銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

     2 第二木曜日

 どういう風の吹き回しだろう。準一から誘わなければ来ることのない伸吾が、夜11時すぎにやってきた。
「どうしたんだよ?」
「いや、たまたま近くで、演劇見せられてさ、その帰り。」
「お前、演劇なんて興味あった?」
「だから見せられてって、言ったじゃん、職場の同僚が頼み込まれて、チケット買わされたんだ。それに付き合わされた。」
「そう。それはお疲れ様。」
「とりあえず差し入れ。」
 準一は、伸吾から受け取った缶ビールとつまみのスナックをテーブルに広げて、しばらく一緒にスポーツニュースを観た。

 テレビがCMに入ったところで、不意に伸吾が聞いた
「最近、奈緒美は来た?」
 なんかさりげなく聞こうという雰囲気があからさまで少しもさりげなくないなと感じながら、準一は答える。
「ああ、日曜の午後に来たよ。」
 準一は、伸吾が奈緒美に惚れているなら、あまり詳しいことは言わない方がいいと思い、それだけ答えた。
「そう。」
 伸吾はうなづくと、会社の後輩のやらかした失敗談をひとしきり披露した。
 
 スポーツニュースが終わったところで、準一はラヂオを思い出した。
「そういえば、先週、ラヂオで老人の話聞いたの覚えてる?」
「ああ、鈴木老人ね。」
「今日は二週目だよ。」
 準一はラヂオのプラグを入れると、スピーカーから流れる音楽に耳を傾けた。

