銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

 広忠は、ここは自分と姫が同じような身の上だということをうまく言えばよいのだとようやく頭がまわった。
「尊い人物なんぞ、けつが痒くてなりたくもねえが、親を知らない姫とわしは、ほれ、なんだ、同じ穴の熊かもしれねえな。」
「はあ?」
「いや、熊がいやなら同じ穴の狸でも、同じ穴の猫でもいいんだぞ。」
「ほほ、面白いたとえですね。」
 姫が笑うと、広忠は姫の心をとらえたように錯覚して、ここで一気に口説いててみようと決心した。
「ところで、あのだな、」
 言い出して広忠は喉で息がもつれてしまった。
「ひ、姫に、ち、ちょいと尋ねたいことが、あ、あるんだが、」
 突然、どもりながら切り出す広忠を、姫は何事かと見詰める。
「どんなことでございますか?」
「わ、わしが、ひ、姫のもとに通うてはいかんか?
 わしが、ひ、姫のお、おっ、夫ではおかしいか?」
 広忠の突然の求婚に、姫は頬を仄かに染めて聞き返した。
「もし、断ったらどうされます?」
「その時はだ……。」
 と息を詰めた途端に(その時は姫を道連れに串刺しにして死ぬまでだ)という脅し文句はどこかに引っ込んでしまい、代わって広忠がしたのはみっともない懇願だ。
「姫の考えが変わるまで通いつめるまでじゃ、
 なあ、俺の願いを聞き届けてくれ。
 そもそも顔を俺に隠さんということは、俺に気を許してるという意味ではないか、
 俺の妻となってくれえ。」
 広忠は表情の微妙な変化のひとかけらでも見逃すまいとじいっと姫の顔を凝視めた。
 ふと風が気まぐれにやんで、しばらくの間、虫の声か高鳴るように響いた。
「よいでしょう。」
 姫の声がすると、広忠は大きくまばたいて聞き返す。
「い、今、なんと言った?」
「よいと言いました、そなたの妻になりましょう。」
 広忠は信じられない心地で聞き返す。
「ほ、ほんとうに?
 いやではないのか?」
「いやと言ってほしいのですか?」
 姫が悪戯に言うと、広忠は慌てた。
「だ、だ、だめじゃ、言い直したらいかん。姫はわしの妻になるのだ。」
「ええ。」
 姫は領き、「その代わり」と続けた。
「今後は悪いことをしないと約束してください。約束できないなら妻にはなれません。」
 決然とした姫の言葉だったが、思いがけない奇蹟に広忠は狂喜しそうな勢いだ。
「姫が妻になってくれるなら是非約束したいが、体に染み付いた天職じゃ、なかなかきっぱりとは断ち切九ねえかもしれん。
 でも八百万の神に誓って、いつかはきっぱりと足を洗うから、当面はそれで許してくれねえか?」
 姫は広忠の答えに溜め息を洩らしてから頷いた。
「甲斐性のない約束ですね。
 でも、そういう答え方がまた、そなたの正直さの顕われなのかもしれませんね。」
 広忠は縁に上がり蔀戸を越えると、姫の袖を捉えて手を探った。
 探し当ててみると姫の細い手はかすかに震えている。
 しかし、次の瞬間、姫は広忠の腕の布に気付いて笑った。
「まあ、その腕の絹が真っ黒ではありませんか。そんなになるまでつけっ放しだったのですね。」
「ああ、これか、これは利き腕だから自分ではうまく換えられん。姫にまた換えてもらおうと思ってのう。」
「はい、わかりました。」
「俺は広忠じゃ。姫の名は?」
 広忠が囁くと、姫は恥じらいながら答える。
「かぐやと申します。」
「おう、かぐやか、よい名じゃ。
 俺は先日逢うて以来、かぐやの面影が忘れられず胸の焦げる思いだったぞ。
 こんな俺だが、かぐやにだけはやさしい心持ちになれるんじゃ、安心しろ。」
 そう言って広忠はかぐやを抱きしめた。
 かぐやは過去に抱いたどんな女よりも柔らかい肌をしていた。そして過去に抱いたどんな女よりも熱い肌になった。
 広忠は好き合った者同士で肌を合わせる幸福に酔い痴れた。



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「どうなのです?」
 姫に問い詰められた広忠は出任せを言った。
「あ、いや、これは盗んだものではない。そ、そう、都で買うたものじゃ。」
「そうですか。
 ならば、絹を買った代金はどこで手に入れました?」
「そ、それは、蒔絵などを売ってだな、」
「では、その蒔絵はどこで手に入れました?」
「そ、それはだ、そう、刀などを売ったのだ、」
「では、その刀はどこで手に入れました?」
 姫がしつこく問い質すので、広忠は言い逃れをあきらめて開き直っだ。
「もうよい、ああ、たしかにその絹は盗んだものじゃ。
 そんな恐い顔をするな。」
 姫は真正面から広忠を睨んでさらに詰問する。
「そなたは物を盗むだけでなく、もっとひどい、口に出すのも憚かられることをなすとか、人づてに聞きました。」
「それは向かってくる者から身を守るためじや、好きでしておるのではないぞ。」
「そなたの親がそなたの悪事を知ったらなんと思われることでしょう。親の心を考えてみたことはないのですか?」
「ふん、親など知ったことか。
 俺はな、生まれて間もなく、その親の手で川に流されたんじゃ。
 それがどういう運のめぐり合わせか、川下で橋のたもとにひっかかり、線香臭い糞坊主に拾われて育ったんじゃ。」
 広忠が身の上を明かすと姫は「えっ」と言ったきり絶句した。
「だからのう、俺には殺してやりたい親はいても、人並みに慕い慕われるような親はいねえんだ。」
 広忠はそう言って、唾を吐き捨てた。
 姫は衵(あこめ)の袖を目元に運んだ。
「そなたには、そのような辛い出来事があったのですか、」
 姫は広忠の身の上につまされて涙声になっていた。しかし、続く姫の言葉は意外なものだった。
「実は、かく申す私も、捨て子なのです。」
 姫がそう打ち明けると、さしもの凶悪強盗広忠もあっと息を呑んだ。
「ほ、本当かよ?」
「はい、先の都遷りの頃、長岡京の朱雀門(すざくもん)の脇に置かれていたそうです。
 それを郡の御用で、門の新京移築に来た養父が見つけてくださったのです。
 養父は四十路になりながら、子供に恵まれずにおりましたから、私のことを神よりの授かりものと思いなし、喜んで引き取り育ててくださいました。
 その時、私の傍らには手鏡ひとつと、着物の内には砂金もあったそうです。」
 姫が言うと、広忠は愛しい姫の生い立ちにうなづいた。
「それはきっと高貴な奴が、訳ありで捨てたんだな。」
「今は、この丹波の山に住んでおりますが、養父はもともとは讃岐の豪族の出でしたから、その流れの女神様の名を勿体なくも私につけてくださり、母様は私を我が子のように大事に育ててくださいました。
 おかげで、今は立派な殿からもいろいろとお誘いいただくのですが、呑気にかまえるたちの私は、まだどなたもお迎えしていないのです。」
 通い婚の時代であるから、姫が家にこもっていても夫がいないとは限らない。今の姫の言葉で、広忠は安堵して喜んだ。
 だが、次に口をついたのはふてくされた言葉だ。
「なるほど、捨て子は捨て子でも、悪がきは悪の道、姫の出は姫の道、運命は変わらぬもんだな。」
「そのような言い方はよくありません、
 運命の惨い仕打ちがそなたを悪の道に導いたので、本当のそなたの心根は清いのです。
 そなたも悪事を慎み、ひたすら魂を磨けば必ずや尊い人物になれるのです。」
 姫は涙声にカを込めて諭した。


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【故事メモ 朱雀門(すざくもん)
 中国の風水に則り、大内裏の王城四守護として東西南北に青竜・白虎・玄武・朱雀を配した。
 大内裏の南にあたる門が朱雀門である。朱雀門をさらに南下した端が羅城門(羅生門)。

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四 強盗の妻問い

 ある晩の真夜中を過ぎた頃、寝つけない広忠が山の頂きに出てぼんやり虫の歌を聞いていると東の山並みにようやく月が昇り出た。
 溜め息を洩らし、姫のことを想いながら月を眺めていると、昔、笑い飛ばした話にあったように、本当に半月が姫の横顔に見えてきた。
 広忠はむしょうに姫に逢いたくなった。
 己れのような野暮ったい悪人が恋を打ち明けたら気丈な姫は笑うかもしれない。さらにすがりついて口説こうとしたら、お前のような凶悪な化け物など嫌いに決まってますと断られるに違いない。
 その時は、太刀で自分の背を突いて胸を破り、そのまま姫の胸から背まで突き通して、二人串差しにして無理死にしよう。
 そんな凄まじいことも考えながら、広忠は盗み貯めてある美しい布地から五本ほどを背負うと姫の家に急いだ。

 広忠が姫の家の垣に近づくと、まだ帰らぬ男が一人立っていた。
 広忠が近づいて、でかい手でその男の口を塞いで睨みつけた。
 月明かりの下で突然髭ぼうぼうの大男に睨みつけられたらたまったものではない。
 広忠がその男の手を口に運んでやると、その男は自分で口を押さえたまま、走って逃げ出した。
 垣から姫の部屋を覗くと、運よく蔀戸が開け放たれ、姫が空を眺めている。
 その黒髪の細やかな線を束ねて月光を宿す輝き、空を見上げる瞳の潤んだ艶やかさ、頬からうなじへかけた柔肌の仄かな目眩ゆさ……広忠は久しぶりに目にする姫の、追憶を裏切らない美しさに感激した。
 しかし、声をかける決心まではつかぬまま、もう少し近くで姫の姿を見ようと、広忠は音も立てずに垣を飛び越えると庭の植え込みのもとに潜んだ。
 不意に姫は目を閉じ、青竹色の衵(あこめ)の袖から半分ばかり覗く白魚のような手を揃え合わせて何事か神仏に祈り始めた。
 微笑んでいる顔もよいが、真剣に祈る姿もまた凛々しい美しさがあった。広忠は仏像なんぞじっくり見たこともないが、女菩薩という仏像はきっと姫の祈る姿に似ているのだろうと思った。

 姫は合掌したまま、目を開いて呟く。
「まことに、あの盗賊は今頃どこにおるのでしょう。また悪事などはたらいておらねばよいが、」
 広忠は姫の言葉に我が耳を疑った。
 この山奥はそうそう盗賊が来る土地でない。とすると姫の言う盗賊とはこの広忠のことに違いない。
 ということはだ、姫はこの広忠の身を案じてくれているのだ。これは見込みがあるかもしれんぞ。
 込み上げる喜びに広忠は胸を熱くした。
 もちろん身を案じたからといって好いてるという話にはならないのだが、久しぶりに姫に会えただけで舞い上がり、自分を案じているというので、さらに舞い上がった広忠にはそんな理屈はどうでもよくなっていた。
 すぐ返事をしようかとも思ったが、それではきまりが悪いので、広忠は垣の外に一旦そっと跳ね出た。
 そうして、姫が和歌をひとつロずさんだ直後に、その前に大きな音を立て飛び降りてみせた。
 姫はびっくりして身を引きかけたが、すかさず広忠が言う。
「俺だ、この間の約束通り土産を持って来てやった」
 そう言うと、姫は安堵して徴笑みを浮かべた。
「ちょうどそなたが悪事をはたらいてないかと案じていたのですよ」
 姫にそう明かされ見詰められた広忠は嬉しさに赤くなりながら縁のすぐ際に近寄って言う。
「そのように案じられては、こっちの仕事にけちが付くじゃねえか。」
「まあ、悪事がなんで仕事でしょうか、のちのち罰を受けるのは、よいですか、そなた御自身なのですよ。」
 そう言われると広忠はむっとなったが、それは腹に納めて背中の荷物を開いてやる。
「少ないがちょいとした代物を持って来たぞ。」
 広忠が布地を出すと、梔子色(くちなし)、東雲色(しののめいろ)、撫子色(なでしこいろ)、秘色(ひそく)、勿忘草色(わすれなぐさいろ)が川のように広がった。
 月明かりの下でもその布の色鮮やかなことはひと目でわかる。
 広忠はさぞかし喜ぶだろうと考えながら姫の様子を伺った。
 案の定、姫は「なんと素晴らしい……」と呟いたのだが、次に出たのは広忠に対する非難の言葉だ。
「そなたは他人様からこのような高価なものを盗んで平気なのですか?」
 姫に睨まれると、広忠はうかつに地面に跳ね出た鯉のようにあたふたと口を動かした。


