父は貢ぎ物のあまりの多さに目を白黒させた。
 最後に葛原皇子は綾織錦繍(あやおりきんしゅう)の布を掛けた長櫃(ながびつ)を、父の前に置かせ、紐を解かせた。
 すると中にひと抱えほどの大きさの鉢に、白金に輝く枝が三本差してあった。
 父はその目眩ゆい輝きに感嘆した。
「なんともまあ、この世の物とも思えぬ美しさでございますなあ!」
「これが蓬莱の玉の枝よ」
「噂には皇子様自ら船に乗られて蓬莱を目指されたと聞いておりますが。」
「うむ、おかげでずいぷんと難儀な目に遭うたぞ。
 早く手ずから姫に見せてやりたいが。」
「はっ、ただ今、呼びます。」
 母に従い、そろりそろりと扇で顔を隠したかぐやが入ってくると、葛原皇子は微笑みかけた。
 皇子は鉢をかぐやの前にずらすと目信たっぷりに言う
「姫、御覧なされ、
 これぞ、そなたの言われた蓬莱の玉の枝。」
 かぐやは一瞥するなり疑いをかける。
「まことの品と言い切れますか?」
「もろろんのことじゃ。」
 皇子は山羊鬚をつまんでうなづいた。
 皇子は右大臣が偽物の火鼠の皮衣を見抜かれたことは既に知っていた。しかし、皇子の難題は白金の枝である、本当に白金で作れば偽物とされるはずがなかった。もちろん唐土の細工師を捕らえて白状でもさせれば別だが、そのようなことはまず無理だ。
 皇子は自信たっぷりに言う。
「さて、今度は姫が私に約束を果たす番ですぞ。」
 かぐやは扇で顔を隠したまま言う。
「まことに、蓬莱の玉の枝とお聞きして安堵いたしました。
 このように霊験あらたかな不死の薬を私ごときが持ちては不遜となりましょう。
 この蓬莱の玉の枝は天子様に献上いたすことといたします。
 よろしいですね?」
 そう言われると皇子は急に困りはてた。
 天子、つまり今の嵯峨帝に、自分が手に入れた不死の薬を献上するということは、嵯峨帝に不死を献上し、自分は永久に帝になるつもりはないと公言したと取られても文句が言えないのだ。それは困る。
 さらに、蓬莱の玉の枝が不死の薬でないことはいずれ知れてしまう。その時、先立って兄帝と争い、これを破ったという気の強い嵯峨帝が、自分にどんな罰を与えるか想像するだに恐ろしい。
 思わず皇子は言う。
「姫よ、何も帝に献上せずともよいではないか。」
「なぜ、そのように言われますか?」
「……。」
「献上できぬのは、この蓬莱の玉の枝が偽物だという証しでございますな。」
「ううむ。」
 葛原皇子はかぐやの機転の前に、すっかり言葉を失った。

 しかし、そこへ思いがけない助け船が現れた。
 父が強い調子でかぐやを叱りつけたのである。
「姫。いい加減になされ。
 そのように尊い方をやりこめて、貴方には畏まるという心がないのですか?」
「しかし、約束は約束でごさいます。」
「約束と言われるが、最初から無理な難題を押しつけいるではないですか。
 尊い方々の心を弄ぷようなことをして恥ずかしくないのですか?」

 思いがけない事の成り行きに、かぐやは蒼ざめて言う。
「しかし、まことでないものをまことと偽る方に嫁ぐなど……。」
「姫はもう婿を迎えるべきお年なのですよ。
 たとえ偽物だとわかっていても、相手が自分のためになされた苦労の並み並みならぬことを思い知れば、次第に惹かれる気持ちの起きてくるのが、人の心というものです。
 それを、いつまでも聞き分けのない童女のごとき有り様で、父も胸つぶれる心地です。
 いい加減になされよ。」
「そ、それは。」
 かぐやがなんとか言い訳を始めようとする。
 と、父は床を平手で鋭く叩き、かぐやは雷に遭ったように息を詰めた。
「姫も今は聞き分けのないことは控えて、皇子との結婚を承知しなければなりません。」
 かぐやは必死に断る方策を思案したが名案は見当らない。
 葛原皇子は余裕の笑みを取り戻して言う。
「父上、そのように責められては姫が可哀想ですぞ。
 姫とて、あまたの男から婿一人を選ぶに困りはてた末に、かくなる難題を出されたのですから、姫の心根が悪いのではありますまい。
 強いて言えば姫が美しすぎることが罪なのですから、きついことを言われるな。
 私は、姫に納得いただけるまで、時間をかけて説得しましょう。」
 父は「それには及びませぬ」と平伏する。
 そして上げた顔をかぐやに向けると言い放った。
「姫よ、もうお断りはできませんぞ。
 身分も志もこれほど立派な皇子を夫にお迎えできるとは、おめでたいかぎりです。
 今宵こそ、そなたは皇子と結ばれるのです。」
 かぐやは、もはや皇子を断れない成り行きに追い詰められてしまった。