 クラシックの曲が終わると、仰々しい音楽が流れて、アナウンサーが『わが人生』とぶちあげる。
『今週は先週に引き続き、太平洋戦争で艦上爆撃機に搭乗されていた鈴木久仁彦さんのお話を伺います。鈴木さん、今週もよろしくお願いいたします。』
『はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします。』
『前回は、ご友人の下宿先のお嬢さんに、ご友人と鈴木さんとが示し合わせて恋を告白して、お嬢さんから二人に考えさせてくれと答えがあったところまででした。』
『はい、そうして一年、二年と過ぎても、私にも水谷にも進展はなかったのでした。
 そうするうちに、国の行く末には暗雲が立ち込めました。国家総動員法が成立し、東京オリンピックの中止が決定され、アメリカが日米通商航海条約廃棄を打ち出し、もはや日本は戦争の坂を転がり始めたのです。』
『昭和十三年、十四年頃ですね。』
『そうなります。私は学校を出たら役人にでもなるつもりでいましたが、水谷は風変わりなやつでして、万民に空の散歩を楽しませる遊覧飛行の会社を興したい。ついてはお前も一緒に手伝わんか、役人よりずっといい給料になるぞ、と誘うのです。』
『面白い方ですね。それで手伝おうと答えたのですか?』
『いいえ。そりゃあ、遊覧飛行じたいは面白かろうと思いましたが、あなた、広島市民みんなつかまえて、遊覧飛行しないかと誘ったとして、乗りたいと答えるのは数人の物好きでしょう。私はそんな商売が成り立つのか疑問だったのです。』
『そうですか。それでお嬢さんはどうされてましたか?』
『お嬢さんは、色めいたということはありませんが、物言いや態度に大人びた落ち着きが出て、いよいよ美しく見えました。
 自分は抜け駆けしたい気持ちになりました。
 と言いますか、水谷は毎朝、毎晩、お嬢さんとひとつの食卓で食事できるのです。
 そのように私より有利な立場を利用して、お嬢さんと親密に交際しているのではないかと疑う心が起こって、嫉妬が起こったのです。
 そこで自分はお嬢さんと二人きりで話す機会を持とうと計画しました。
 お嬢さんは既に女学校を卒業して、家事手伝いに入っていました。お嬢さんの母親は週一度生け花の師範のところへ出かけるのが常でした。
 自分はその時を狙って、訪問しました。そしてお嬢さんに向かって切ない胸の内を伝え、そろそろ答えがほしいのだと告げました。』
『ほお、お嬢さんはどう答えましたか?』
『赤くなって「もう少し待ってください」と。
 それから「母の留守に来ないでください」と言われました。自分は「水谷と比べてお嬢さんと顔を合わす機会が少なくて不利だから、つい訪問したのだ。悪く思わないでほしい。」と弁解しました。
 そしてある夕方、水谷の部屋でお嬢さんを交え三人で談笑していた時のこと、ふと水谷が手洗いに立ちました。その間にお嬢さんから「明日の午後四時、あの神社でお返事します」と言われたのです。』
『いよいよですね。』
『翌日、自分は胸を動悸で震わせながら神社に行きました。
 秋の長雨が止まった霞んだ空と、濡れて染まった焦げ茶の大地の境に欅の樹があり、そのたもとに萌黄色の着物姿がありました。お針子の帰りなのでしょうか、道具箱を抱いてうつむいたお嬢さんに、私は手を振って近づきました。
 自分の足音に気付くと、お嬢さんは黙って会釈をよこします。
「やあ、遅くなりました。ちょっと学校で友人が喋りかけてくるものだから、なかなか抜けられなくて……。」
 まだこちらが言い終わらぬのに、お嬢さんが声を重ねてきて、
「鈴木さん、ごめんなさい。私は鈴木さんのお気持ちに添えません。お許し下さい。」
 さっと頭を深くおろされました。
「……。」
 一瞬、息が詰まりましたが、すぐ溜め息を言葉にしました。
「ああ、嫌われましたか、そうですか。」
「そんな、嫌いだなんて、ただ深いご縁が感じられなかっただけで、鈴木さんご自身はとても立派な方だということは誰よりも知ってますもの。立派過ぎて私なんかには向かないだけなのです。堪忍してください。」
 お嬢さんは、みるみる涙を溢れさせ、こぼれるままに自分を見つめるので、こちらはなんとか言葉尻をとらえて食い下がろうという気持ちも萎えて、
「では、水谷のことは気に入ってくれたんでしょうね?もし奴も嫌だと言うのなら、許しませんよ。」
 呆然とした大根役者の棒読みのように言うのが精一杯でした。
 すると、お嬢さんは小さな声で「はい」と答えて、急に染まった顔を隠すように押さえたのです。
 自分は悔しさに染まった胸でなんとか息つきながら、その場から走り去ったのでした。』
『そうでしたか。それはお辛いことでしたね。』
『はい。自分は水谷を祝福する一方で、もうそれ以上、高校に残り下宿するのも辛かったので、高校をやめて海軍兵学校に入ることにこっそり決めて、電撃的に実行したのです。そして海軍兵学校で航空兵に志願しました。』
『なるほど、いよいよパイロットになるわけですね。』
『しかし、どうして航空兵を志願したのかと聞かれるとうまく説明できませんでした。
 単に空を飛んでみたかったような気もしますし、心の中で遊覧飛行の会社を作ると言っていた水谷に先んじたいという対抗意識があったかもしれません。』
『そうでしたか、それで開戦で戦争に行かれたわけですね?』
『いえ、開戦には少し間に合わず、十七年になってからインド洋に展開する九七式艦上攻撃機の要員として派遣されたのです。
 ところが、そこでとんでもないやつに出会いました。』
『とんでもないやつと言いますと?』
『水谷です。
 あいつときたら、いつのまにか航空隊に入って、零式戦闘機、俗に言うゼロ戦のパイロットになってやがるんです。私は殴りかからんばかりの勢いでやつの胸ぐらを掴んで問い詰めました。
「貴様、いったい何を考えとるんじゃ。お嬢さんと祝言を挙げておいて、こんな危ないところに来おって」と。
 すると水谷は落ち着きはらって、
「うむ、遊覧飛行の会社のためだ。わが社専属パイロットのお前が休みを取ることもあるだろう。そういう時のために俺も飛行機の操縦を覚えておこうと思ってな。民間の学校じゃ月謝もかかるが、海軍はタダで教えてくれるというから喜んで入ったんだ。」
「ふざけるな、貴様、今すぐ戻れ!」
「アホこけ、今、戻ったら敵前逃亡で軍法会議だ。それより芙美子がお前のことを案じていたぞ。もし会ったらご武運を祈ってますと伝えてくれと言ってな。」
 そして水谷はお嬢さんからの手紙を見せてくれたのです。
 そこには確かに、もし、鈴木さんに会ったら、毎日、ご武運をお祈りしておりますと伝えてくれと、流れるような筆使いで書いてありました。私はそれだけで殺伐と乾ききった心に大きな潤いを得た心地で水谷を怒る勢いも失せてしまいそうでした。』
『ほお、劇的な再会ですねえ。』
『ええ、やつは頭の回転も運動神経も抜群でしたから零式戦闘機の要員に採用されたんでしょうが、それにしても遊覧飛行のためなどという理由で航空士官になどなってほしくなかった。徴兵を逃げまわってでも、お嬢さんと一緒にいてほしかったです。』
『しかし、戦争の真っ只中ですよね。』
『はい。インド洋ではポートダーウィン、コロンボと我が部隊は戦果を挙げて、意気揚々でした。
 特に零式戦闘機の性能は敵イギリス軍の戦闘機を上回っており、危なげない勝利だったのです。
 我々の次の目標は、ツリンコマリという軍港でした。
 私は九七式艦上攻撃機に、水谷は零式戦闘機に乗って攻撃にかかりました。
 敵の戦闘機も待ち構えていたのですが、零式にかかると一方的に落とされていきます。 私は地上にある海軍の施設に狙いを定めて、爆弾を投下します。ここで説明しますと、九七式艦上攻撃機は二人乗りでして、前方で私が操縦し、後方で広瀬という爆撃手が爆弾投下か魚雷発射をするのです。