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【故事メモ 梔子色(くちなし)
クチナシの実で染めた赤味を帯びた濃い黄色。口無しにかけて言わぬ色とも呼ぶ。
【東雲色(しののめいろ)
夜明けに東の空が色づく淡い赤色。
【撫子色(なでしこいろ)
ナデシコの花のような薄いピンク系の赤紫
【秘色(ひそく)
明るい灰色がかった青。唐の時代、庶民に青磁の使用を禁じた故事より。
【勿忘草色(わすれなぐさいろ)
勿忘草(ワスレナグサ)の花のような深みのある空色

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クローン細胞

 萌は大学の同級の知夏と茜に誘われて、あまり気の進まないまま、合コンに参加していた。
 幹事の男子が言う。
「ちょっと、ゲームやりたいと思います、古今東西、お題は何がいい?」
 すると乗り気の女子が答える。
「アニメのヒロイン!」
 うわあと拍手が起きて、ゲームが始まった。
 そこまでは萌も集中していたのだが、
 あっ!
 その時、ふたつ向こうのテーブルにいつの間にか彼がいるのを見つけた。
 最近、萌はあちこちで彼が遠くにいるのを見かけている。
 お昼を食べにいった学食の隅っこに座っていた。買い物に出かけたファッションビルのエスカレーターでも見かけた。本屋で雑誌を立ち読みしてたら、彼も立ち読みしてた。
 普通ならすぐ警戒するところだが、だからといっって話しかけたりとか、それ以上接近してくるわけでもない。
 それより、萌はあの男にどこかで会っているような気がしてならないのだ。
 だから誰にも話していない。
 年齢は萌より少し上かもしれない。髪をちょっと立てて、シャツに麻のジャケットをはおって、少し遊び人の匂いがする。
 正直、言うとカッコイイので気になっている萌なのだ。
 どこかで会ったはずなんだよな、でも、思い出せない。
 いったい貴方は何者なの?
「6、7、8、9、10、はい、アウト」
「萌ちゃん、罰ゲームよ」
 隣の茜が言うので、萌はようやく自分がアウトになったのだと気付いた。
 くじを引かされて、幹事が紙を開いて読み上げる。
「向かいの人にほっぺにチューされる!」
 みんな、やんやの拍手である。
「エー、そんなのヤダー」
 嫌がる萌を左右の知夏と茜がテーブルに押し出すと、向かいの男子も左右から押し出されて顔を萌に近づけてくる。
 ま、ほっぺならいいかと萌があきらめた時、
「やめんか、アホ」
 後ろから強い力で引っ張られて、振り向くと、あの彼がテーブルにどんと片足を乗せて怒っていた。
「こんなふざけた遊びがあるか。
 萌、帰るぞ。」
 萌はどうしていいかわからなかった。
 見回すとみんなシラけて、身を引いている。
 そりゃあ、あまり気は進まなかったが、たかがゲームである。ここまでぶちこわさなくてもという気持ちが萌にある。
 それでいて、彼の真剣に怒ってくれる様子にときめいている萌もいる。
「あ、あなたはなんなんですか?」
 遅ればせの幹事の質問に、彼はうなづいて答えた。
「萌の保護者だ」
 みんな、納得できない顔をしながらも、かといって反対できずに、引っ張られて店を出てゆく萌を見送った。

「どうもすみませんでした」
 萌が、一応、そう礼を言うと、彼は喜んだ。
「いいんだよ」
 二人はすぐ近くの喫茶店に入った。
 席について注文を済ますと、彼は言う。
「萌ちゃんが無事でよかった。
 わしはああいう酒飲んでゲームして男女がつきあうってのはいかんと思うんだ。
 あれじゃあロマンも何もないじゃないか。
 ま、古い考え方だろうがな。」
「はあ」
 萌は彼の言うことと彼の格好が合ってないような気がした。
 そこへコーヒーが運ばれてきた。
 コーヒーをひとくち飲んで、萌が言う。
「あの、よくお見かけするんですけど」
「うん、萌ちゃんが心配で、心配で、ついな。許してちょ」
 許してちょかよ、なんだか古いなあと思いつつ萌は聞く。
「あの、お名前は?」
「ああ、秀雄だよ、知ってるだろ?」
 萌は知ってると言われて首を傾げた。
「知りませんけど」
 すると彼はにんまりとして、
「ああ、そろそろ種明かしせにゃならんな。
 わしは南鞍秀雄、萌のお爺ちゃんだよ。」
 ブッ、
 萌は飲みかけていたコーヒーをテーブルに噴き出した。
「お、お爺ちゃん!
 どうして、どう見ても24、5歳だよ!」
 萌がおしぼりでテーブルを拭きながら言うと、彼は笑った。
「ハハハッ、自分の細胞から再生した若い細胞で体を入れ替えたんじゃ。
 金と時間はかかったが、もう完全に若返ったんじゃ」
「そんなのありえない」
「いや、ありえるんじゃよ。
 そもそも、これは作者の銀河さんが再生技術の危惧を述べるためのエッセイなんじゃ」
「聞いてないんですけど、これはどう見ても小説でしょ?」
「それは萌の不注意じゃ、カテゴリーに気付かんかったのかい?」
「あ、ホントだ。ずるいよ。主役だって言うから喜んできたのに」
 そこへ黒いフード付きのマントをまとい、黒いサングラスをかけた男が、お爺ちゃんだの隣に腰掛けた。
「萌ちゃん、怒らない、怒らない。作者銀河です」
「えー、登場可能なわけ、掟破りだよ」
「だって小説じゃないから、小説の掟は、関係ねえよ、だもんね。
 つい先日のニュースだけど、京都大の再生医科学研究所がマウスの皮膚から万能型のiPS細胞を再生させることに成功したんだ。これはノーベル賞級の成果だね」
「じゃ、いいんじゃない?」
 萌が言うと、銀河はうなづいた。
「いいよ。いろんな病気で困ってた人には朗報だ。治療法がなかった病気でもその臓器を再生した臓器に入れ替えれば治療できるんだからすごいよね。
 それまでのクローン技術で使うES細胞は受精卵から作るものだったから倫理的に壁があった、それを経由しないで済むことからローマ法王まで手放しで褒めてる」
「何が危惧すべき問題なわけ?」
「だから病気の治療のためなら問題ないんだ。
 素晴らしい朗報だよ。
 だけど、この爺さんみたいに、単に若返ろうという輩が増えると新たな倫理問題や格差問題になるんじゃないかなと思ってね」
 銀河が言うと、爺さんがむくれた。
「ひどいな、わしが何をしたと言うんじゃ。
 わしは萌の同級生のメアドをゲットして、第二の人生を楽しもうとしているだけじゃないか。婆さんは去年死んだから問題ねえよ」
 にやにやとするお爺ちゃんを見て、萌は言った。
「うーん、やっぱり問題あるかも、考えてみなきゃ」
「うーん、俺もクローンの長編考えてたのに。やりにくくなったんだよな。
 てことで、ES細胞からiPS細胞に変わって再生医療に大きく貢献するだろうけど、それで全ての倫理問題がクリアーになったわけではないかもよ、という主張でした」


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 この時、広忠は、この国一番の怪力と嘴いてきた己れを打ち負かしかねない強敵を相手にしていたのだ。
 そいつはふとした瞬間に、広忠の喉の奥から洩れ出て来る怪物で、溜め息を洩らしたが最後、心の正面に可憐な水仙の花のように立ち現れて像を結び、柔らかな微笑みを投げかけ広忠の力を全て奪ってしまう。
 広忠は見えない鋼の糸で魂をかんじがらめに絡め取られたようになり、うっとりとそいつに見惚れる。長く黒い髪、白く透ける肌、艶やかな瞳、愛くるしい唇、そして暖かいいたわり。
 あの姫には、今までカづくでものにしてきた女達にはなかった、広忠を引きつける何かがあった。さらに不思議なのは、美しい容貌を細かいところまでくっきりと思い出せるのだが、そういう外見とはまったく別の何かが強烈に広忠を惹きつけるのだ。

「まったくわからん。」
 広忠はあの姫が巻いてくれた絹布を撫でながら何度も溜め息を吐いた。
「まったくわからん。」
 思い返してみると、あの家で姫に出食わした時から広忠はおかしかったのだ。
 騒がれなかったからよかったものの、姫を見た瞬間、広忠はすっかり見惚れてしまってしばらく声も出せなかった。さらに忍び込んだ家で騒ぎそうな女を殴りもせず、手篭めにもせず、果てはその脇で前後不覚に眠り込んでしまうという間抜けたことなど、以前の黒面広忠には全く考えられなかった。
「まったくわからん。」
 広忠は、また姫の面影に向かってふうーと溜め息を洩らした。
 ふとあの姫を手篭めにすることを考えてみた広忠は慌ててその思い付きを払いのけた。
 今の広忠は己れの肉欲を満たすだけで、この不思議な感情が満ち足りるとは思えなかった。もしそんなことになれば、あの姫は涙を流して広忠を罵るだろう。
 あの姫の涙、それは今や広忠がこの世でもっとも見たくないものとなっていた。
 広忠は不意に悟った。
 かつては、女どもを怖がらせたり泣かせたりして面白がっていたが、実は広忠の心はそこにあるのではなかったのだ。自分を恐怖の相手ではなく、一人の男として正面から見据えてくれる女を探し求めていたのだ。だが、大きすぎる体といかつい顔がいつもそのかすかな期待を打ち砕いてきた。
 そこであの姫に出会ったのだ……広忠を怖れることを知らぬ姫。
 もしかしたら、あの姫こそが広忠の求めていた女なのかもしれぬ。
 そこで広忠は口に出してみた。
「わしは、あのおなごに惚れた」
 そう言って広忠は一人で照れた。
 今、広忠の心は、男と女が真に心と心を通い合わせた時だけに掬える胸の奥底にある何かを、あの姫の輝く微笑とともに掴むことを熱烈に求めている。
 凶悪で知られた強盗黒面広忠も三十路を半ば過ぎて、ようやくまともな恋を知ったのである。

 広忠は、姫に美しい布でも贈って好いたことを告げようかと考え付いたが、姫の答えを考えると、わだわだと胸を震わせた。
 こちらが姫を好くのはよいとしても、あちらの美しい姫が凶悪な強盗のこちらを好く筈はありえないのだ。
 密告こそしなかったが、なにやら気の強そうな姫なのである。
 広忠を怖れはしない。だからといってそれは好いてるということではないのは広忠にもわかっていた。
 きっと、広忠が口説いたら、あの姫は自分の嫌う気持ちを、はっきりと正直に言って寄こすに違いない。
 今の広忠には、それががたまらなく恐ろしいのだ。
 分厚い胸板の毛を掻き毟った広忠は、乳母が火にかけていた猪の丸焼きを持ち上げると渓谷の奥深く投げ飛ばした。
「うおおーっ」
 広忠は熊も怯えるような怒鳴り声を上げた。

 こんなわけで広忠に言い寄る勇気はないものの、姫の麗しい姿をひと目だけでも見たい気持ちは次第に昂まり、狩りや強盗仕事の合間にちょくちょく出掛けては生け垣越しに姫の部屋を覗いてみるのだが、なかなか姫の愛くるしい姿を拝むことはできない。
 姫を見れない代わりに、広忠と同じ目的の男たちが垣に張りついているのに出食わすことはあった。
 しかも、その男どもの数は次第に増えてゆくようなのだ。
 そんな折、広忠はこいつら叩き斬ってやろうかと荒ぶる気持ちを起こすのだが、一方で、いやいや、そんなことをして、もし姫に知れてしまったら、ますます嫌われてしまうぞと気付いて思いとどまり、そっと身を隠すのが常であった。



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三 強盗の恋心

 追捕の手を逃れた広忠は、姫の家からひと山越えた渓谷にある、ねぐらに戻った。
 ねぐらは、広忠が材をかついで運び、大きめの洞窟いっぱいに柱を突き立て、戸板を無理やりはめ込み、力任せに造ったいびつな小屋だった。
 広忠が帰ると、奥にいた女がまるで亭主を迎えるように迎えた。
「お帰りなさいまし。
 御苦労様でした。」
 女は、三流とはいえ貴族の家に生まれ、高貴な姫君に仕えていた侍女であったが、数年前のある夜、強盗に入った広忠にさらわれて、ここに連れて来られたのだ。
 そして広忠に「ここから出てはならぬぞ、女が歩くと飢えた熊が出て食うでな」と脅されると、たとえ広忠がニ、三日留守にしても、自分から険しい渓谷を降りて逃げようとはしなかった。
 さらわれた時、侍女はもはやわが命も長いことあるまいと覚悟した。
 それが少しでも長く生きる道だと信じて、広忠の怒りを買わぬよう、短気をうっかり刺さぬよう注意を払って、飯を作ったり、洗濯をしたり、時には気紛れな広忠の欲望に喜ぶ素振りを見せたりして、飯盛り女として努めてきたのだ。