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七 火鼠の皮衣

 蔀戸(しとみど)の庇の先では雨が縁を打つ音がしている。
 母が、ふと縫い物の手を休めて溜め息を吐いた。
 かぐやは傾げた頬から仰ぐようにして、めっきり皺の目立ってきた母の顔を見返す。
「母上、どうなされました?」
「かぐやが貴なる方々に難題を出して、はや一年あまり。」
 またお小言の始まりかと、かぐやは覚悟を決める。
「あっはい、そうなりますね。」
「貴なる方々も最初は『その品、きっと取って来よう』と意気込んでおられましたが、
あれからさっぱり見えません。」
 そこまで言うと、母は急にかぐやにいざり寄った。
「かぐや、そろそろ意地を張るのは止めたらどうです?」
 かぐやは心の中であやまりつつも、きっぱりと言う。
「意地ではありません。」
 母は呆れ顔で聞く。
「かぐやが都で、なんと噂されているか知ってますか?」
「知っています。
 貴びとを困らせて喜んでいる底意地のわるい田舎娘でございましょう、
 誰ぞの文に書いてありました。」
「まあ、よくそんなことを自分の口から。
 おかげでめっきり縁談の数も減ってきて、心配なことです。
 とにかく、貴びとたちに謝りの文でも差し上げて御機嫌を繋ぎとめるようになさいましよ。」
「母上、かぐやは殿方を迎えたくはありませぬ。」
「またそのような強情張りを。
 親の身にもなってくだされ。
 父上も最近では滅法老け込んできたし、ここらで親を喜ばせてくだされ。」

 その時、急に門が叩かれ、外が騒がしくなった。
 まもなく門番が母屋に駆け込んで言う。
「右大臣の藤原園人さまがおいでです」
 向こうの室の父が大きな声を上げる。
「おお、もしや難題の品を手に入れられたか?」 
「そのようでございます」
「至急、お通ししてくれ」
 父は母とかぐやのいる前に来て言う。
「右大臣藤原園人さまが例の品を手に入れたようじゃ、早うお会いする支度をせよ」
 母はもうおろおろとして右に左に歩く。
「まあ、かぐや、どうしましょう。
 私の化粧はどうしましょう、いえ、あなたはご自分の化粧をなさいな、そんな眠そうな顔では失礼ですよ」
「母上、何かの間違いですから、慌てないで結構です」
 かぐやは落ち着き払って化粧を確かめた。

 右大臣藤原園人が座ると、扇で顔を隠したかぐや姫と父母は平伏した。
「姫、父殿、母殿、待たせ申したな」
 父が平伏したまま言う。
「これはこれは、右大臣様、よくぞお越しくださいました」
「うむ、どうやら他の四人はまだ来られぬようじゃな」
「はい、ありがたい縁を戴いた心地です」
 父の言葉に右大臣はたるんだ顎を撫でた。

 右大臣の付き人が山吹色と珊瑚色の見事な珊瑚の置物を差し出した。
「まずは父殿へ、これは南の海の珊瑚じゃ」
「これは結構な物をありがとうございます」
 右大臣の付き人が台に載せた銀の簪と櫛を差し出した。
「母殿へは銀の簪(かんざし)と櫛(くし)じゃ」
「まあ、私にまでなんと礼を申してよいやら」
 続いて付き人は、蜜柑色、山吹色、浅緑、水色、菫色、白緑、柿色などの反物を八本乗せて差し出す。
「さて、姫には衣じゃ」
「ありがとうございます」
「ふむ、姫ならどんな衣を着ても似合うじゃろうて。
 わしが一番とは嬉しい限りじゃ。
 もっとも他の四人の困りようは風の便りに入って来ておったが」
「ほお、さようでございますか」
「うむ、大伴皇子殿は、印度というはるか遠い国まで使者を十名も送り、仏の御石の鉢を探しておられるようだ。
 葛原皇子さまは船を二艘出して、自ら乗り込み蓬莱を目指されたようだがの。
 大納言は龍がどこにおるのか調べているがまだ居所すらわからぬようじゃ。
 中納言は八方にさまざま手を尽くして、黄金の子安貝を産む燕の噂を集めておるようじゃがまだよい知らせはなさそうだ。
 わしは運がよかったかもしれぬ、ほほほっ」
 右大臣は貴びとしかしない甲高く細い笑いを上げた。
 
「それでは火鼠の皮衣を手に入れたのですか?」
 かぐやが聞くと、右大臣は扇子をヒタと音を立てて閉じた。
「もちろんじゃ、姫、」
 付き人の手で大きな台が箱ばれてきた。
「それ、とくと見るがよい」
 右大臣が言うと、上にかけられていた白い布がめくり取られ、その下に茶色の蓑(みの)のような布が姿を現した。