 私の機は予定通り施設に爆弾を投下し、帰途についたわけです。
 しかし、私らはいつの間にか僚機と離れていました。
 そこを手負いの獲物を狙うハイエナのような敵戦闘機に見つかってしまったのです。

「後方七時、敵機!」
 広瀬爆撃手が大声で叫ぶやいなや、トンネルの中でライトが延々と続く感じで、オレンジの色が宙にポツポツと現れてきます、これが敵の機関砲の銃弾でして、恐ろしく鮮やかに左主翼から機首をかすめました。
 目をまばたきして見ると、風防ガラスにヒビが入っております。さらに左腕がカーッと熱くて、飛行服が裂けて血がどくどくと流れているじゃありませんか。
「鈴木少尉、大丈夫ですか?」
「おお、かすり傷だ、心配すんな。」
 私はマフラーで腕を縛りつつ、ペダルを踏み、操縦桿を倒して、今さっき自分たちを追い越していった敵戦闘機から逃げようとします。
「また、追ってきます、後方四時。」
 今度は操縦桿を引いて、スロットル全開。
 なんとか上昇して今回もオレンジのポツポツは左後方によけることができました。
 しかし、こっちは爆弾や魚雷を積むための設計で、運動性能は劣っており、小さな機関銃はありましたが使える位置にまでまわりこめないのです。
 このままでは撃墜されるのも時間の問題かと思われた。
 自分はペダルを踏み、操縦桿をくねらせ、スロットルを操り、必死に逃げました。
 しかし、敵はいよいよわが機体を照準器に入れ、激鉄に指をかけているに違いありません。
「少尉、真後ろ!」
 叫んだ広瀬が続けて「おふくろ」と言うのが聞こえ、自分も「おふくろ」と呼びました。
 一瞬、目を閉じると、瞼の裏に現れたおふくろはにこやかな笑顔で……、続いて父と兄と妹の笑顔が浮かび、最後になんとお嬢さんの微笑む様子。
 ハッと目を開くと銃弾のオレンジがサアーッと、しかしこれは自分らの上方を前から後ろに向かう銃弾で、あれっとよく見ると前方から零式戦闘機が猛スピードで敵を退治に向かう様子です。
 まもなく敵を撃墜した零式戦闘機は旋回して自分の機に並びかけ、飛行帽の水谷が白い歯を見せて微笑みました。
 あっ、と自分は手を合わせたい心地、水谷が菩薩に見えました。
 自分は「ありがとう」と叫んで、主翼を振りました。
 水谷も主翼を振ると、「また、あとでな」と言い、翼をひるがえしてまだ戦闘が続く空へ引き返してゆきました。』
『大変なところでしたね、水谷さんのおかげで助かりましたね?』
『はい。それが自分らは先に母艦に戻って、水谷のやつを思い切り誉めちぎって、礼を百万回も言おうと待ち構えているのに、いつまでたっても水谷の機が帰ってこないのです。 私は隊長を見つけて駆け寄り、敬礼もそこそに、
「中佐、水谷のやつは?」
 隊長はうつむいて
「うむ、水谷は今日も三機撃墜と大成果を挙げおった。
 しかし、運悪く制御を失って落下してきた敵機と激突してな。
 惜しい男を失くしたよ。」
「そ、そんな」
 自分はそれでなくても失血でふらふらしていたので、その場に卒倒するように膝をつきました。』
『そうでしたか。水谷さんは戦死された。』
『ええ、ほんとに悔しくて、悔しくて、自分は真剣に替わってやりたいと思いました。
 お嬢さんをめぐっては嫉妬したこともありましたが、失ってみると、自分は水谷をかけがえのない親友として愛していたのだと気付きました。そして水谷に対して、あやまちのことをあやまりたい気持ちでいっぱいでした。』
『もっとお話を聞きたいところですが、本日の時間がきてしいました。鈴木さん、続きはまた来週にお願いいたします。』
『はい、お粗末さまでした。』
『それでは本日の「わが人生」はこの辺で、さようなら。』