 今、帰った広忠を見ると、いつものような戦利品を携えてないばかりか、どうやら腕には布を巻いて傷まで負っている様子。
 さては追っ手に痛い目に遭わされたのかもしれぬ。
 広忠の性格を知りつくしていた女は、これはうかつに何があったのかなどと聞いては、かえって生命取りになりかねないと心得て、目をそらしたまま問いかける。
「何か召し上がりますか?」
 しかし、広忠は何も答えず、見向きもしない。
 それでも、返事がないからと気を利かさずにいて殴られたことがあったのを思い出す。
 そこで、女は、かまどで、干し肉と有りあわせの野菜で鍋を作り、酒と共に出してやる。
 すると、広忠は黙ったまま全部平らげた。
「もう少し、御酒をどうぞ」
 女が言うと、広忠は黙って杯にしてる椀を持ち上げた。
 椀に酒を注いでやったが、広忠はそれを宙に持ったまま、沈んだ目をして黙り込んでいる。
 おや、この悪党の目が死んでるようだよ、不気味だこと。
 女の心配をよそに、広忠は酒に口もつけず、さっさと横になり寝てしまった。

 それから数日、小止みなく細い雨が降り続いた。
 その間も広忠はおかしかった。
 雨の日にはよくある、気紛れに女を押し倒すこともせず、強盗にも狩りにも出掛けず、日がな一日、筵に寝そべって雨を眺めているのだ。
 そうして、時々、大きな溜め息を洩らしている。
 これはかつてないことなので、女にはどうしたらよいか、わかりかねた。
 それでも食い糧が心細くなったので、そのことをおそるおそる口に出すと、広忠は頷きもせず、死んだような目つきのまま外へ出かけ、夜遅くに猪を二頭を担いで帰ってきた。

 翌日、ようやく雨がやみ、晴れあがった。
 女は小屋のすぐ外に置いた大樽に十分な雨水が溜まっているのを確かめると、洗濯を思い立ち、右肘を枕に寝ている広忠に言った。
「今日は天気もよいし、その着物を洗濯いたします。
 さあ、脱ぎなされ。」
 黒く汚れた狩衣を脱がせにかかると、広忠は素直に従って袖を抜かせた。
「その汚れた布も洗いましよう。」
 女はそう言って広忠の右腕に巻かれた、茶に変色した布を外そうとした。
 すると、広忠は突然、雷の如く、鼓膜が裂けるほどの大声で
「勝手に触るなっ。」
 怒鳴って、女を激しく突き飛ばした。
「お前のような醜女など要らん、
 とっとと失せろー。」
 女は突かれて内の骨にひびが入ったかもしれぬ胸を押さえて言い返す。
「そ、そのように突然、失せろと言われても困ります。
 熊が巣をつくる険しい谷をおなごに降りられる筈はない、と言われたのは貴方様ですよ。」
「うるさい、ならばこの場で始末してくれようか?」
 広忠が傍らの太刀に手をかけると、女は慌てて、
「ひいーっ」と叫びを上げて、逃げ出した。
 すると広忠は床に太刀を放り出し、大きな溜め息を吐いたかと思うと、右腕の汚れた布を撫でて、それを枕にまた横になった。


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 広忠が目を開けると蔀戸(しとみど)の外は明るみ始めていた。

「目が覚めましたか。」
 女の囁く声に、はっとして広忠は上半身を起こした。
 そして、すぐ傍らで徴笑んでいる姫を見つけ一瞬、息を呑む。
 姫も顔を隠そうとして思いとどまった。
 透けるような白い肌と艶々とした大きな瞳の姫は、広忠が今まで目にしたどの女より美しく輝いていた。
 ここはどこじゃ?
 姫から戻した目を室の中にめぐらした広忠は、自分が姫の家に忍び込んだまま寝入ってしまったことに思い至り、己れの体にかけられている良い匂いの柑子色(こうじいろ)の単(ひとえ)を眺めてふうと安堵の溜め息を吐く。
 さらに右腕の傷を縛っていた汚い布が絹に替えられているのにも気付く。
「どうしてだ?」
 広忠が右腕を見たまま呟くように聞くと、
「何がです?」
 と、姫は小声で、聞き返した。
 広忠も小声になる。
「何故、俺を密告しなかった?
 これほどされて気付かぬほど深く寝入ってる時なら、いかに間抜けな追っ手でも俺の寝首を捕らえて牢屋に送り込めただろうよ。」
 姫ほ、ほほっと息を洩らして囁く。
「寝顔が童(わらべ)のようにろうたげでしたゆえ、そなたが悪人であるのをすっかり忘れていました。」
 そう言われた広忠は羞恥で額から首の付け根まで真っ赤になったが、不思議と荒々しい言葉は口を突かなかった。
「まあ良いわ。
 俺も男だ、受けた恩は、恩とはっきりさせておきたい。
 おんな、何か欲しいものがあれば言ってみろ。
 必ず願いを叶えてやろう。」
 広忠が聞くと姫は聞き返した。
「必ずですか?」
「必ずじゃ。」
 それを聞いて姫は囁いた。

「ではお願いいたします。
 悪事をお止めくださいませ。」

 広忠はびっくりした。
 どこから見ても凶悪強盗以外の何者でもない自分に向かって、悪事をやめろとは、この姫はよほど怖いもの知らずなのだ。
 広忠は断る。
「悪事は俺の天職じや、
 やめるわけにはいかねえ。」
「必ずと約束したではありませんか。」
 そう言われて、広忠は胸の中で、この女は苦手だと感じる。
「それはだ、形のあるもののことだ。
 何か形ある物にしろ。」
 広忠が言っても、姫は聞かない。
「父上や母上から教わりました。
 生きてるうち悪事ばかり働いていては、死んでから地獄に落ちるそうです。
 そして来世はよくても、犬猫、鶏くらいにしか生まれないのですよ。
 どうか悪事をお止めくださいませ。」
 姫が真剣に論すと広忠は鼻から息を吹いて笑った。
「俺に説教とはお笑いだ、
 俺がどんな悪事を重ねてきたかたっぷり話してやろうか。」
 しかし、広忠がすごんでも姫の態度はびくともせず、
「生まれついての悪人などこの世にいないはずです。
 そなたにだって、きっと善いところがある筈です。」
 姫が自信を込めて断言すると広忠は呆気に取られて口をぽかんと開いた。

 極悪非道とか冷酷非情と言われたことは今まで数限りなくあったが、善いところがあるなどと言われたのは生まれて初めてのことだ。
 そんなところがないことは己れが一番よく知っていたが、この姫に言われてみるとなにやら照れくさくて、もしかしたらどこかに少しはあるかと心の懐を探りかけたから不思議なものだ。

「まったく、お前はおかしな女だな。
 まあ、よい。
 とにかく今度、この家を通りかかることがあれぱ、お前に土産を持って来てやろう。」
 そう言い残すと、広忠は蔀戸から外に出て朝靄の中へ走り去った。


 f_02.gif プログ村


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 まもなく広忠の言った通り、たくさんの馬の脚音といななき、そして武具が甲冑にすれる音が響き、家の門が激しく叩かれた。

 広忠は姫を睨んで「よいな」と念を押し、姫のお気に入りの蘇芳の帳子(かたびら)が掛かっている几帳(きちょう)の陰に隠れて太刀を構えた。

 武者の声が響く。
「ここを開けよ、」
 さらに、追捕の中将が自ら大声で怒鳴った。
「お上の命により強盗の探索をしておる衛門の中将惟匡である。」
「何の御用でございます?」
 離れの小屋から飛び出た下男が戸を開けながら尋ねると、武者の掲げる松明の中から中将が大雑把に説明して聞かせる。
「都を騒がす凶悪強盗がこのあたりに逃げ込んでおるやもしれん、変わりないか?」
「はい、静かにございます。」
「うむ、主人に問いたいゆえ案内いたせ」

 下男が家の戸口を叩くと主人が戸口に現れた。
「強盗の探索をしておる衛門の中将惟匡である。」
「これはお役目ご苦労さまにございます。」
 追捕の中将は松明に照らされた主人の顔色を仔細に見ながら言う。
「うむ、都を騒がす凶悪強盗が逃げておるのだ。
 主、何か気のついたことはないか?」
「都の強盗ですか?
 ここは都からは馬でも二日かかりますが、」
 主人は不思議そうに言うが、中将が説明して聞かせる。
「並みの足の男ではないのだ。
 馬と駆け比べしても、ばてぬ男なのだ。」
「はあ、それはそれは、」
「それだけでない。
 とんでもない凶悪な大男でのう、怪力をいいことに、今日だけで十数人もひとを殺めておるのじゃ。」
 中将が言うと主人は絶句した。
「……なんとまあ、恐ろしい、」
「それらしき姿を見たり、足音を聞いたりせなんだか?」
「いいえ、手前はいっこうに。」
「そうか。主の他に家族はいるか?」
「あそこに控えてますのが手前の女房です。」
 主人が振り返って言うと、中将は板間に控える女に尋ねる。
「どうだ、お前は怪しい者は見なかったか?」
「いいえ、そのような大男は見かけませんでした」
「家族はこれきりか?」
「あとは奥の部屋に娘が寝てるきりです。」
「うむ、姫にも答えてもらおう。」
 中将が主人に姫の室の戸を開けるように言うと、几帳の陰の広忠は、息を止めて五感と剣先に神経を張りつめた。
「姫よ、起きただろう。
 お役人様の質問に返事を申し上げなさい。」
 主人はそう言いながら姫の室に近寄り戸を開くと、紙燭の炎の光が揺れた。

 姫は扇で顔を隠して「はい」と返事した。
 中将が尋ねる。
「夜分、済まぬな、凶悪な強盗が逃げておるのじゃ。
 怪しい音や姿なぞ見かけなんだか?」
 几帳の陰の広忠は、いつでも飛び出し、斬りつける心構えで、耳をそばだてた。
 すると、姫は落ち着いた声で、
「部屋より一歩も出ませんでしたので、生憎とそれらしき姿も音も、」と答えた。
 中将はうなづいて言う。
「くれぐれも気をつけられよ。」
 広忠は緊張を解いて太刀を下ろした。

「強盗が捕らえられるまで外を出歩かない方がよいだろう。」
 中将は主にそう言い残して立ち去った。

 それから、几帳の陰の広忠は、追っ手の一行が集落から完全に遠ざかるのを待つことにしたのだが、さすがの広忠も山越えを重ねた疲労には勝てないと見え、やがて眠気の波状攻勢に上体を揺らし始めた。
 次第に揺れは大きくなり、しまいに広忠は上体を板敷きの床に倒して眠り込んでしまったのだった。


 f_02.gif プログ村

【故事メモ 几帳(きちょう)
室内用の移動可能な布の衝立。布は帳子(かたびら)と呼ばれ上の横木から垂らすようになっており、縦長のものをつなぎ合わせた形である。しかし、覗き見するため、わざと部分的にほころびをつくってあった。

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ニ 怖れぬ目

 丹波の山麓集落にある家で、美しい姫が胸騒ぎに目覚めて襟を押さえ体を起こした。

 その家は丹波地方の元郡司が建てた家で、今はその母系の老夫婦が住まいしていた。
 姫は膝立ちに蔀戸(しとみど)に近寄り、上半分を引き入れて上げる。
 すると、蔀戸の外には竹林が広がり、その上に楕円の月が輝いている。
 姫は巾着袋を開き、揃えた両手程の大きく丸い鏡を取り出した。
 その鏡の微妙な凹面は光を集めるに優れ、紙燭(しそく)の僅かな光でも大きな篝火の明かりのように眩ゆく反射することができた。
 姫は室に差し込む月光を受けて眩しく光る鏡面をそっと眺めた。
 

 その時、戸板を怪力でたわませて家に入り込んだ広忠は、土間で水甕を見つけると傷を負った右手で柄杓を持って、乱れた息を潰すようにごっくごっくと水を飲んだ。
 そして一息つくや広忠は今度は鍋の中を調べた。
 なにしろまる一日何も口に入れていなかったから、腹は敷物の毛皮のごとく潰れている。
 鍋の中に煮物の冷めた残りを見つけた広忠は、鍋に口をつけて頭を反らせ、手で残り物を喉にかき込んだ。
 すっかり平らげて指をしゃぶると、次は鉢の中から妙り豆を見つけて口に詰め込み、詰め込み噛み砕く。
 そうしてるうちに、置き方がまずかったらしく、鍋がずり落ち、それが甕に当たりかん高い音が響いた。