「どこで手に入れられたのでしょうか?」
 かぐやが問うと、父は鋭くたしなめた。
「これ、姫、失礼じゃぞ」
 それを右大臣は笑って止める。
「よいのじゃ、父殿。
 これは唐土の都にて手をつくして探させたのじゃ。
 大きな声では言えぬが、賄賂を贈り、禁城の倉庫の目録まで調べさせたのじゃ。
 その結果、禁城の倉庫にはなかったが、隋の時代の王宮商人の末裔がどうやら火鼠の皮衣を持っているらしいと探り出したのじゃ。そこで売りしぶる商人から大金をはたいて買い求めたのが、この火鼠の皮衣じゃ。ほほほっ」
「これが、まことの火鼠の皮衣ならば、火をつけてもよいはず。
 確かめてよろしいですか?」
「うむ、試されるがよい」
 右大臣は余裕綽々である。

 かぐやは門番の下男に命じる。
「その火鼠の皮衣を土間に置き、火をつけてください」
 下男は言われたように、火鼠の皮衣を土間に置き、細い松明の火を押し付けた。
 すると、どうしたことか、その皮衣はどんなに松明の火を押し付けても、少しも火を寄せ付けない。
「おお、この衣は燃えませんぞ!」
 下男はびっくりして言った。
「ほお、これが火鼠の皮衣か」
 かぐやの父も感心する。
「どうじゃ、姫、得心されたであろうて、ほほほっ」
 右大臣は高い声で笑った。
 しかし、それを、かぐやはがっかりした声で返した。
「右大臣さまともあろう方がまがい物を掴まされるとは。
 私もようやく決心しかけましたのに、なんとも残念なことでございます。」
「な、何を言うか?これぞ火鼠の皮衣に間違いない」
 右大臣がいきりたつと、かぐやが言い放つ。
「はて、火がつかないならば、誰が火鼠などと呼びましょうか?」
「う、う、そう言われると……、しかし、これは大金を積んでの」
「はい、まことに残念ですが、右大臣様に大金を積ませて騙したのでしょう。
 火鼠とは、常に炎に包まれていた鼠にございます。当然、一度火をつければ、いつまでも尽きることなく、燃え続けるのが、まことの火鼠の皮衣。
 もう右大臣様の胸に飛び込むつもりでいましたのに、なんとも残念でなりませぬ。
 どうか一刻も早く、まことの火鼠の皮衣を手に入れてきてくださいまし」
 かぐやはそう言うと、振り向きもせず自分の室に引き上げてしまった。
 右大臣は大きな溜め息を吐くと、帰って行った。


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 三日後、歌の返事をもらうため、再び、かぐやの家に五人の貴びとが集まった。
 かぐやは扇で顔を隠したまま、父の隣に座り、二人は深々とお辞儀した。
 父が言う。
「わざわざおいでいただいて恐悦至極にございます。
 さて、五人のやんごとない方々に想いのこもった歌をいただいて、娘もたいそう感激しておりましたが、この中から夫一人を選ぶのははなはだ難しいと申します。
 そこで、娘の方から皆様に手に入れていただきたき物を申し上げ、それを手に入れた方を夫としてお迎えしたいなどと、心得違いを申します。
 父の私から見ても生意気この上ない態度で、これはもう私が娘の躾けを誤ったために相違なく、申し開きもございません。
 こんな田舎者の娘の世迷言に気を悪くなさった方がいましたら、どうぞ、すぐにもお帰りいただき、娘のことはお忘れいただいた方がよろしいかと思われます。
 さような方はおられましょうや?」
 かぐやの父の問いかけに、五人はしんと静まり返った。
 大伴皇子が、静寂を破り、ほほっと笑って言う。
「心配めさるな、我ら、おなごに物をねだられるのは馴れておるゆえ、いささかも心苦しうないぞ、のう皆もそうであろう?」
 大伴皇子が横を向いて同意を求めると、四人は同時にうなづいた。
「まったくでございます、心配めさるな」
 それを受けて大伴皇子が言う。
「聞き及んだであろう、苦しうない、姫、ねだりたきものを申してみよ。」
 するとかぐやは父に目配せして、自ら言う。
「お心遣いありがとうございます。
 それでは私より申し上げます。