 準一は缶ビールを飲み干しながら言った。
「俺たちは戦争のない世の中でよかったなあ。」
「うん、そうだな。」
「俺、前からゼロ戦てカッコイイと思ってたんだ。バイクとゼロ戦て似てるだろ?」
「そうかな。」
「いや、その動きの自由自在なところが似てるんだよ。当時、ゼロ戦の旋回性能は群を抜いていたんだ。あんまり追いつけないものだから、アメリカ軍はゼロ戦を追いかけるなと指示を出したらしい。」
「ふうん。詳しいな。」
「子供の頃から好きだったんだ。」
「でも、それで死んだらやだな。」
「そりゃそうだけど。」
「あの、ジュンさ、」
 急に伸吾は改まった口調で気を引いた。
「うん、何?」
「今の老人じゃないけど、打ち明けておくと、俺は奈緒美さんが好きなんだ。」
「え?」
 そう驚きながらも、想定内だから準一は冷静につけ加えた。
「そうだったのか。」
「ああ、すごく恋してる、愛してるんだ。」
 準一は、しかし、奈緒美は俺の女だと頭の中で宣言してみて、それを具体的に説明しようとした。
「でもな、実はな、俺さ」
 が、伸吾はそれを遮って言う。
「知っているよ、奈緒美を愛してるんだろう。知ってるんだ。何度も何度も寝てるんだろう、だけど、」
 準一は伸吾が泣き出すのではないかと感じた。伸吾は一気に吐き出した。
「だけど、俺も奈緒美と寝ているんだ。何度も、何度も……。」
 今度は準一の呼吸が止まりそうだった。
 頭の中で、伸吾の言葉がリフレインされて、響いている。あの奈緒美がこっそり伸吾と寝ていたなんて……。
 伸吾は少し口調のテンションを上げて、
「困っちゃうよな、こういうのって。
 でもさ、恋愛てのは、誰にも権利はあって、誰にも悪意はないんだ。俺はジュンのこと、親友だと思っているけど、そうなんだ。
 俺のことも、彼女のことも許してくれよ。」
「……アア。」
 準一がつぶやいたアアは肯定でも否定でもなく、なんと言ったらいいのかという言葉の
最初の母音と最後の母音のアアだ。
「いつから?」
 準一は自分が間抜けな亭主みたいだと思いながら聞いた。
「大学三年の終わりかな。
 実は絵美が田舎に帰ったのは、奈緒美の部屋で鍵をかけるの忘れてて、全てを目撃されたからなんだ。絵美は俺のこと好いてて、奈緒美のことも一番の相談相手だと思っていたから、ショックだったんだろう。
 でも、これは神に誓って言うけど、俺は絵美を抱いたことも、期待させたことも一度もなかったんだ。俺は他に好きな相手がいると打ち明けていたからね。ただ絵美もそれが奈緒美だとは思ってなかったんだろう。」
 伸吾の話は聞けば聞くほどショッキングな話だった。

 翌朝、二日酔いの準一はいつ伸吾が帰ったのか覚えてなかった。
(その3に続く)



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 画像を差し替えました。
 たぶんデーモン閣下に似てると言われました、なるほど(笑)
 メールは→ ginga@treasure-bird.com


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 高速道路でバイクにまたがり、四輪車の脇をすり抜けながら、アクセルをふかす。
 そんな時、自分も鳥のように自由に飛べるような予感が湧き起こる。
 地面を蹴って、翼をはばたき、空気の抵抗につかまって、ふわりと浮く。後はヒューと風を切って好きな方向に飛んでゆくんだ。家々の屋根が道路で仕切られたカラフルな田畑のように小さくなり、大きなビルの窓に太陽が反射して、こちらをまぶしそうにみつめている。車より速いスピードで走っている電車もゆっくりと這っているようだ。
 鳥になりたいって気持ちは誰でも少しはあるんじゃないかな。
 どうして、そういうことに憧れるんだろう。
 自由?うん、それは自由だな。しかし、俺は自由になったら何をしたいのか?
 そう問いかけると、答えはまだ空の彼方だ。