 すると、奥の室から澄んだ細い声が間いかけてきた。
「父上?母上?」

 広忠は一瞬、腰に差した太刀に手をやり、すぐに戻した。
 広忠のねぐらにしている洞穴はあとひと山だ。ここで騒ぎを起こすと、ねぐらまで探索の手が迫るかもしれない。いくら怪力の広忠でも寝る時は無防備だから、万が一そこに踏み込まれるのは面倒だ。
 広忠はこの女は脅して静かにさせようと決めた。
 姫は眺めていた鏡を床に置いて、白い汗袗(かざみ)の上に、萌黄の衵(あこめ)を羽織って戸口に歩み寄る。
 広忠は戸口の外にそっと忍び寄り身構えた。
 姫は土間に降りようと戸を開けた。

 瞬間、待ち構えていた広忠は体当りするように姫を部屋の中に押し戻した。

 部屋の中は月光を反射する鏡のせいで意外に明るい。
 広忠は右手で素早く姫の口を塞ぎつつ、左手で姫の腹を押さえた格好のまま、数瞬、姫と目を合わせた。
 姫はあまりに突然で怯える間がなかったのだろうか。目を凝らして顎の輪郭を髭が縁取るいかつい広忠の顔をじっと見詰めている。何か言おうとして広忠に押さえられている唇を動かしはしたが、それも止めた。
 広忠はじっと見返してくる恐怖心のない美しい瞳と、手のひらにある柔らかな唇の感触に、不思議とどぎまぎした。
 そして妙に高揚した気分になり、広忠も手を引いて姫を見詰めた。
 僻村にはおよそ不釣り合いな姫の麗しさに驚いた点もあるかもしれない。
 しかし、それはまことの理由ではない。
 広忠は初めてだったのだ、自分を恐怖以外の目で見つめる女に出会ったのが。
 だから、この女は一体どういうつもりかと姫を見つめたのだ。
 それは端から見たら、奇妙な光景であったろう。
 真夜中、美しい姫と、腰に刀をぶらさげた凶悪強盗が見詰め合ったまま、黙り込んでいるのである。

 やがて、広忠は思い出したように「声を立てるな」と囁いて、姫の首をつかみ、刀を抜いてかざした。
 すると姫は小声で言う。
「その刀をおしまいください。
 益荒男が手弱女に刀を向けたとあっては笑い草となりましょう。
 決して騒ぎませぬから下げてくださいませ。」
 広忠は一瞬、姫の言葉に頷きそうになったが、小娘の口車に乗せられてなめられては、と思い直し、姫の口を再び強く塞いだ。
 そうされながらも姫はしっかと広忠を見詰め返してくる。
 やはり恐怖を帯びた目ではないのだ。
 姫の澄んだ目だけで、広忠は胸の奥底をかき回されるように感じ始めていた。
「な、なんだ、その目は……、お、俺が怖くないのか?」
 姫の命を掌中に握っているはずの強盗が、逆にまるで問い詰められているかのように小声で聞き返した。
「では、怖い方なのですか?」
 姫も囁いて聞くと、広忠も囁いて答える。
「お、おう、ひと目でわかるだろうが、」
「申し訳ありません、怖い方は初めてなのです。」
 姫がそう謝って、広忠の角張った顎を縁取るぼうぼうの髭や、汗の滲んだ高い鼻を見詰めていると、広忠は切れ長の下の、よく見るとつぶらな瞳を苛立たしそうに動かし小声で叱った。
「人の面をじろじろ見るんじゃねえ。」
 姫は、いかつい男が恥ずかしがる風情がおかしくて笑みを洩らしそうになったが、さすがにそれは本気の怒りに遭うと悟り、すぐに噛み潰した。
 広忠は姫をじっと睨んで小さい声で脅す。
「いいか、やがて追っ手が来よう。
 おそらく家の者は叩き起こされ、お前も何かひとつふたつ聞かれるやもしれん。
 しかし俺のことは一言も喋ってはならねえ。
 手振りで示してもいけねえ。
 もしおかしな真似をしたらお前も家族も皆殺しだ。」
 声は小さいが、すっかり凶悪な色に染まっている広忠の言葉に、ようやく姫も恐怖をひしひしと感じた。
「断っておくが、俺は追っ手が恐くてこんなことを言うんじゃねえ。
 今日はもういささか人殺しに飽いてしまっての。
 そこで、ここは静かにやりすごそうと決めたんじゃ。
 だが、お前が騒ぐ気を起こすなら、またひと暴れするまでのことだ。」
 広忠が脅して睨むと、姫は黙って頷いた。


 
 f_02.gif プログ村

【故事メモ 紙燭(しそく)
灯火で二種あり、宮中で使われた松木の先端を尖らせ油を染み込ませ灯したものと、油にひたしたこよりに灯したものがある。
【 汗袗(かざみ)、 衵(あこめ)
汗袗は字から想像できるように汗とりの下着、衵も本来は肌着である。

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「聞いてくれるか?」
 藁にもすがる心地の大臣が喜びかけた。
 が、広忠はあっさりと大臣の期待を裏切る。
「だが金の前に、怖がる姫を抱きたいんじゃ。」
 広忠が対屋に渡ろうとするのに大臣はすがりつく。
「のう、姫だけは許してくりょ。
 姫よりよい女をいくらでも世話するに。
 お願いじゃ、姫は東宮と縁談を進めている最中なんじゃ、」
 大臣はどうやら出世の種大事さに必死のようだが、広忠が心変わりするはずがない。
 広忠は斬るのも面倒で「うるさい」と大臣を渡り廊下から蹴落とした。

 対屋に入ると姫は侍女二人と何やら夢中で喋り合っていてなかなか広忠に気付かなかった。
「女、相手しろ。」
 広忠が床に太刀を投げ出して言うと、ようやく三人は踏みつけられた猫のような悲鳴を上げた。
 広忠は耳を裂く声に少しも構わず、一番いい着物を着ていた姫をつかまえるとニ藍の桂(ふたあおいのうちぎ)とその下の単(ひとえ)と長袴を剥ぎ取り、裸にして己の胸に抱きかかえるとそのまま胡坐をかいて座った。
 全裸となった姫はぶるぶると震えながら、やっとの思いで言う。
「い、命ばかりはお助けくだされ。」
「ふふ、怖いか?
 もっと震えろ。」
 広忠のあまりの恐ろしさに姫は素直に素直に「はい」と返事した。恐怖から全身に走る震えは命令されずとも止まる気配はない。
「俺が嫌いか?」
 さすがに姫は素直にうなづけず涙目でかぶりを振る。
「わしはおなごは殺しはせぬことにしとる。言うてみろ、わしが嫌いだと、命令だ。」
 姫は仕方なく気の進まぬまま小さく答える。
「嫌いじゃ。」
「鬼のようだろ?」
「鬼のようじゃ。」
「わっははは。」
 広忠は、己が恐怖の的であるということを確かめると豪快に笑った。
「それでよい、そうこなくてはのう。」

 まもなく飯が運び込まれてきた。
 広忠は震えてむせび泣く全裸の姫を膝に乗せたまま、食事にかかった。

 その夜の広忠はいつにも増して大胆だったか、そうまで悠然とされれば、いかに足の遅いお上でも間に合う。
 衛府の中将は今宵こそ威信回復と意気込み、戦並みの大人数五百人を率いて大臣の屋敷を取り囲んだ。
 食事に満腹した広忠は、姫の震える膝を枕に敷いてのんびり酒を飲んでいた。

 そこへ、突然、四方の戸板が破られ、三十人ほどの武者がなだれ込み、あっという間に姫を引き離して、広忠に縄をかけてぐるぐる巻きにする。
 追捕の宣旨を読み上げる中将を、広忠は片目で一瞥すると鼻から息を抜いた。
「ふん」
「黒面広忠、おぬしの悪運も尽きたな。」
 中将は勝ち誇ったが、広忠は眠そうな声で「酒を邪魔されてはの」と呟き、背の後ろで縛られていた手に力を入れると、手首の縄が千切れた。
「まったく気分が悪いわ。」
 そう言うと、今度は胸を巻いていた縄を糸のごとく引き千切った。
「お、おのれ」
 武者の一人が振りかかる刀を、広忠は徳利で受けて、その武者の手を逆にねじった。
 さらに、広忠は武者を軽々と人形のように持ち上げたかと思うと中将に投げつけ、中将はその場に倒れ込んだ。
 同じように次々に斬りつけてくる武者も人形のように他の武者に投げつけて、またたくまに部屋中に倒されてた武者とその呻き声で満たされた。

「ふぁあーあ」
 広忠は対屋から悠々と歩み出て大きな欠伸をした。
 庭で待機していた鎧姿の武者達ほ、まるで何事もなかったように現れて胸を掻いている広忠に唖然となった。
 捕り方は息を呑んで、誰も飛びかかれない。
 そこで、広忠は袴の紐を緩めると己れの一物を取り出し、しばらく虫の音と競うように小便の音を立てた。
「おのれ、我等をなめおって」
 一人が叫んで斬りかかった。
 酔いで動きの鈍くなっていた広忠は刀を避けきれず、音もなく右腕に傷口かぱっくり開いた。
 しかし、斬りつけた武者がやったと思えた時は殆どなかった。
 すぐに、広忠の凄まじい睨みに震え上がったのだ。
 広忠は袴の紐を結び直すと、次の瞬間、左腕で武士の大刀を奪い、鎧の上から胸と腹をまっぷたつに斬り離した。
 怯える武者どもを睨み渡した広忠は、やにわに猛烈な勢いで走り出した。
 もはや、闘志の萎えかけた武者はあろうことか身を引いて、広忠に道を開けてしまう。
 広忠はあっという間に塀によじ登り、向こう側に飛び降りた。

「何をしてる、追え、追うのだ!」
 ようやくのことで対屋から這い出てきた中将が声を張り上げると、武者たちは我に返ったように、再び広忠を追いかけ出した。
 広忠は着物の袖を裂くと右腕の傷に簡単に巻きつけ、それから、西へひと晩、ひと昼、走りづめ、山を幾つか越えた。


 
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【故事メモ ニ藍の桂(ふたあおいのうちぎ) 】
紫に近い濃い青色をした、貴族女性の日常的な着物の上着
【単(ひとえ)
貴族女性が桂の下に着た裏のない着物で通常二枚ぐらい。蛇足、これを十ニ枚重ねても十ニ単ではない。

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 一 強盗

 大同五年(810年)、唐の長安に倣らって整然と整理された平安京の町並みが賑わいだしたところに、平城太上天皇の変(薬子の変)が起きた。
 桓武天皇の息子である天皇兄弟が平安京と平城京に二人いるという異常事態に一時騒然となったのだが、これは弟嵯峨天皇の迅速な采配で収束し、嵯峨天皇の命令により空海が鎮護国家の修法を行うと、町は落ち着きを取り戻し、平安の都はいよいよ平和な繁栄を見せたのであった。
 
 黒面広忠と呼ばれる凶悪強盗が出没したのは、それから数年後のことである。

 この黒面広忠、六尺に届こうかという上背があるうえ、荒くれ男の図太い腕をもへし折る怪力、大きな牛を一撃のもとに殴り劇す拳、馬を追いかければ馬の方が根負けする強靭な脚力をすべて合わせ持つ怪物であった。
 そのうえ、強盗の手口も残忍を極めた。
 堂々と家に乗り込むと、立ち向かう家人の命を蚊のごとくに潰し、腰を抜かした女を慰みの道具のように弄び、鉄の堅牢な錠前を素手で抉じ開け、気紛れに金品を選んで持ち去るのだ。
 家筋などはおよそわからぬが、最初押し入った時に、誰何されて「ひろただ」と答えた名と、後に月の逆光に紛れた彼の容貌を見止げた生き残りが恐怖を込めて黒い面構えと伝えたことから姓がつけられ、黒面広忠と呼ばれたのである。
 朝廷も威信にかけて黒面広忠追捕の命を発し、懸命の市中見回りと近郊捜索を重ねたが、広忠は嘲笑うように捕り方を振り切り、どうしても補まらなかった。


 その晩、広忠は、朝廷でも有力派閥に属する大臣の屋敷に侵入した。
 いや侵入などという、こそこそしたものではない。
 広忠は憶病な貝のごとく閉じらている正門を平手で鼓のごとく叩いた。
 突然響いた、聞いたこともない音に門番は驚いた。
「何者じゃ?」
 すると広忠はにやりと口に笑みを浮かべて、
「黒面追捕の探索である、この門を開けよ」
 と偽りを叫んだ。
 門番は少しだけ門を開いて聞く。
「黒面が出たのか?」
「そうとも、俺が黒面じゃ」
 様子を伺おうとした門番に声を上げさせる暇も与えず、黒面広忠は門番の喉をひと突きにすると、悠然と敷地に入った。
 