 大伴皇子さまには、仏の御石の鉢をお願いいたします。
 これはお釈迦様が四天王の奉じた鉢を重ねてつくった鉢だそうです。

 葛原皇子さまには、蓬莱(ほうらい)の玉の枝をお願いいたします。
 これは蓬莱山に生える白金に輝く枝で、不死の薬の材料だそうです。

 右大臣藤原園人さまには、火鼠の皮衣を、お願いいたします。
 これは唐土の伝説の火鼠からつくった衣だそうです。

 大納言春日御行さまには、龍の頸の玉を、お願いいたします。
 これは龍の頸の中にあり、口を開くと牙のところへ現れる五色の玉だそうです。

 中納言菅原麻呂さまには、燕の子安貝を、お願いいたします。
 燕が誰も見ていない時にだけ産むという黄金の子安貝だそうです。

 わがままな願い、叶えていただけたら幸いに思います。」
 かぐやは深くお辞儀して、麗しい黒髪をたっぷりと見せた。
 五人の貴びとはかぐやの黒髪に嘆息しつつも、思いがけない難問に考え込む。
 どうみても手に入れるのが難しそうな物ばかり、いや、そもそもこの世にあるかさえ疑わしい物ばかりなのである。
 しばらく沈黙の間が流れた。
 しかし、右大臣の藤原園人が他の四人を出し抜いて言った。
「あいわかった。きっと姫を喜ばせてみせよう」
 すると、「待て」と声がかかる。負けてはならじと大伴皇子、葛原皇子、春日御行、菅原麻呂も同じように繰り返した。
「では、姫、一番早くに品物を持ちよった者が夫でよいな?」
 大伴皇子が念を押すと、かぐやは頷いた。
「はい、その時は必ず夫にお迎えいたしましょう。」
 「おお」と五人からどよめきのような感嘆が洩れた。
 
 部屋に戻ったかぐやに、広忠が小声で尋ねた。
「どうだ、うまくいったか?」
「はい、五人の貴びとにそれぞれ難題の品をお願いいたしました。
 皆、呆れた様子でしたが、一人が『きっと姫を喜ばせてみせよう』と言い出すと、他の四人も必ずと約束して帰られました。
 しかし、いずれも元よりこの世にないもの、これであきらめてくださるでしょう、」
 かぐやが言うと、広忠は「うんうん」と領き、続いて、にやにやして懐に手を入れ探ると櫛を取り出した。
 と、途端にかぐや迦具夜は厳しい目つきになって叱った。
「広忠様、また悪事を働きましたね?」
 かぐやは、広忠が悪事をはたらくと、たいてい鋭い勘で見抜くのであった。
 広忠はいつものように苦しい言い逃れを始める。
「い、いやいや、この櫛はだな、猪を十頭ばかり獲って、売った代金で買うたのじゃ。
 坊様の書いた珍品とはいかぬが、どうだ?
 なかなか不思議な木地の櫛であろう。」
 広忠が笑いながら言うと、かぐやは立って厨子から簪(かんざし)を取り出して見せた。
「これはどうです?」
「棒みたいな詰まらぬ簪だな。
 もう少し細工のしようはないかのう。」
 広忠は知ったかぶりにけちをつけた。
「それは先ほどの殿上人の一人がこの前、土産に置いて行ったものですが、同じ材で出来ているでしょう?」
「ああ、そうだな。」
「それは象という天竺の大きな動物の牙で作ったもので、銀五貫もするそうです。」
「げっ、そんなにするのかよ。」
「ですから、その櫛の方は銀十貫以上します。猪など百頭売っても買えませぬ。」
 かぐやが断定してみせると、広忠は慌てて姫の手を握りしめて謝った。
「すまん、かぐや、わしが悪かった。」
「どうしてそんなに悪事ばかりなさいます。」
「ただ、かぐやを喜ぱせたかっただけなんじゃ。
 家司に騒がれたが、かぐやの言葉を思い出し一人も殺めていない。
 どうか今回は許してくれ、のう?」
「情けない、他人様から盗んだ物など貰って、かぐやが嬉しいとお思いですか?
 そろそろ悪事からきっぱり手を引いてくだされ。」
 かぐやが涙を浮かべて頼むのを見ると、広忠は空海の予言を思い出した。
 予言の通り、かぐやに惚れながら生き別れするとしたら、その原因は広忠の悪事の為に違いない。そう思うと広忠は家司を張り倒して物を奪った時の楽しみが急に失せてしまうのを感じた。
 ここはかぐやの言う通り、そろそろ思い切ろうかと考えた。
 そして広忠はかぐやを喜ばせようと言葉を選んで誓った。
「そうだな、俺たちに可愛い赤子が出来たら、それを合図にきっぱりと悪事から足を洗ってみせる、本当だ、八百万の神にかけて誓うぞ。」
 広忠は笑みを浮かべてかぐやの顔を見詰めた。
 姫はびっくりして広忠を見つめた。
「かぐや、どうじゃ?」
「は、恥ずかしいこと、けど嬉しゅうございます、」
 かぐやは遅ればせに笑みを返した。
「そうか、でも嘘ではない、誓ったぞ。」
 広忠はそう言うと、かぐやの唇を吸って、二人はひとしきり睦み合った。