 1第一木曜日

 その晩、準一は大学時代からの親友小林伸吾を誘って飲んだ。
 居酒屋から始まって、焼き鳥や、おでん屋と渡り歩き、準一のアパートに辿り着いた時は真夜中をまわっていた。「俺、自分とこに帰るよ。」と言い出した伸吾を、サラリーマンになっても大学時代と同じノリで「いいじゃん、泊まってけよ、それとも帰らないと心配するような女がいるのかよ?」と迫る。
 準一が冷蔵庫から缶ビールと枝豆を取り出してくると、伸吾はチェストタンスの上にある、かなり時代めいたラジオを触っていた。
「なんだ、これ、古臭いなあ。」
「おう、すごいだろ、ラジオじゃなくて、ラヂオだぜ。」
「何?」
「ラジオは普通シに点々だろ、でもこいつは裏面の表示見たらチに点々で、しかもオヂラって読み方も逆なんだ。」
「へえー。」
 たぶん昭和初期ぐらいのものだろう。一見して目立つのは前面上部に半円がみっつ並んでいて、真ん中の半円が左右より高くなっている。サザエさんの頭をイメージしてもらうと似ている。ラヂオの幅は三十センチほどだから、今の技術からしたら無用にでかいラヂオだ。
「これで玉音放送とか聞いたんじゃないかな。」
「ギョクオンて?」
「ほら、太平洋戦争で天皇が国民に敗戦を知らせた放送だよ。」
「あ、あれね。どこから拾ってきたの?」
「駅の北にディスカウントの店、あんだろ。」
「あ、質屋みたいな、それでいてちょっとした新製品のディスカウントも並んでる店。」
 伸吾はそう言いながら、直径4センチほどのダイヤルをいじっていた。
 もっともダイヤルといっても、長い年月で目盛りが消えたのか、はたまた始めから目盛りをつける技術がなかったのか、何も目印がなかった。もうひとつつまみがあるがそれは明らかに空回りしているようだった。
「その店で液晶テレビのラックが目についたんで、入ったら、偶然隅っこに、そのラヂオがあってさ、古い映画の小道具みたいで面白いなあと思って買ってしまったんだ。」
「でも、ミスマッチだよ、色も、形も、大きさも完全に周囲から浮いてしまってる感じだよ。」
「いいんだよ、ミスマッチでも。なにしろこのラヂオ、すごいんだぜ。」
 準一は、子供が友達に秘密を自慢そうに打ち明けてやる時の気分を思い出していた。
「それな、ちゃんと放送が聴けるんだ。」
「へえー、こんなに古いのに?」
「ああ、ちょっと待ってろ。」
 準一は茶色いコードから伸びた丸いプラグをコンセントに差し込んだ。
 すると、サザエさんの頭部分のスリットの布張りからガガーガーと雑音が流れた。
 準一がダイヤルを微調整すると、音質はこもっているが、聞き覚えのあるクラシックの曲が流れた。
「へえー。」
「どうよ?感動した?」
「うん、でも考えてみれば、電波の原理は昔から変わりないんだから、聞こえても当然なんだろうけど……。」
「けど、感動的だろ?」
「うん。」
「じゃあ、感動のしるしに。」
 準一は伸吾と缶ビールで乾杯した。
「このラジオは、別な局は入らないの?」
「うん、ちょっとまわしてみなよ。」
 伸吾はのっぺらぼうのダイヤルを少しずつまわしてみたが、時々ピーとかガーとか雑音がするだけで、まともに聞き取ることはできない。あきらめて元に戻して、クラシックの曲に合わせた。
「どう、最近、バイクで遠出してる?」
 伸吾は壁に貼ってあった、準一が撮影した釧路湿原の写真を眺めて聞いた。
「いいや、近場ばかりだな。遠出する暇がないよ。」
「ふふ、社会人してるね。」
 ラヂオの曲が切り替わり、時代遅れの仰々しいテーマ音楽が流れた。
「すげえ曲だな、国営放送以外ではありえない。」
「まったく。」
 そこでアナウンサーが大上段に構えてタイトルを宣言した。
『わが人生』
 準一と伸吾は顔を見合わせて噴き出した。
「わがジンセイだって。」
「よくも恥ずかしげもなく、そんなタイトルつけるねえ。」
 準一たちにさんざんにけなされているとも知らず、アナウンサーは型通りの挨拶をよこす。