 黒面広忠は太刀を片手にぶらさげ、堂々と寝殿造りの正殿の内に上がり込んだ。
「お楽しみじゃのう」
 そう声をかけられた、酒を飲んでいた大臣と客人は、誰だろうかと酔いにかすむ目をしばたたかせた。
 ようやく抜き身の太刀に気がついた時には命運は極まっていた。
 一瞬、ヒェッと声にならぬ声が上がったかと思うと客人の狩衣から血が染み出した。
 客人が前のめりに倒れると同時に、広忠の眼尻に寄った黒光りが大臣に定まる。
「ひ、黒面広忠じゃあ、出やれ」
 床を這うように逃げてゆく大臣の声は情けなくかすれていたが、脇の板戸が開いて三人の武者が飛び出してきた。
 しかし、広忠は血の滴る刀を片手にぶらりと持つだけで構えもしない。
 武者の一人が「ヤー」と叫んで斬りかかる。
 と、黒面広忠の刀がビュンと風切り音を立て、瞬間、かん高い音が響き、鋼がぶつかる火花が光るや、武者の太刀はあさっての方角に吹っ飛ぶ。
 次の瞬間、武者は床に広がり出した血の海に蛸のように手足を広げた。
 広忠が血走った目で睨みつけると、残る二人はほとんど戦意を失っている。
 中でも一人は股間から脹脛にかけて漏らし小便で袴を染めている。
「それ、二人でかかれ」
 大臣が言うと、もう一人の武者が半ば白棄になって突っかかった。
 しかし、広忠はこれをサッとかわして相手の脇腹を突き返した。
 そして、刃のこぼれてきた己の刀を捨て、武者の無傷の太刀を奪い取る。
 そして振り向くや、逃げ出しにかかっている漏らし武者をダッと追って戸口の手前で斬り殺した。
 またたく間に、用心棒の武者を始末した広忠は大臣に向き直った。
 大臣はなぜかまだ酒の瓶子をしっかり手に握ったまま腰を抜かして、顔を真っ青にしている。
 黒面広忠は大臣の手から酒の瓶子を取り上げると野太い声で命令した。
「やい、主、飯を用意しろ。」
「わ、わかった、誰ぞ、飯じや。
 早う、飯じゃ。」
 ちょうど物音に様子を伺いに来た家司は、切追した主の声と姿に出くわし「たっ、ただいま」と叫び、どたどたと走り去った。

 広忠は瓶子にそのまま口をつけ酒を飲み干すと、対屋(たいのや)に目をやり大臣に尋ねる。
「姫はあっちか?」
 大臣は恐怖の底から声を奮い立たせて懇願した。
「そればかりは許してくりょ。金は幾らでもやるに。」
「ほほお、よい心掛けじゃな。」
 広忠は笑った。


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【故事メモ 対屋(たいのや)
寝殿造りにおいて正殿に対して、東西に建てられた脇殿である。主に妻や成人した娘が住んだ。

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 その年十月、高雄山寺にあった空海は嵯峨天皇より急なお召しを受けた。

 四年前、遣唐使の任を果たし唐から帰国したこの僧は、知識、法力とも並ぶものなく、そのうえ詩書にも明るく筆も立つため、書を好む帝に重用され、まもなく官寺の別当に任ぜられてめきめきと頭角を現した。
 帝は大事な仏教修法が必要な時は、まず空海に命じるようになっていた。今回もそのような用であろうかと空海は考えながら、唐で口伝された密教の占法で用件を探ったが、鎮護国家の徴も、病気祓伏の徴も出ない。
「このたびは気楽な用じゃ」
 空海は従者に言ってのんびりとした心地で宮中に参内した。

 しかし、紫辰殿に上がった空海は、昼の御座所の前ではなく、奥の御寝所の傍らに通された。
 はて、帝は風邪でも召されたかと空海は首を傾げながらそこに座った。
「おお、別当、よく来たな。」
 齢三十を過ぎたばかりの帝は嬉しそうに言い、身を起こすと御簾を巻き上げさせた。
 ひとまわり年長の空海は畏って言上する。
「これはこれは。
 予め占を立てた時は病の気配は見えませなんだゆえ、驚きました……」
「別当、さすがであるの。
 まわりがうるさいゆえこうして隠れておるが、格別病などではないのだ。」
 そこで帝は扇子を開きながら尋ねた。
「時に、別当もあの迦具夜姫のこと、どこぞより聞き及んでおろう?」
「はい、天子の隻眼と坊主の地獄耳は本朝の誇るぺきものにございます。」
 空海が言うと帝は笑みを洩らした。
「うむ。どうも、あの姫が月に帰ってしもうて以来、朕は食が細り気味で、何もする気が起きぬでな。
 いかなる縁あってか皇子に生まれつき、今日まで恋の実らぬことなく、産ませた子も手足の指の数より多いこの身だか、迦具夜姫のおかげてようやく恋に悲しむことを覚え、美しい面影に涙する毎日なのだ……」
「お察しいたします。」
「そこでこう思い立ったのだ、
 かの姫のこと、どうせ忘れようとして忘れられぬことならば、誰ぞにいい加減な噂を広めらられる前に、先手を取って、書き残しておきたいものだとな。
 それも形式張った記録ではなく、いかなる噂にも乗じられる隙のない、美しい話として残したいのだ。」
「なるほど。」
「姫に心寄せた者も多いが、それらの者だち皆の慰みにもなるような物語を残して、後世まで伝えたい。」
「なかなかの思いつきでございます。」
「そこで、唐土の高僧に舌を巻かせたそちの文才を頼みたいと思うがどうだ?」
「手前の拙文でよろしければ、」
 空海が承知すると帝は頷いてさらに付け加えた。
「ただし、くれぐれも朕の名は出してくれるな。
 美しい話にうつつの名は興が醒める。
 既に公の記録からも迦具夜のことは削らせてある。
 書き手が別当であることも悟られぬようにせよ。
 そうじゃ、女房どもの好む仮名書きにするがよい。
 出来上がったものも、内裏へ奉るには及ばない。
 どこぞ朕の耳の届きそうなところへ流してくれればそれでよいのだ。」
「承知いたしました。」
 空海は平伏して御寝所から下がった。

 橘の植え込み脇の渡り廊下を歩きなから、空海はさてどのように話を組立てようかと思案した。
 袖の内の数珠をつまぐり半眼にした空海の瞼にあの強盗の容貌が浮かんだ。
 できることならおぬしの話を取り入れてやりたいが、そうなると全てを明かさねばならない。
 ここはやはりおぬしの事はおくびにも匂わせず、吐蕃(とばん)の『斑竹姑娘』や我が国の竹取伝説、天女伝説、富士伝説をからめて夢物語のごとく書くしかあるまいな。
 低く垂れこめる雲を見上げた空海は、そう決めながらも、かえって心中に、あの強盗と、かぐや姫の恋物語の仔細を想い巡らさずにはおられなかったのだ。


 
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【故事メモ 吐蕃(とばん)の『斑竹姑娘』 】
 吐蕃は7~9世紀のチベット王朝、『斑竹姑娘』は五人の貴人の難題求婚の話であり、内容が竹取物語のその部分と酷似している。 

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姫盗り物語 (新説かぐや姫・竹取物語)

竹取物語は多くの謎に満ちたお話ですが、その謎に挑みます。

今よりはるか昔、空海が遣唐使の任務を果たし、日本に戻った頃の話である。
当時、都を騒がす黒面広忠という凶悪強盗がいた。六尺に届こうかという身の
丈があり、荒くれ男の図太い腕をもへし折る怪力の持ち主である。
その日も、追捕の手を軽々と破った広忠は、山奥の民家で休もうとして
気丈な姫かぐやに一目惚れしてしまった。それは広忠にとって初恋であった。
かぐやの家にはたくさんの求愛者が訪れていた。さて、広忠の恋の行方は…

◇目次


 起 空海
 一 強盗前編
 一 強盗後編
 二 怖れぬ目前編
 二 怖れぬ目中編
 二 怖れぬ目後編
 三 強盗の恋心前編
 三 強盗の恋心後編
 四 強盗の妻問い前編
 四 強盗の妻問い中編
 四 強盗の妻問い後編
 五 求婚者たち前編
 五 求婚者たち中編
 五 求婚者たち後編
 六 難題 前編
 六 難題 後編
 七 火鼠の皮衣
 八 蓬莱の玉の枝 前編
 八 蓬莱の玉の枝 後編
 九 勅使
 十 名案
 十一 月よりの迎え 前編
 十一 月よりの迎え 後編
 十ニ 忍び寄る影 前編
 十ニ 忍び寄る影 後編
 十三 広忠の改心
 十四 あらたなる約束 前編
 十四 あらたなる約束 中編
 十四 あらたなる約束 後編
  結 物語の祖 New !

 
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ネット上、特にブログは今や横書きが主流ですね。
しかし、どうしても縦書きで読みたいと駄々をこねる
貴方のために朗報があります。
(書く場合の問題ではなく読む場合のです)

大きく分けてふたつのやり方があります。
1縦書き対応ブラウザをインストールする。
2縦書き対応のスクリプトを通す。

1の縦書き対応ブラウザには「影鷹」というフリーソフトが
いいようです。他にもazurという有料ソフトもあるようです。

影鷹ホーム へ
こちらのダウンロードから選択するとすぐダウンロードが開始されます。
Windows版とWindowsアプレット版とありますが、アプレットというのは
現在愛用のブラウザでJAVAアプレットを使い表示するということらしい
です。

私は最初のWindows版の単体影鷹ブラウザを使っています。

インストールする際にショートカットかスタートメニューを入れて
おくと後で使用メモリの上限を変更する際に便利です。
初期設定が-J-Xmx128mと128mbなのですが長編だとメモリ不足に
なります。256mとか512mに書き換えると全部読めます。
もちろんPC本体にそれ以上のメモリが入ってる前提です。

動作は縦書きに変換するためか、ちょっと最初の表示を何秒
とか待ちますが、いったん表示されればスムーズです。
PageDownキーを押すと、ページをめくる感覚で読めます。
かなりいい感じですね。


さて2のスクリプトを通す場合です。

CGIと呼ばれるWEBリクエスト処理を通すことにより、
横書きのサイトを、(または自分のPCの横文章を)
縦書き表示してくれるサイトがあるのです。
残念ながらIEインターネットエクスプローラー専用みたいです。

HTML縦書き閲覧CGI Vertica
というサイトです。

左下の『こちらにURLを入れてください』というボックスに
読みたいサイトのURLを入れて、右のダウンロードボタン
を押すと、縦書きになります。例えば、
http://gingak.blog117.fc2.com/
と入れて、右のダウンロードボタンを押す。

しばらくすると、ほーらね、縦書きだよ!
画像が表示できないところもあるけど、読みたいのは、
本文だろうし、リンクもそのまま縦書きを引き継ぎます。
下のスライドバーを時々押してやるか、下の数字の2を
さわりNextボタンを表示させて、めくってゆくと、ほーら
読書の雰囲気がでてるでしょ。


注意 400KBまでの文章なら変換可能らしいです。
(ひとつ上のボックスは自分のPC上のアドレスを読む
場合で、その場合は隣のアップロードボタンみたい)




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※この話にはイジメのシーンがあります。イジメに対して
  不快な思いのある方は、ご配慮をお願いします※

万華鏡

 静かな夜中、蛍光灯を灯し、覗き窓に目をあてて、覗き込む。
 すると、そこには摩訶不思議な幾何学的かつお絵かき定規のような模様が現れる。
 魔法の呪文を唱えて、少し筒を回転すると、模様が変わる。私はうっとりと微笑んでしまう。
 この万華鏡は、今から6年前、高校1年のクリスマスイブ、私のヒーローだったジョーさんこと棚代城也がくれたプレゼントだ。
 私は万華鏡を、くるっ、くるっ、と回転して楽しむうちに「あっ」と声を上げた。
 万華鏡の中、青の菱形がひしゃげた中に、一瞬、ジョーさんの顔が映ったような気がしたのだ。
 私は、しばらく身動きもせず、そこを凝視した。