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六 難題


 寝床の傍らに、何者かがぬっと立つ気配を感じて空海は瞼を開いた。
「坊様よ、起きてくれ。」
 低い声に空海は暗がりの中、薄い掛けものを取り、灯明をともした。
 すると、切れ長の目に隠せない殺気を帯びた山賊風情が一人、それでも抜刀はせずに立っている。
「取り次ぎも介さず、勝手に寝所に忍び込むとは非礼なことだの。」
 空海が恐れず言うと、山賊風情の男、広忠はかすかに頭を下げた。
「許せ、その手が苦手でな。」
 空海は黙って広忠を見つめた。
「確かに、そのように見受ける。
 して何用かな?」
「この世にありそうで絶対にない珍品を五つばかり教えてほしいのだ。」
 すると空海は口の端に笑みを浮かべた。
「見かけによらぬ、おとなしい用だの。
 如何なる仔細があって、そんなものを知りたがる?」
 空海が尋ねると、広忠は照れながらも理由を説明して聞かせた。
「俺には、表沙汰にできぬ、それは可愛い妻があるんじゃ。
 その妻がのう、都の殿上人どもに求婚されて弱り果てておる。
 そこで断る口実に難題を出したいと申すのじゃ。
 坊様は唐土にも渡った当代一の知恵者と聞く。
 どうか五つほど珍品を教えてほしい。」
 広忠は砂金の入った袋を置いて頼んだ。
 空海は墨をすり、紙に五品をすらすらと書きつけた。
 そして広忠に向き直ると紙を差し出して言った。
「ここに五つ、品を書き付けた。
 はるか吐蕃という土地の伝説の中にも、主人公の娘が難題の品を出しておるが、それを真似て書いてみた。特徴も詳しく記しておいたから役に立とう。」
「ありがたい。」
 広忠が礼を述べ、置いたままにされてる砂金を再び押し出すが、空海は戻した。
「代金は要らぬ、お前と妻の餞別にくれてやる。」
「俺と妻の、餞別とはどういう意味じゃ?」
 広忠が聞き返すと、空海は礫のように言葉を投げつけた。
「お主、その妻とは生き別れることになろう。」
「な、なんだとう、」
 広忠は逆上して声を上げた。
「なんて出鱈目を言いやがる、承知しねえぞ、」
 そして太刀を、鞘から抜いて空海の肩先に突き出して睨みつける。
 しかし、空海の穏やかな目は広忠の怒気を吸い取るようだった。
「密教の法力で、お主の未来が見通せたのだから本当だ。
 妻の願いは、お主が、悪から清くまっさらに足を洗うことじゃろう、違うか?」
 空海はかぐやのことを鋭く看破され、広忠はうろたえた。
「そ、それがどうした、お、俺が悪から足を洗えないと言うのか?」 
 広忠は空海の襟をぐいと掴んで凄んだが、法力の宿った空海の目はひるみもしない。
「すべては宿命ゆえあきらめよ、せいぜい悪事を謹んで淡々と生きよ。」
 広忠は、なぜか胸の奥深いところを刺されたように感じ、しばし木彫の像のように動けなかった。


 広忠は走りづめでかぐやのもとへ戻り、空海の書いてくれた紙を見せた。
「どうじゃ、かぐや。」
「ええ、さすがは空海様、いい知恵を授けていただきました。
 広忠様もご苦労様でしたね。」
 かぐやに礼を言われると広忠は唇をゆるめた。
「空海様は、他に何か言われてましたか?」
 すると広忠はあの言葉を思い出して、慌てて首を左右に振る。
「い、いや、なんも言うとらんぞ。」
 かぐやは紙に見入って五つの品を誰に出そうかと考えて述べる
「大伴皇子さまには、仏の御石の鉢をお願いしましょう。
 これはお釈迦様が四天王の奉じた鉢を重ねてつくった鉢だそうです。
 葛原皇子さまには、蓬莱(ほうらい)の玉の枝をお願いしましょう。
 これは蓬莱山に生える輝く枝で、不死の薬の材料だそうです。
 右大臣藤原園人さまには、火鼠の皮衣を、お願いしましょう。
 これは唐土の伝説の火鼠からつくった衣です。
 大納言春日御行さまには、龍の頸の玉を、お願いしましょう。
 これは龍の頸の中にあり、口を開くと牙のところへ現れる五色の玉です。
 中納言菅原麻呂さまには、燕の子安貝を、お願いしましょう。
 燕が誰も見ていない時にだけ産むという子安貝です。
 どうです、広忠様?」
 かぐやが微笑むと広忠は大きくうなづいた。
「おお、どうせ、いずれもこの世にないものじゃろう。誰も手に入れることはない。
 かぐやはわしだけの妻じゃ、そうだな?」
「ええ。」
「いつまでもわしの妻だな?」
「ええ。」
「それを聞いて安心したわ。」
 広忠が強く抱きしめたので、かぐやは笑いながら言う。
「そんなに力を入れては息ができませぬ。」
「ああ、すまんすまん、お前があまりに可愛いでの。」
 広忠は安心して言った。


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【故事メモ 蓬莱(ほうらい) 】
 中国の東南海中にある幻の蓬莱山のこと。不死の薬があるという。