『今晩は。毎月、聞いてる方が驚くような方をお招きして、その方が送ってこられた興味深い人生について述べていただく、わが人生のお時間です。
 今回は太平洋戦争中、艦上爆撃機に操縦士として乗り込んでおられた鈴木久仁彦さんのお話を四週連続でうかがいます。
 鈴木さん、どうぞ、よろしくお願いいたします。』
 アナウンサーが振ると、ややしわがれた老人の声が答えた。
『はい、よろしくお願いします。』
 声の印象から白髪の薄くなった老人がお辞儀するシーンが思い浮かんだ。
『早速ですが、鈴木久仁彦さんがお生まれになられたのは何年ですか?』
『はい、自分は大正八年に、広島の阿渡町という、当時はまだ阿渡村と言ってましたが、そこで農家の次男として生まれました。』
『子供の頃はどんなお子さんでしたか?』
『自分は成績が良いわけでもなく、また悪くもない、元気だけが取り柄のありふれた子供でした。』
『その頃はどんな遊びをされてましたか?』
『やはり、日清、日露と戦争に勝ってしまった後ですから、男の子は兵隊ごっこが一番の遊びでして、広島は呉、江田島に海軍がありましたから、海軍ごっこをしてもよさそうなものですが、しかし、どういうわけか、ガキ大将ってやつは陸軍大将になりたがるものでして、当然のように、陸軍ごっこをしたわけです。』
『兵隊ごっこというのは階級なんかもつけるわけですよね。』
『ええ、それが肝心なところです。自分は伍長とか少尉とか、働きに応じてガキ大将に階級を上げられたり、下げられたりするわけです。』
『働きといいますと?』
『いや、たいしたことじゃありませんよ。畑から西瓜や梨をかっぱらってくるとか、駄菓子屋の婆さんをおびき出すとか、気に入らないやつを落とし穴でひとあわ吹かすとか。』
『ははは、昔の子供は結構、わんぱくだったんですよね。』
『はあ、そうですよ。昔は遊び道具なんてあまりありませんでしたが、その代わり今の子供らより遊んでたような気がして、今の子供らは可哀相です。』
『その後、学校はどうされました?』
『昭和十一年、田舎から広島市に出て、広島高校、今で言う大学の文科に進みました。』
『次第に雲行きのおかしくなりだした頃ですね。』
『ええ、しかし、アメリカとの戦争が始まるまでは、のんびりと言いますか、冷静に成行きを見守っていたように思います。』
『では学校生活は普通で?』
『はあ、普通です。今と比べたら男女共学ではないですから、むさくるしい学生時代だったかもしれません。』
『それでも、華やかな青春の思い出はおありでしょう?』
『いやあ。』
『恋の思い出もお話しいただく約束ですが。』
『はあ、全部、話すつもりがどうも恥ずかしくていけません。
 当時、私は広島市内の民家に下宿していまして、同級生に水谷章という親友がおりまして、彼も広島の別な民家に下宿していたのです。その下宿先のお嬢さんというのが、私の恋の相手でした。』
『ほお、親友の下宿先のお嬢さんですか。』
『名前は芙美子と言いまして、女学校に通っており、歳は私たちよりひとつ下でしたが、これがなかなかの別嬪でして。
 最初、下宿を訪ねた時は、そんな美人がいるとは聞いてませんでしたから、水谷相手に大声で教授の陰口を叩いておったのです。』
『はい。』
『そこへ突然、お邪魔しますと涼やかな声がかかりまして、別嬪さんが笑みを浮かべながらお茶を持って入ってきたので、まあ、驚きました。
 肌は博多人形のように白く、鼻は高くないが整って、唇も釣り合って小さく紅が似合うのが、浅葱色の裾をさばいて、藤色の地に菫模様、帯は若草色、胸元に袱紗の萌黄色を覗かせ、いや、あたかも畳に突然、一輪の紫陽花が咲いたようでした。』
 伸吾は眠そうにもたれながら、それでも目は閉じずにラヂオに向いていた。準一も缶ビールを持ったまま老人の過ぎ去りし恋の話の行方に耳を傾けていた。
『自分は決まりが悪いやら、お嬢さんの顔を盗み見てぼーっとするやら。
 そのあげく、うっかりお茶をこぼして、はい、お嬢さんは咄嗟に懐の袱紗を取り出して、拭いてくれました。
 水谷はようやく、お嬢さんが近くの女学校に通っているそうだと紹介してくれ、お嬢さんはひとしきり私に水谷と同じ教室なのか、出身はどちらか、などと問いかけて、それではごゆっくりと下がったのでした。