 1

 高校に進んでからも、私にとって暗黒の時代が続いていました。
 もう中学から知ってる同級生はほとんどいないのに、まるで中学から申し送りがあったかのように、新たなクラスメートによる私へのイジメが始まったのです。
 入学して1週間もするとイジメっ子たちがグループを作り、イジメられっ子を目ざとく見つけるのです。容姿も冴えず性格も暗めの私が目をつけられるのはハイエナが足を怪我したシマウマを見つけるように自然のなりゆきなのでしょう。

 最初はお手柔らかに、上履き隠しから始まりました。
 体育の授業で校庭に出て、校舎に戻ると上履きがなくなっていたのです。
 ああ、やっぱりここでもイジメられるんだ。
 もしかしたら高校でもそうかもと思っていた通り。
 私はその時点ですでに観念してしまい、背中から剥がれかけていた「イジメて下さい」という看板を自分で付け直した気分でした。
 私は先生には訴えずに、購買部で新たな上履きを買いました。
 これを遠くから見て、イジメっ子たちは、私をイジメられっ子の暫定リストから定番リストに格上げしたのかもしれません。
 おとなしくて、先生に訴えないコほどイジメ甲斐があるからです。
 翌日からは教科書をゴミ箱に捨てられました。
 次の週は、今度は通学靴の方を隠されました。
 私は上履きで下校して、自分の部屋にこもるとベッドの中に入って泣きました。
 これからの三年間も耐える日々が続くのです。
 
 その日は美知ってコが昼の休憩時間に私に声をかけてくれました。
「那絵ちゃん、私の隣さ、外出して空いてるから、一緒にお昼食べよ」
 私をイジメてるグループに属さないコだったので、私は警戒を解きました。
「うん」
 入学最初の週はすぐ隣のコと一緒にお昼を食べたのですが、一週間ぐらいで、そのコも私がイジメられっ子だと知ると、自分へのとばっちりを怖れて私と完全に距離を置くようになってしまいました。
 メールを送っても返事も来ません。
 きっと今は心の中で申し訳ないと思いつつ、シカトしてるのでしょう。
《でも私にとってユウちゃんとちょっと笑いながらお弁当食べた数日間が高校の最高の思い出なんだぉ~、感謝してんだぉ~、本当だぉ~v(*⌒▽⌒*)v》
 私は最後に送ったメールの文章をふと思い出しました。
 それが今日再び、美知ちゃんが一緒にお弁当食べようと言ってくれたのです。
 私は心の中がウキウキするのを感じながら、お弁当を持って美知ちゃんの席の隣に座りました。
「那絵ちゃん、誰が作ってくれるの?」
「お母さん、お弁当作るの好きみたいなの」
「いいなあ、うちはさ、冷凍チンそのまま、手抜きなんだ。
 那絵ちゃん、おかず半分ずつ交換してくんない?」
「うん、いいよ」
 私と美知ちゃんは揃って弁当箱の蓋を開けました。

 瞬間、私は凍りつきました。

 ご飯が捨てられ、土に入れ替えられているのです。
 タイミングよく前の男子坂口が振り向いて声を上げました。
「ナエ、なんだ、お前の弁当、土じゃないか」
「どうしたの那絵ちゃん」
 そう言う美知の目は笑っていました。
 新しいイジメグループが私を標的にしたのです。
 他の男子渡辺が覗き込んで追い討ちをかけてきます。
「ハハハッ、雑草と石ころもちょっと入って栄養のバランス考えてんだな」
「那絵ちゃん、やっぱ、私、おかず交換しなくていいや」と美知。
「どうやって食べる?食べるとこ、撮影してやるからな」と坂口。
 私は涙を流しながら、箸箱から箸を取り出しました。少しでも食べればイジメっ子の欲望が満たされることを知っていたからです。逆に無視したら、別の攻撃が始まることも知っていたからです。
 その時でした。
「お前ら、そういうイジメはやめろ!」
 誰かが叫んで寄って来ました。
 それが棚代城也さんでした。

 初日の自己紹介の時、城也さんだけはみんなと格が違いました。
 えー、棚代城也、昨年、ちょっと教師数名を泣かせたり、サボったの多くて、今年も一年生やります。授業は、教師がやりにくいと思うから、最初の出席確認だけの時が多いと思うけど、もし顔を見かけたらよろしく。
 みんなが、こいつはオッカねえ、という印象を持ったんです。

 その城也さんは、私の土と石と雑草の弁当を、美知の弁当箱の上でひっくりかえして、どかんとあけて、それを男子の顔に突き出したんです。
「てめえで、食えるか食ってみろ!」
 すると、途端に、坂口と渡辺は、
「ただのジョークですよ」と逃げるように教室から出て行きました。

 私は、それでも迷いながらおそるおそる言いました。
「ありがとうございます」
「お前もイヤならイヤと言っていいんだぞ」
 城也さんはそう言ってクラスに向かって顔を上げて大きな声で、
「他人をイジメることで自分が優越感に浸るって遊びは、卑劣で情けない人間のクズのすることだ。
 お前らもこういうの見かけたら正義の鉄拳制裁してやれよ!
 学級委員江崎、吉田、風紀委員今井、お前らは特にそうだ。知らんぷりするならお前らを制裁するぞ」
 私のことをこんな風に守ってくれる男子がいるなんて。
 私は経験したことのない喜びにしばらく心を温められました。
 
 2
 
 城也さんの一言は絶大な効果がありました。
 相変わらず、たまに教科書や上履きを隠されたり、「深海女、バイ菌女」とか陰口を叩かれたりしましたが、イジメは明らかに減りました。

 ある日の放課後、私は図書館で調べものをしようと、ふだんは近づかない事典コーナーに入ったのです。
 その時、事典コーナーの大きな書架がコの字に並ぶ内側に、大判の新聞を余裕で開ける大きなテーブルがあることを初めて知りました。
 と思ったら、その一角に城也さんが座って勉強していたのです。
 私はびっくりしながら小声で「こんにちは」と挨拶しました。
「うん、最近は大丈夫か?」
 城也さんは笑って小声で聞いてくれて、それがとても優しい感じでした。
 イケメンというより、少し歳上で落ち着いた感じで、それも安心感がありました。
「おかげさまで。
 でも驚きました、てっきり城也さんて不良で、勉強なんかしないひとかと……。あ、すみません」
「いいんだよ。
 ちょっと息抜きしたかったんだ、外で話そうか」
 私は恋愛の経験も野望もないので、ここはときめくところだってのが今ひとつわからなかったせいか、わりと平常心で城也さんについていきました。
 城也さんは図書館の柱の脇のドアからバルコニーに出たのです。
 バルコニーの下は中庭が広がって気持ちいい風が吹いていました。
「こんなところにバルコニーあったんですね」
「うん、いいだろ。俺はみんなに不良だと思われてるみたいだな」
「あ、ごめんなさい」
「いいんだよ、そのつもりで自己紹介したし、おかげで、お前みたいなのを守るのに都合よかったしな」
 私の胸に切ない何かが震えました。
「城也さん」
「ジョーでいいよ」
「ジョーさん、どうして私なんかを守ってくれるんですか?」
「だって、クラスメートだろ」
 どうってことない言葉ですが、私にはとても、とても暖かく響きました。
「私、同級生にかばってもらったの小学校以来でした」
「そうか、ちょっとジジイの同級生だけど」
「そんなこと」
「お前、親にもイジメを話してないだろ?」
 ジョーさんに秘密をぴたりと言い当てられ、私はうなづきました。
「はい。でも、どうして先生を泣かせたりしたんですか?」
「いやあ、俺がしつこく質問するもんだから、答えられなくて泣き出したんだよ。教師のくせに俺より勉強してないのがいけない」
「そうだったのかあ、てっきり暴力で泣かせたのかと思ってた」
「ふふ、イメージって怖いな。
 お前もイメージより、ちょっと可愛いな」
 私はジョーさんが何を言い出してるのか理解できませんでした。
「ジョーさん、目がかなり悪いでしょ、私、ブスだもん」
「可愛いってのはな、外見だけじゃないんだ、あんなにイジメられてもきちんと学校来るお前が健気でさ、そこがなんか可愛いんだよな」
 私は急にのぼせた感じで、その後なんて自分が言ったのか覚えてませんでした。

 3

 しかし、私へのイジメは完全になくなってなかったのです。

 ある休み時間のこと、私がトイレの外のドアを開けると、イジメグループ幹部格の余詩子が洗面で手を洗っていました。
 私は尿意に迫られていたので、他の階のトイレにしようとは考えず、ドキドキしながら小走りに個室に入ろうとしましたが、どれもふさがっていました。
 嫌な予感がしました。
 手を拭いた余詩子さんは出て行けばいいのに、戻ってきました。
「あら、ナエ、おしっこなの?」
「違います」
 私はさっとトイレから逃げ出そうとしましたが、その手を余詩子が一瞬で掴まえ、痛いぐらいに握りました。
「したいなら、すればいいじゃん、別に邪魔しないよ」
「だって空いてないから」
「じゃあ、空くまで待てば」
 私は仕方なく、
「は、はい」
 しばらく時が過ぎ、もう休憩時間が終わるという頃、余詩子は私の手首をつかんだまま、個室のひとつをコンコンとノックします。
「入ってまーす、恥ずかしいけど大が出なくてさ」
 すると、余詩子と他の個室から同時に笑いが弾けます。
 余詩子は隣の個室の前に移動し、コンコン。
「わりい、私も便秘と格闘中」
 またもや、余詩子と他の個室が爆笑します。
 私の尿意はすでに限界に近づいていて、トイレに響き渡る笑い声すら、拷問のように私のお腹に響きます。
 その時、始業のベルが鳴りました。
 余詩子は隣の個室の前に移動し、コンコン。
「ごめん、タンポンが膨張して出てくんないの」
 またもや、余詩子と他の個室が大爆笑。
 余詩子は私に二者択一を迫ります。
「ナエ、当分、空きそうもないわ、どうする?
 教室に戻って洩らす?
 それともここで洩らす?」
 男子もいる教室で洩らすなんて私でも絶対イヤです。
 私は小さく「ここで」と答えました。
「ナエが自分で言ったよ、ここで洩らすってさ」
 余詩子が言うと、個室のドアが一斉に開いて、中からイジメグループが出て来ました。
 私は無理だと思いながらも、「空いたから」と個室に入ろうとして引き戻されます。
 余詩子がここぞとばかり言います。
「ナエは自分でここで洩らすと言ったんだ。
 美知、観客に男子たちを呼んで来な!」
 バタバタと美知が走ってゆくと、もう私はパニックでした。
 余詩子は私の背中にまわり、私の腕を両側からつかんで逃げられないようにしていました。
「離して下さい」
 私は虚しく叫びました。

 その時、足音が近づいてきました。男子たちの興味本位の顔を想像した私は、最後の抵抗を試みてやはり身動きできないとわかると、観念して俯きました。
 勢いよくドアが開き、次の瞬間、ジョーさんの声が響きました。
「こら倉桐余詩子、那絵をすぐ離せ!」
 余詩子はびっくりして私を離し、私は個室に駆け込み、水を流しながら用を足しました。
 その時、ビシッとすごい音が外で響きました。
「痛~いっ、訴えてやる」
「はっきり言っておく、那絵は俺の女だ!
 二度とこんな真似してみろ、お前をぶっ殺すからな!」
 私はジョーさんに「俺の女」なんて言われてどぎまぎしました。
 余詩子が去ってゆく足音がしました。
 ジョーさんの声が響きます。
「那絵、大丈夫か?」
 私は「うん」と短く答えました。
「よかった」
「ジョーさん、ありがと」
 ジョーさんはそれに答える前に去って行きました。

 4

 その翌日、ジョーさんは図書館のバルコニーで私に言いました。
「もし、お前が懲らしめてほしいて奴がいたら教えろ」
「そんなの、一杯いすぎてわかんないです」
「一番、ヤなやつは?」
「今は余詩子かな」
「そうか、俺があいつ殺してやるよ」
「ほんとに?
 でも、そんなことしたらジョーさんが警察に捕まっちゃう、やだよ」
「なあに、ほんの五年から八年で社会に復帰だろ。
 ちょろいから」
「うふふ、じゃあお願いします」
 私が言うと、ジョーさんはうなづきました。
「よっし」
 もちろん、復讐殺人の約束なんて冗談に決まってました。ジョーさんはそんな馬鹿げたことは実行しませんでした。