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 広忠は思わず小声で言った。
「なんて気味悪い奴らだ。男のくせに、女みたいな鮮やかな色の衣を着てやがる。」
「し、静かに、声を立てないで下さい。」
 かぐやに注意されて、広忠は黙って話に聞き耳を立てた。
 貴びとは、大伴皇子(おおとものみこ)、葛原皇子(かずらわらのみこ)、右大臣藤原園人(ふじわらそのひと)、大納言春日御行(かすがのみゆき)、中納言菅原麻呂(すがわらのまろ)の五人である。
「のう、ここに集うた我ら五人より高き位の者が訪れることはなかろう。」
 一番左に座っている大伴皇子が言うとかぐやの父はかしこまった。
「まったく畏れ多いことでございます。」
「ここで我らが争うとまことの戦になってしまうが、それは賢いこととは言えぬでの。
 そこでじゃ、姫に我ら五人から一人を選ばせるがよい。
 それが誰になろうとも、我らはその一人に姫を譲るのだ。」
「ははあ、畏れ多いことでございます。」
「皆もそれでよかろう?」
 大伴皇子が横を向いて言うと、葛原皇子がかしこまる。
「まことに大伴皇子様のお考えは賢明です。」
 すると、その隣の右大臣藤原園人がかしこまる。
「まことにお二方の皇子のお考えは争いを避ける手本と心得ました。」
 大納言春日御行、中納言菅原麻呂も平伏して同意する。
「では、それぞれ歌をしたため、姫に贈るといたそう。」
 大伴皇子が言うと、五人の貴びとは短冊と携帯の墨を取り出し、しばらく考えながら歌をしたため、かぐやの父に差し出した。
「では、姫に見せて参ります。」
 かぐやの父が、こちらに歩いてくると、広忠は慌てて几帳(きちょう)の陰に隠れた。

「姫よ、入ってもよいか?」
「はい。」
 かぐやは扇で顔を隠して答えた。
 戸口の向こうではなんとか顔を拝めないかと貴びとが首を伸ばして、かぐやの方を覗いている。
「あちらの偉い方々から歌を賜った。早速返事をしなさい。但し、一人はそなたの夫として迎えるように返事を差し上げなさい。」
「父上、急に言われましても、私のような田舎の娘に、すぐに立派な歌を返すのは無理がございます。ここは三日ほど日にちをいただいてくださいませ。」
「しかし、ここまで来ていただいたのに、」
「私の一大事です、いずれも立派な方ばかりゆえ、軽はずみに答えは出しかねます。しっかり時間をかけて思案させてくださいませ。」
 かぐやは扇で顔を隠したままお辞儀した。
 父は小さく溜め息を吐くと、戸を閉めて、貴びとの前に戻った。
「大変、申し訳ありませぬ。
 姫が申すには、いずれも立派な方ばかりなので、軽はずみに答えは出しかねます、しっかり考えてみたいと、三日のご猶予を賜りたいと申します。
 都に上がったこともない田舎娘ゆえ、お聞き届けください。」
「それは無理もないことじゃ、皆のもの、よいな。」
 大伴皇子が言うと、葛原皇子が「然るべく」と答えた。
 続いて右大臣藤原園人、大納言春日御行、中納言菅原麻呂がこだまのように「然るべく」と答えた。
「では帰るといたそう」
 大伴皇子が言うと、葛原皇子が「帰るといたしましょう」と答えた。
 続いて右大臣藤原園人、大納言春日御行、中納言菅原麻呂が「帰るといたしましょう」と答えた。
 大伴皇子が左足を立て、右足を立て、くるりとまわり下がると、葛原皇子が左足を立て、右足を立て、くるりとまわり下がった。
 続いて右大臣藤原園人、大納言春日御行、中納言菅原麻呂が左足を立て、右足を立て、くるりとまわり出て行った。
 かぐやの父は平伏して見送った。


 広忠はもったいつけて退出してゆく貴びとを戸の隙間から見て呟いた。
「あほくさい奴らだな、まとめて俺が叩き斬ってやろうが、」
「なんということを言われますっ、」
 かぐやが怒ると広忠は笑った。
「冗談、冗談だよ。」
「かぐやが困っているのに冗談など言われますか、」
 かぐやはそう言って袖を顔に運んで泣くふりをしてみせた。広忠は姫の肩を抱いてあやまる。
「悪かった、かぐや、泣くな。」
 かぐやは五本の短冊を眺めて溜め息を吐く。
「五人の方、どなたも選ぶわけにはいきません。
 どうやって断ったらいいものか。」
「そんなこと、たやすいもんじゃ。」
 広忠は任せておけとばかりに己れの胸を叩いた。
「よい思案がありますか?」
「うむ、俺と手合わせして勝てば姫と逢わせるというのはどうだ、誰も俺に勝てる筈がないから安心だ。」
「広忠様、そんなこをしたら大騒ぎになります。」
「駄目か?]
「ええ。
 でも、そのような無理難題を出すというのはいいかもしれませんね。」
「無理難題というと、どういうことじゃ?」
 広忠は、かぐやに聞き返した。
「たとえば優曇華(うどんげ)の花のように、噂には聞いてもこの世にありそうもない物を持って来たら、よいと言うのです。」
 広忠は感心して笑みを浮かべた。
「なるほど、それなら、あの腑抜けどもに姫を取られる心配もないな。
 姫は形がいいだけじゃなく、おつむもよいのお。」
「では無理難題を出すとしましょうか。」
 かぐやはにっこりと領いて言った。
「さて、そうと決まると広忠様にお願いがあります。」
「なんじゃ?」
「高雄山寺に唐土帰りの偉いお坊様がいると聞きます。
 広忠様は、その方のもとへ行って、この世にありそうで絶対ありえない珍品を五つ聞いて来てください。
 その五つの珍品を五人の貴びとに出題することにいたしましょう。」
「なるほど、わかった。
 高雄山寺の坊様に聞けばよいのだな。」」
「偉い方なのですからくれぐれも乱暴な真似をしてはなりませんよ。」
「わかった、わかった。」
 広忠は相槌を打ちながらかぐやを抱き寄せた。