 それから水谷と他愛もない話をしましたが、胸の中ではなにやらときめくような心地でして。』
『ははあ、一目惚れですね。』
『その通りです。
 それからというもの、朝、起きては思い出し、昼下がりに面影が不意と浮かび、飯を食べては溜め息を吐き、夜も思い出しては眠りにつけず、みっともなくて傍から見られるもんじゃなかったと思います。
 なんとか心を通じたいものだと考え、これは二人きりになったら気持ちを打ち明けようと考えもしました。当然のように自分はお嬢さんに逢いたさで、しょっちゅう水谷の下宿に遊びにゆくようになりました。』
『打ち明けるチャンスはありましたか?』
『ええ、そうするうち、水谷が不在の時がありまして、彼の部屋に通された私は、今日こそ想いを打ち明けようと決心して、お茶はまだかと待ちました。
 その間の緊張といったら、まるで胸の内に心臓が三十ぐらいあって一斉に脈打つために、息ができないような感じでした。
 そして、いざお嬢さんがお茶を持って入ってくると、頭の中ではこれを口に出すのだと決めてる言葉が、少しも喉まで降りて来てくれないのです。ただ学校がどうの、天気がああだ、こんな映画を観たとか、せっかく二人きりなのに、三人の時とまるで進歩のない話しかできません。情けない話です。』
『いえいえ、恋というのはそういうものでしょう。それでどうなりました?』
『そんなこんなで半年も過ぎたでしょうか。
 水谷はすこぶる気のいいやつで、誰かが授業を欠席すると頼まれる前からノートを貸したり、金の工面に困ってるやつがいればみんなに少しずつ出してやろうと持ちかけ助けてやったり、かと思うと女学生を口説いて振られたなどと臆面もなく公表したり、言いにくいですが猥談も得意でした。
 しかし、ことお嬢さんのこととなると、私がさりげなく聞いてもあまり話したがらないのでした。
 私より接する機会の多い水谷に対する私の嫉妬からくる印象かもしれませんが、嫉妬には妄想の部分と、極めて鋭い直感の部分があるのです。その直感の部分で、私は水谷もお嬢さんに惚れているのだと信じました。』
『なるほど。』
『それで、水谷の不在をこそこそ待つのではなく、思い切って水谷に自分の気持ちも打ち明けて正々堂々としようと考えたのです。それは水谷がほんとにいい親友だからでもあります。』
『はい。』
『そこで水谷に(自分は最近、夏目漱石の「こころ」を思い浮かべるのだ)と言いました。あれは下宿の娘に学生二人が恋をして悲しい結末が訪れるという話ですから、水谷もすぐに私の言いたいことを悟ってくれました。
(うむ、実は俺もそれを考えていたのだ。あれはよくない話だ。)
(俺もあんなのはお断りだ。水谷のようにいいやつを裏切るなどはまっぴらだ)
(じゃあ、二人、同時に芙美子さんの気持ちを確かめてみよう)
(それは名案だ。)
(それで振られた方は潔くあきらめ、なおかつ男同士の友情は絶対変えずに保とうじゃないか)
(うん。そうしよう。それこそ友情というものだ。)
 こうして私は水谷としっかりと握手したのでした。』
『それでお嬢さんに聞いたんですね?』
『はい、ある日、少し離れた神社にお嬢さんを散歩に連れ出しました。
 行きの道は水谷が付き添い、帰りの道は自分が付き添い、それぞれに気持ちを告白しました。』
『はあ、珍しい告白の仕方ですね。それでお嬢さんの返事はどうなりました。』
『肝心の返事は、お二人ともそういう対象と思ってなかったので、時間をかけて考えさせてほしいとのことでした。
 それはもっともな答えだと思いました。ただ、お嬢さんに打ち明けたことで、自分と水谷は気持ちがすっきりして、互いに以前より深い友情を感じました。
 そしてお嬢さんも前よりうちとけて、三人寄ると賑やかに楽しい時をすごせました。自分らの三角関係に対立はなく、鼎立して安定して平和だったのです。』
『なるほど。時間の方がきてしまいましたので、今週のわが人生はここまでとさせていただきます。鈴木さん、お話、どうもありがとうございました。』
『お粗末さまでした。』