 その年のクリスマスは私にとって夢のようなクリスマスでした。
 去年のイブ、中学のイジメっ子たちに「食べてみろ」とハートのケースに入った泥を押しつけられ「ナエはこの世で一番クリスマスに必要ない人間だ」と言われてたのが嘘のようです。
 イブの日、ジョーさんに呼び出された私は手を引っ張られてデートに出かけました。
 私はイジメっ子に出くわすのが少し怖かったけど、ジョーさんがエスコートしてくれてるんだから怖がる必要は何もないんだと言い聞かせました。
 イタリアンレストランで彼はパスタ、私はリゾットで食事しました。
「俺、あんまりプレゼントしたことないんだよね。
 これって見えるものが常に違って面白いかなって思ったんだけど、どうかな?」
 そう言ってジョーさんのプレゼントを開けると万華鏡が出てきました。
 私はジョーさんにマフラーをプレゼントしました。
 それからジョーさんは私を好きだって言ってくれて、素敵なキスをくれました。
 ジョーさんのお部屋に行って、ソフアでジョーさんの胸に頬をつけて、DVDの映画を観ました。
「怖いんです、こんなに幸せなのが怖いんです」
 私は余計なことだとわかっていたけど、黙ってられなくてそう言いました。
「大丈夫だよ」
 ジョーさんはそう言って私を抱いてくれました。
 

 その後の高校生活は充実したものでした。
 私とジョーさんはいろんな面で成長できたのだと思います。
 もちろんそれまでイジメで縮こまっていた分、成長の幅は私の方がはるかに大きかった筈です。

 卒業すると、私は短大に進み、ジョーさんはアメリカの大学に進むことになりました。
 空港のロビーでジョーさんの目は希望に輝いていました。
「じゃあ、しばらく離れ離れだけど、元気でな」
「うん、ジョーさんも」
「お前、いつまでたっても俺のことサンづけだな」
「だって、ジョーさんて響きが心地よいんだもの」
 ジョーさんは私の唇に素早くキスすると、笑いながら手を振って去って行きました。

 §


 この世で一番悲しい知らせは、エアメールで、唐突にやってきた。
 joya tanashiro は東部標準時9時10分頃14日7月にラコーダ湖に車ごと転落して死亡した。彼の、万が一の場合の依頼により、ここにあなたに通知すると共に…

 やっぱり、あの時、と私は思った。
 時差を調べてみると、万華鏡の青い菱形の中にジョーさんの顔を見つけた、まさにその時刻に、彼は死んだのだ。
 私は思ったほど泣かなかった。予感していた分、気持ちの準備が出来ていたせいかもしれない。手紙の英文じゃ、死という実感が湧かなかったせいかもしれない。
 でもそれほど泣かなかったからといって私の喪失感が少なかったという訳にはいかない。
 立ち直れるのか自信はなかった。
 ただ、私は昔のようなイジメられる時代は既に卒業していた。


 §


 ジョーさんが死んで2年が過ぎようとしていた。

 私は万華鏡の胴体の端の部分にカッターで切れ込みを入れていった。
 万華鏡の中には大きめのビーズがたくさん入っているが、いつもひとまわり大い緑色の四角い紙が混ざっていて、それが模様を少し邪魔していた。
 ようやく思い立って、それを取り除くことにしたのだ。
 胴体は薄いとはいえプラスチック製だったのでかなり力が要った。
 カッターが胴体を一周すると、端は蓋のように外れて、中からビーズが溢れた。
 そして緑の四角い紙を取り出した私は、おやと気付いた。
 中に収まっていた時は気付かなかったが、緑の四角い紙はセロテープで閉じられている。
 私はカッターで紙を開いてみた。
 すると、そこには『緑町南公園 西ベンチ 左端外30センチ深さ15センチ』と小さく書かれてあった。
 私は顔をほころばせた。
 これは、ジョーさんの秘密のプレゼントだったんだ。
 もっと早く気付けばよかった。

 私は園芸用の小さなシャベルを持って緑町南公園に急いだ。

 幸い、公園には鉄棒のところに小学生が数人いるだけで、大人に注意される心配はなかった。私は微笑みながらベンチの外側30センチをシャベルで掘り起こした。
 やがてシャベルが金属にあたった。
 すぐロゴマークが現れ、クッキーの四角い缶とわかる。
 私は穴を広げて、クッキーの金属缶を掘り出しベンチに乗せた。
 わりと重さがある。
 私は缶の砂をきれいに払い、外周のビニールテープを丹念に剥がして、そっと蓋を開けた。
 本体を包んでいる灰色の布を広げると、そこには黒光りする鉄の塊と紙の小箱があった。
「エッ…!」
 私の全身に鳥肌が立った。
 中指より長い銃身、それだけ切り取ったら飾りのような引き鉄、流れるような曲線のグリップ。美しいフォルムとは裏腹に、全てが禍々しい凶器、拳銃。
 小箱の蓋ははねていて金色の銃弾の先端が覗いている。
 私は高校時代、図書館のバルコニーでジョーさんが語った言葉を思い出した。
 ――俺があいつ殺してやるよ
 私をイジメる者に対するジョーさんの怒りが本気であったことを初めて思い知る。
 私は思わず口にした。
「ジョーさんて、」
 そして私がうかつにも「お願いします」と答えたにもかかわらず、怒りにたぎりながらも実際にはこれを使わなかったジョーさんの思慮の深さに感じ入った。
 やっぱり、あなたは、私の最高のヒーローだ。
 私はひとり呟いて、しばらく涙をこぼし続けた。           了


 
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   1

 木曜の午後3時すぎ。
 大学キャンパスの正門の内側、ちょっとした広場の脇の花壇の前でめぐみ、美由紀、祥子は、彼が通りかかるのを待っていた。
 講義の終わった学生たちがグループ、あるいは単独で三々五々歩いてゆく。
「来たー」
 祥子が声を上げ指差す方向に、雑踏の中を、ひとりの白髪が少しまじりグレーの髪の中年男がなぜか白衣で自転車をこいでゆっくり走ってくるのが見えた。
 三人の女子大生は急いで手を振った。
「教授ーっ」
「天野教授ーっ」
 すると自転車の男は方向を修正し、三人の目の前にやってきて止まった。
「そんな、かまびすしい声をあげて、どうしたんです?」
 天野教授の問いかけに美由紀が言う。
「教授、あの、土曜日のお昼とか暇ですよね」
「土曜は庭の手入れをしますが」
「ちょっとなら、私たち、伺ってもいいですよね」
「あなたたち、突然、何なんですか?」
 天野教授は口髭をすっと撫でる癖をだして、三人を眺めた。
「そ、その、つまりですね、教授に、お料理を作ってあげたいななんて」
 そう言ってしまった美由紀の足を、隣のめぐみが踏んづけた。そして、小声で(できないこと言うなってば)と叱りつける。
 天野教授は言う。
「うちはお手伝いさんがいるので間に合ってます」
「そ、そうなんですか」
「それに、悪いけど土曜日はのんびりすごしたいんだ」
「そうですか」
 美由紀はがっかり肩を落とした。
 そして天野教授はペダルを踏みかけてたが、思いついたように振り向いた。
「ところで、何を作ってくれるつもりだったのかな?」
 すると美由紀は嬉しそうに言う。
「あの、ケーキです!
 正直、普通の料理はいまいちですけど、ケーキ作りには自信ありますから」
「ふうん、どんなケーキ?」
「そうですね……。
 もちもちふわふわの紅茶シフォンケーキはいかがですか。
 それで中に果物のキュービックスライスを混ぜて、うん、そう、煮リンゴの甘さとキウイの酸っぱさを同時に楽しめるぜいたくシフォンケーキ」
 美由紀のその言葉に、ごくりと唾を飲み込む音が、四人分した。
 天野教授は照れ笑いを浮かべながら、
「それではですね、さっきも言ったように、庭の手入れもあるから、来るのは午後からにしてください……」
 そう言って自宅の場所を教えると、颯爽と走り去った。
 
  2

 土曜日、めぐみ、美由紀、祥子は揃って、住宅街にある天野教授の家に向かった。
「美由紀、ケーキ、ちゃんと作れるの?」
 めぐみが心配して言うと、美由紀は材料の入った大きなバッグを抱いて、
「任せといてよ」
 と言った。
「まあね、そもそも天野教授に憧れる美由紀の言い出したことなんだから、失敗しても美由紀が失点するだけだから」
 祥子はツッコミを入れるが、美由紀は相手にもせず言う。
「それより、教授、奥さんがいないって噂、本当そうだよね?」
「うん、いたら、お手伝い雇わないよ」
「もしかしたら、奥さんいるけど、すごく料理とか下手で、雇ってるのかもよ」
 美由紀は「エー、ホントー」と声を上げて、
「そしたら、私にも勝ち目があるじゃない」
 美由紀のボケに、めぐみと祥子はたじたじと、
「キミ、そこに賭けるかね」
「普通、そういう風には考えないぞ」
 と笑った。

 やがてメモした番地に到着すると、天野教授の家は、木塀に囲まれた、かなり年数の経た木造洋風の平屋だった。開け放たれている門を入ると庭には常緑樹が二本、葉を広げて、その下に小さな花をつけた低木が並び、地面は芝生になっている。
 めぐみと祥子は「ちょっと古すぎない」とけちをつけるが、美由紀は、
「わー、ロマンチックだわあ」
 と、かなり気に入ったようだ。
 建物は窓枠やドアの枠が薄い空色系で、壁などはクリーム色系らしいのだが、かなり年数が経っているので、全体に灰色がかってくすんだ色だ。

 玄関の呼び鈴の古風な丸いボタンを鳴らすと、ドアにはめられた小さなガラスの向こうで人影が動き、女性の声がした。
「どちらさまでしょう?」
「こんにちは、今日、天野教授にお会いする約束してた大学生です」
 ドアが開いて、エプロンをした、背の低い50代の女性がにこやかに迎え入れた。
「旦那様がお待ちしてましたよ」
「おじゃまします」
 三人はそれぞれ名乗って、お手伝いさんに案内されて家の中に入った。

 玄関を入ったところは大きめのホールという感じで、壁際に腰ぐらいの高さの棚が並んでいる。奥へ進みながら、棚の中に目をやると、まず大判の書籍がかなりの量並び、続いて珍しい陶器や、古い時計、木彫りの人形や、仏教の曼荼羅図、筆記具、ガラス細工、勾玉、銅鐸、銅矛と博物的な物が飾ってある。
 つきあたりを右に曲がると、ホールからL字型につながる応接間のようになっていて、ソフアから天野教授が立ち上がったところだ。
「やあ、いらっしゃい」
「こんにちは」
「紹介しときます、不精者の僕のために、日曜日以外、家事をしてくれてる鷹原孝子さんです」
「鷹原です、よろしく」
「よろしくお願いします、今日、ケーキを作るので、鷹原さんもよかったら食べてください」
「あら、いいんですか?
 じゃあお言葉に甘えさせていただこうかしら」
「どうぞ、どうぞ、作るのはこの美由紀ですけど」
 祥子に手を上げさせられた美由紀は鷹原さんは眼中になく、
「でも、教授のお宅って素敵ですね、瀟洒な洋館の外観も趣きあるし、そこの棚にあったコレクションも素敵で。
 私、憧れてたんです、こういうおうち」
「そうですか、自分が旅行先で買ったり、知り合いに買ってもらったりして集めたものですが、コレクションなんて言うのはおこがましいガラクタばかりですよ」
「ところで、先生、奥さんはいらっしゃらないんですか?」
 めぐみが慌てて足を踏んだが遅かった。
 めぐみは頭の中で(そういうことはタイミング見て聞けと言っただろう、その前にお手伝いさんにでもこっそり聞いて情報仕入れて、なるべく人のいないところで聞けと、そうすれば詳しく聞けると教えたのに)とあきれる。
 天野教授はあっさりと、
「いますよ」
「えっ!」
 声を上げる美由紀の顔から一瞬で血の気が引いたように見えた。
 天野教授は微笑を浮かべ右手を胸に当てて、
「今も、ここにね。
 とても優しい妻でしたよ。
 毎日、掃除が終わると、そこにかけて、庭を眺めてにこにこしていました。
 結婚して八年後、妻のからだは血液の病気で亡くなったのです」
 みんな、しんみりと聞き入った。
「しかし、妻の心は今もここでつながっているように思っているんです」
 美由紀は頬を濡らした涙を拭うと、精一杯トーンを上げて言った。
「今日は、私、先生のためにうんと美味しいケーキを焼きますから」