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【故事メモ 大伴皇子(おおとものみこ)、右大臣 藤原園人(ふじわらそのひと) 】
 大伴皇子は後の淳和天皇。藤原園人は嵯峨天皇の信任が厚かった。死に際して空海も書を贈った。
【 優曇華(うどんげ)の花 】
 インドの想像上の花で、三千年に一度だけ、花を開くという。

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 とはいえ、父母は折りにふれてかぐやに熱心に縁談を勧めるようになった。
 しかし、密かに広忠と契っているかぐやはその都度、にべもなく父母の願いを断る。
 そんなやりとりが幾度か繰り返されるうち、いよいよかぐやの美貌の噂が高まり、色好みの都の殿上人までが次々と求婚に訪れるようになっていた。

 雪のちらつく昼下がり、広忠はかぐやの家に向かう途中、道で牛車にすれ違った。
 牛車の中からは振られた殿上人なのだろうか、憤慨の声がする。
「まろが文も受け取らぬとはたいした礼儀よ。
 どれほど美しいかは知らぬが、たかが思い上がった田舎娘ではないか」
 そう言うと、なぜか節をつけて歌い出す。
「くたびれ損とは丹波のかぐやよ」
 殿上人の牛車をしり目に、広忠はかぐやの家にたどり着いた。
 すると広忠は家の垣から数十歩離れた茂みに向かう。
 そして、巨体の広忠でもひと抱えある大きな岩を持ち上げてずらした。
 姫を案じる老父母や、熱心に垣に貼りついている男達に見つからずに通うため、広忠は怪力にものを言わせ、その岩の下からかぐやの部屋の床下まで地下道を掘って、そこからかぐやの部屋に出入りしていたのだ。

 広忠がいつものように床板を上げ忍び込むと、かぐやは蔀戸(しとみど)を固く閉ざした部屋で紙燭の明かりを灯して眩ゆい鏡を眺めていた。
「かぐや、また鏡を見ているのか。」
「まあ、広忠様、いつの間に?」
「たった今さ。
 床板を外す音にも気付かねえとは、よっぽど物思いに耽っていたんだな。」
 広忠が言うと、かぐやはうなづいた。
「ええ、ちょっと」
「それにしても見事な鏡だ、
 紙燭の僅かな光を朝日の如く変えるのだからな。
 ちょいと見せてくれ。」
 広忠はかぐやから鏡を借りると己れの髭面を映してみる。
 かぐやの美しさの対極にある、己のいかつい凶悪な顔を眺めていると、今まで何度もかぐやにぶつけてみた疑問をまた持ち出した。
「かぐやよ、どうしてお前は俺のようなひどい悪党に身を許す気になったのだ?」
 広忠が問いかけるとかぐやは頬を染め微笑んで答える。
「当の男女に恋の理由などわからぬものです。
 宿縁と言うより他はないでしょう。
 それに広忠様は御自分で思われるよりずっと良い方です、かぐやが言うのですから嘘ではありません。」
 そう言われると広忠は決まって嬉しいような、それでいて恐いような不思議な気持ちになるのだった。
 それ以上問うこともないから、広忠は鏡をかぐやに返した。
 かぐやは黙って眩しい鏡を巾着袋にしまう、そのいつになく沈んだ様子を見て広忠は尋ねる。
「で、かぐやの気にしてるのは、どんな心配ごとだ?」
「はい、実は都の貴ぴとが何人か求婚してきて、父上も母上もたいそう乗り気なのです。」
「そういやこの寒さの中、牛車が数台止まっていたな。」
「今、その五人の貴ぴとが揃ってしまい、向こうで父母と話をしているのです。」
 姫が言うと、広忠はどんな奴らか見たくなった。
「ちょっと覗いてよいか?」
「覗くだけならよいですが、決して飛び出たり、怒ったりしてはなりませんよ。
 もしなさったら、広忠様とのこと考え直しますよ。」
「心配するな、こう見えてもわしはかぐやの言いつけは守るでの。」
 広忠が戸板を指一本分だけ開くと、老父母の背中と、その向こうにあでやかな着物の貴公子が五人座っているのが見えた。


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五 求婚者たち


 かぐやと契る前の広忠は、溜め息とともに喉の奥から洩れ出て来る怪物に押しつぶされそうであった。
 それが、今や、運命の神の手違いのせいで、かぐやと契るという奇蹟を掴んだ広忠は新たな病に盗り憑かれていた。
 そいつは広忠が目を斜め上に向けるや、すうっと忍び込む病で、そうなると広忠の目は正面に戻っても、眼前の風景ではなく、月明かりの下で輝くかぐやの微笑みを見詰めたままになるのだ。
 そいつはいつでもところかまわず襲ってくる。
 今も、広忠は油を商う店に強盗に入って主を脅したところだったが、主が床下に隠している壺から金を取り出す間に、そいつが襲ってきた。
 そうなると不気味な独り言が洩れるのである。
「へへへ、かぐや、おまえは可愛いのう」
 広忠は口を指が三本入るぐらいの大きさに開いて、にやけて緩んだ唇の端からは、だらしなくよだれまで垂れ出す始末である。
「ははは、かぐやに、だんな様などと呼ばれるとこそばゆいのう。」
 脅された主は、あらぬ方に向いて、にやにやと独り言を洩らす広忠を不気味に思いながらも、しかし、そこは気まぐれに襲われたらひとたまりもない身の上、その手に金の袋をしっかりと握らせると「どうかこれでお引き取りを」と頼み込むのであった。
 すると、広忠はにやけた顔のまま、おとなしく店から立ち去るのである。


 一方、かぐやは、広忠と契ったといっても親には秘密である以上、当然ながら姫に求婚する者が減ることはなかった。
 老父母はすっかり子供をあきらめた頃に、突然、神からの授かりもののように拾ったかぐやが可愛くて可愛くてならず、かぐやの煮えきらない態度と相まって、なかなか姫に婿を迎えようとしなかった。
 しかし、体が疲れやすくなり無理がきかなくなってくると、父母はようやく老い先が長くないことを悟り、すると急に『子の次は孫を』の気持ちが勝ってきた。
「なあ、かぐやよ。」
 老父母は夕餉の席で改まって姫に向かった。
「なんですか、父上、母上。」
「おまえは、まだ髪をあげたての娘のように若々しく美しいことです。」
「我らも若返る思いで嬉しい限りなんじゃ。」
 かぐやは黙って袖で顔を隠して羞じらう。
 父親は顔を崩して照れながら切り出した。
「しかし、どうじゃ、かぐやも、そろそろ夫を迎えては?」
 大きな袖のこちらで、かぐやは顔を強張らせた。
 母親も笑顔で父親の後押しをする。
「かぐや、そうなさいな。
 いくらなんでももう結婚なさる年齢ですよ。」
「先月は国の司まで訪ねて来たのだから、相手に不足はあるまい。
 姫が一番いいと思う方を迎えなさい。」
 そう勧められても、かぐやは押し黙った。
「どうしたの、急に勧めたから驚いたのね。」
 母は姫の気持ちを慮って聞くがかぐやは首を振る。
「そうではありません。
 かぐやはどなたもお迎えしたくありませぬ。」
 かぐやの頑くなな言葉に父母は苦笑する。
「ははっ、またそのように童女の台詞を言う。」
 母は笑みを絶やさずに姫に諭す。
「かぐや、よいですか。
 女というのは年頃になれば殿方を恋し、迎えるのが自然なことなのですよ、
 そして恋の悲しみを知り喜びを知り、玉のような子供を授かり、この世の幸せというものを知るのです。
 それに良い殿方を迎えるのは娘の親孝行ですよ。」
「お許しください、かぐやは婚ぎません。」
 親に一瞬も目を合わせず拒絶するかぐやに、母親はどこか異様な気配を感じて聞いた。
「姫は、もしや、親に内緒で誰かと契っているのではないですか?」
 かぐやはびくっとして息を詰め、顔を左右に小さく揺すった。
 そんなかぐやに父母はにこやかに言う。
「もし、そうなら、それはそれでもいいのよ、
 ただ、きちんと私達にその方を紹介なさいな。」」
「ああ、相手は誰でもよいのじゃ、
 我らは、お前の産んだ可愛い孫を抱かせてもらえれば、それだけでいいのだよ。」
「契った人がいるなら正直に仰いな。」
 そうは言われても極悪非道の強盗広忠が相手だと答えたら、仲を裂かれるのは火を見るよりも明らかだ。
 かぐやは背筋を昇る震えを押し止めると、強い口調で言い放った。
「そんな相手はおりませぬっ!
 吾を、親に隠れて男と契るような娘とお思いですか!」
 老父母は、かぐやの怒りに驚いた。それまで見たこともない、かぐやの、ぎらりとした瞳の光が、恋しい男を守る女の刃だとは、とんと気付かず、老父母はあらぬ疑いをかけたことを重ねて謝り、その晩は縁談の話題を取り下げた。



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    (ケイイチロー・ギンガ)
    好きな言葉は『信じる』。
    飛べなくても頭が悪くても
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