 シフォンケーキは素晴らしい出来で焼き上がった。
 みんなで、ケーキを心ゆくまで味わった。
「こんなに美味しいのは初めてですよ」と鷹原さん。
「ほんとにしっとりふわふわ、美味しいね」
 めぐみが言うと、教授が続ける。
「私もケーキにはうるさいんですが、これは店を出せるぐらい美味ですね」
「きゃあ、教授に褒められた」
 美由紀はおおげさに喜ぶ。
「私も焼いたことあるからわかるけど、シフォンケーキはこういう果物を混ぜると、焼き加減がすごく難しくなるんですよ。
 美由紀、よくこんなに上手に焼けたね?」
 祥子が言うと、美由紀は満足そうに、
「えへへ、私と、教授のキッチンのオーブンの相性がよかったんだと思います。
 日曜日に鷹原さんがお休みなら、私が……」
 美由紀がまたもや暴走かとめぐみが心配したその時、美由紀の携帯が鳴った。
 さすがの美由紀も携帯の着信にはすぐ出た。
(はい、はい、そうです……。
 え、妹です……、そんな)
 美由紀は真っ蒼な顔をして、
「どうしよ?お兄ちゃんが交通事故で運び込まれたの!」
 パニック寸前で叫ぶと、教授が大きな声で言う。
「今すぐ行こう!」
(はい、今すぐ行きます、場所は?川崎市宮前、聖マリア医科病院、わかりました)
 鷹原を残して、教授と三人の女子大生は外に出てタクシーを止めた。
 
  3

 病院にたどり着き、名前を告げると、美由紀の兄達也はまだ集中治療室にいるという。

 そこで集中治療室にゆくと、その手前まで緑の手術着の医師が出てきて、容態を告げる。
「なんと説明したらいいか難しいのですが、お兄さんの怪我は胸を強く打ったものですが、内臓の損傷はなく、それほど深刻ではないんです」
「じゃあ、大丈夫なんですね?」
 美由紀がホッとして聞くのを、医師は手でさえぎる。
「それがですね、体の損傷は胸部の打撲、肋骨の骨折程度で、たいしたことがないにも拘らず、意識レベルは昏睡で、大変危険な状態なんです。
 頭部のMRIもMRAも詳細に確認したんですが、頭部にダメージは見つからないのです。
 こういうケースは非常に稀なので、今は厳重に容態を監視しています」
 要は訳がわからないので様子を見ているということらしい。
「じゃあ、どうなるんですか?」
「今の時点では、快方に向かうか、そうでないかも半々としか言えないんです」
 医師が言うと、美由紀は「イヤア」と床に膝をついて医師の足をつかんで喚いた。
「助けてください、お願いします、助けてください」
 そう言って泣き出した。
 そこで天野教授が医師に尋ねた。
「それでどんな事故だったんでしょうか?」
「交通事故です、お兄さんは助手席だそうで。
 運転してた友人は胸と膝に大きな怪我をしましたが、こちらは安定してます」
「ではその人もこの病院にいるんですか?」
「はい、集中治療室の中ですが、今は麻酔で眠っています」
「もう少し詳しい事故の内容が知りたいのですが?」
「私たちには詳しい情報はありませんので、消防に聞いてください」
「もう一度、確認しますが、ダメージはないのに意識は昏睡ですね」
「はい、論理的にはありえませんが」
「ありがとう」
 天野教授は美由紀を引っ張り立ち上がらせると、めぐみと祥子に言った。
「では、めぐみさんと祥子さんは、まず消防に連絡して、どこの警察署が事故を担当したか聞き出して下さい。
 それがわかったら、警察署に行って事故の詳しい状況を聞いてきてください。
 その際、自分が妹の美由紀だと言った方が話が通りやすい、美由紀さんの学生証を持って行きなさい、わかりましたね。
 私はここで待って運転してた人に話を聞けないか確かめます」
「わかりました」
 めぐみと祥子は、美由紀から学生証を借りて、電話をしに駆け出した。

 すっかり夜になったが、運転していた兄の友人が麻酔から醒める気配はなかった。また美由紀の兄の意識もまったく変化ない。
 天野教授と美由紀は駆けつけた美由紀の両親とともに廊下の長椅子にかけていた。
「先生、すみません、娘ばかりか息子の心配までしていただいて」
 両親はただ虚しく過ぎる時間に耐えながら、時々、そんな言葉を繰り返していた。
「いや、そんなこと考えなくていいですよ。
 それより、美由紀さんのお兄さんが早く回復するように祈りましょう」
 天野教授はそう言ったが、しばらくして美由紀に「ちょっと」と言って廊下を歩き出した。

 美由紀は後を追いかけて小さい声で尋ねる。
「どうしたんですか?」
「ええ、お兄さんの居場所について考えてみました」 
 そう言われて美由紀は首を傾げた。
「居場所って集中治療室以外なんですか?」
「わかりません。しかし、体にダメージがないのに、意識が昏睡という場合、素直に考えたら、それはお兄さんの意識に、どういうことが起こっていると想像できるかな?」
「はあ、体はダメージない、意識は昏睡」
 美由紀は考え込んだ。
 天野教授は携帯を取り出して眺めた。病院なのだから、本来、電源を落とすべきだが、今はめぐみたちからの連絡を待つため、電源を落とすわけにはいかない。
 と、突然、美由紀が「教授」と声を上げた。
「もしかして兄は幽体離脱ですか?」
「うむ、幽体離脱した可能性がある」
 美由紀は体が震えるのを感じた。

 その時、教授の携帯にめぐみから電話が入った。
(どうかな?)
(ええ、わかりました、事故は速度の出すぎていた乗用車がブレーキをかけ、スピードが落ちたところで道路わきの立ち木に激突です)
(それで事故の起きた住所を正確にメールしてくれるかい?)
(わかりました)
(ああ、あと今現在車がどこにあるか警察で聞いてみてくれないかな?)
(わかりました)
 携帯を切った天野教授は美由紀に言う。
「さあ、お兄さんの'中身'を探しにゆくよ。
 まず、ご両親にうまく口実を話して抜け出すんだ」

  4

 事故現場は二車線の街道がゆるく右にカーブしていて、左手は山になっている。そしてガードレールがない。
 天野教授と美由紀はコンビニで調達した電灯で道の左側を照らして、立ち木の幹が生々しく抉られているところを見つけた。
 どうやら、ここに追突したようだ。

 そこへタクシーが一台止まった。
「お待たせしました」
 降りて来たのは美由紀もひよりのお別れ会で会った天野教授の研究助手柴崎智美である。
「急に呼びたててすまないね」
「ここですか?」
「うん、この木にぶつかって車が大破したらしい。
 だから木自体には触れてないだろう」
「難しそうですが、やってみます」
 智美はそう言うと立ち木の手前で白い手袋を外した。
 智美は集中すると、その場の空間にある記憶を読もうとする。
「どこが痛む?
 名前は言える?
 今、出してあげるからがんばって。
 チクショー、まだローンがあるのにオシャカかよ。
 ちょっとスピード落としてればよかった」
 天野教授は智美に指示を出す。
「智美君、彼は助手席だから、もう少し左だ」
 智美は黙って一歩左に寄った。
「あれ、どうしたんだ?
 事故が起きたのか?
 ちょ、ちょっと、何だよ!
 そこに見えるのは僕の背中?
 どういうこと?
 あ、まだ引っ張り出さないで本当の僕は車の屋根に引っかかってるんだよ!
 それは僕の体だけだって、僕が今、戻るから動かすなよ!
 聞こえないの!
 聞こえないのか!
 まずい、まずいよ!
 勝手に連れてゆくなよ!
 本当の僕はここだよ!
 おーい、止まれ!
 本当の僕も連れて行けよ!
 おーい、止まれってんだ、このお!
 おーい、止まれ、止まれーっ!
 戻って来い、戻って来いよー!
 行っちまったよ……。
 そこのお巡りさん、僕はここだ、ここだって!
 僕はここだ、ここだって!
 ふざけるなよ、僕を助けて!
 僕はここだ、僕を助けて!
 僕はここだ、僕を助けて!
 僕はここだって、行かないで!
 レッカー車か、どこへ行くつもりだよ!
 教授、ここでエスティンギッシュ」
 天野教授はうなづいた。
「うん、じゃ、そこまで。
 美由紀さん、めぐみさんに電話して、レッカー会社の追跡はどうなってるか、聞いてみてくれるかい?」
 言われて美由紀は携帯を開く。
(もしもし、あ、めぐ、私、)
(美由紀、ちょうどよかった、今、電話しようと思ったの)
(うん)
(車はもうレッカー会社にはなくて、自動車処理工場にまわされたみたいなの)
(そうなの、で、場所は)
 美由紀は携帯を閉じると、天野教授に言う。
「車は川崎の自動車処理工場だそうです」
「詳しい住所は?」
「聞きました」
「よし、急ごう」


 教授と女子大生と智美はそれぞれ手に電灯を持って、自動車処理工場の敷地に入った。
 広場に、たくさんの車が5台ぐらいずつ無造作に積み上げられて、それが列をなしている。
「車の種類は?」
「青いカローラです」
「一番最近だからおそらく端っこの方だろう」
「教授、兄はもうぺしゃんこにされたんじゃ?」
 美由紀は高さ30センチぐらいになってる車たちを見て尋ねた。
「大丈夫、こっちのお兄さんは物質じゃないから、車が潰されてもお兄さんが潰される心配はいらないんだよ」
 天野教授の言葉に美由紀は「わかりました」とうなづいた。
 端から調べると、まもなくニ台積み上げられた上の車が、青いカローラだった。
 ボンネットの真ん中が大きくへこんでいる。
「智美さん、お願いします」
 智美は白い手袋を外すと肩の高さにある助手席のドアの中に手を入れた。
 そして集中すると、天野教授が尋ねる。
「智美君、どうだい、そこにいそうか?」
「いいえ、ここには幽体特有の濃密な記憶束はありません」
 やがて智美は引き出した記憶を語りだす。
「おい、こんなところに置きっぱなしにしないでくれ!
 どういうつもりだ!
 僕は助手席の屋根にまだどこかが引っかかってるんだ!
 おい、行かないでくれ!
 どうしたらいいんだよ、誰も気付かない!
 このままじゃあっちの体だって困るし、こっちの俺だって困る。
 なんか手はないのかよ!
 参ったな、どうしようもないのか!」
「お兄ちゃん!」
 思わず美由紀が言うと、智美も言葉を止めた。
 しかし、沈黙が広がるばかりだ。
「美由紀さん、ためしにもう一度呼びかけてみて」
「はい、お兄ちゃん、いるなら返事して」
 そこで天野教授が注意を付け加える。
「あなたの体は川崎市宮前の聖マリア医科病院だって教えてあげるんだ、自分の体がそこにあると意識すれば飛んでゆけるはずなんだ」
「お兄ちゃん、いたら聞いて、お兄ちゃんの体は今、川崎市宮前の聖マリア医科病院の集中治療室よ。わかった?」
 美由紀が言ったが返事というか、反応はない。
「もういないのかもしれないね」
「お兄ちゃんはどうなるんです」
「おそらく、今はパニック状態で考えることができないんだろう。体が元気なうちに帰ればいいんだから、それほど焦らなくてもとは思うが……。
 もう少しまわりを探してみようか」
 天野教授が言うと、みんなはそこから移動しだした。
 めぐみと祥子は美由紀の腕をつかんで励ました。
「大丈夫よ、きっと教授が見つけてくれるわ」
「そうよ、智美さんのすごい能力知ってるでしょ」
 そう言ったとたんに前方を歩いていた智美が突然、派手に転んだ。

「痛ーっ、教授、今、私、幽体特有の記憶束に足がひっかかりました!」
「え、そこにいるのか?」
「そうみたいです。
 この辺に!」
 智美は地面の上、十五センチぐらいをさするようにする。
「しかし、反応が弱いです」
「やだ、まさか死にそうなの」と美由紀は心配する。
「いえ、幽体に死はないの、たぶん寝てるんだわ。
 寝てる幽体なんて、こんなの初めて」
 天野教授が言う。
「美由紀さん、呼びかけて」
「お兄ちゃん、こんな地面で寝てないで、起きて、早く起きてよ。
 起きろーっ!起きろーっ!起きろーっ!」
 とたんに智美が顔をそむけた。
「あ、起きた、美由紀さんの記憶が溢れてきた。
 ごめんなさい、実体の記憶は強すぎる」
 智美は慌てて手袋をはめた。

 美由紀は大声で言ってやる。
「お兄ちゃんの体は今、川崎市宮前の聖マリア医科病院の集中治療室よ。
 意識を自分の体に集中すると飛んで行けるのよ、わかった?」

 次の瞬間、空に向かって「ワッ」と小さな男性の声が響いた。

「はっきりしないが、戻ったような気がするね。
 病院へ戻ってみようか」
 天野教授が言うとみんなが歩き出した。
 しかし、誰もが首を傾げていた、ただ一人兄の回復を確信した美由紀以外は。 《了》


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gingak
  • Author: gingak
  • 銀河 径一郎
    (ケイイチロー・ギンガ)
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    飛べなくても頭が悪くても
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