 わが人生が終わると、ラヂオはまたクラシックの曲を流し始め、準一は電源を切った。
「古い話だな。」
「ああ。古い話だ。」
 伸吾の返事を聞きながら、準一は伸吾と奈緒美をめぐって今の鈴木老人の話のように三角関係になっているかもしれないと考えた。
 大学時代、準一と伸吾はゼミで知り合った奈緒美と絵美と四人で付き合い始めたのだ。そのうち、準一は奈緒美と、伸吾は絵美とペアで付き合うようになって、ふた組ともうまくいきそうな感じがした。しかし、絵美は三年の終わりに突然、退学して田舎に帰ってしまって伸吾との関係は消滅した。
 しかし、準一は、元々、伸吾が奈緒美を好きだったのではないかと感じていた。そのため、絵美は伸吾の心をはかりかねて、田舎に引きこもってしまったのではないかという想像も成り立つ。
「じゃあ、俺、帰るよ。」
 伸吾はそう言うと、ビールの空き缶をキッチンに置いて、帰り支度を始めた。
「悪かったな、引き止めて。」
「いや、また呼んでくれよ。」
 準一は伸吾を送り出すと、鈴木老人の話を思い返した。         (その2に続く)


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    5 対面

 空は蜜柑色から水色へと変わり、町のあちこちで生活の音がざわめき始める。
 車庫のシャッターが開く音、ジョギングしている男と老人の挨拶、トラックの低いエンジン音、立て付けの悪い雨戸が開く音、ラジオ体操の音楽、そんな音を聞きながら僕の気分も高まって来る。いよいよご主人様と人間の言葉で挨拶する感動の瞬間が近づいてるんだわん。
 しかし家の内側に向かって鼻を凝らし、耳を凝らしても、わが家は深海の図書館のように静かでご主人様や家族が起きてくる気配はまだない。まったく一家そろって朝寝坊なんだから困ったもんだ。

 僕は焦れったい気持ちで何度もサッシ窓に近づこうとして、そのたびに首輪の鎖に引き留められた。
 そんなことを繰り返すうちに僕はハタと気がついた。
 そういえばご主人様はグルーミングしてくれる時など前足でいとも簡単に僕の首輪を外してくれるのだ。もしかして、ご主人様と同じ形の前足になった僕にもこの首輪は外せるかもしれないぞ。
 僕は急いで前足で首輪に触れてみた。それは革の部分、鎖の出ている金具、飾りらしい金具の部分に別れているようだ。
 僕はまず革の部分を思いきり引っ張った。しかし首輪は外れそうにない。続いて鎖につながる金具を引っ張ってみたが、これも関係なさそうだった。となると怪しいのは飾りの金具だ。僕はそれを前足の爪のあたりで握って強く引っ張った。しかしそれでも首輪は外れそうにない。僕は後ろ足をたたんだまま、うつ伏せになって前足をぺろぺろと嘗めながら考え込んだ。

 うーん、おかしいな、前足が不完全には見えないんだけど。たしかにご主人様は前足だけで外すんだけどなあ‥‥‥。
 すると人間に変身してさらに賢くなった僕の頭はずっと前、ご主人様が祐一さんに門の開け方を教えたことを思い出した。その時、ご主人様は『ここは押すと開くんだ』と言っていた。首輪もどこかを押すと外れるのかもしれないぞ。
 僕はサッシ窓に映る首輪を見ながら、首輪のいろんな部分を押してみた。やがて革の部分を撫でるように押すと首輪の横にもうひとつ小さな輪ができ始め、さらに押すと輪はだんだん大きくなった。そうして、小さな輪の内側に前足の指をかけると、とうとう首輪は外れてくれた。

 スッゴーイ、僕は変身ながらの天才だわん。

 僕は芝生に転がった首輪を眺めながら自分の知性に酔いしれた。
 さて、ご主人様に報告しなきゃな。
 芝生から立ち上がった僕はサッシ窓に近寄り、ご主人様がするように横にずらそうとしたが、開かなかった。僕は他の窓や扉をひとつひとつ試してみたが、結局家のまわりを一週しても開く窓はなかった。どうせ外に出る時に開けるものなのに、わざわざ鍵をかけて意地悪するのはどういう思いつきなんだろう。
 入り口を探しにかかった僕は二階を見上げてバルコニーの部屋の窓からカーテンがはみ出てそよ風に揺れているのを見つけた。僕はバルコニーの柱を後ろ足で挟み、前足で雨水の伝わる鎖を手繰ってバルコニーに攀じ登った。
 わくわくしながら部屋に入ると、そこに巨大な猫のトイレみたいなものがあって、その上にご主人様は口をパカアと開けて寝ている。

 僕は尻尾を振ろうとして、もう尻尾がないことに少しばかり寂しさを感じながら、しかしその何倍も嬉しい気分でご主人様の頬を嘗めた。
「ご主人様、ご主人様、起きてください。」
 ご主人様は「ううむ」と唸っただけでまた布をかぶってしまう。
 僕は前足で布きれをはぐってご主人様を揺り起こした。
「ご主人様、起きてくださいよ、竜助です。起きて私を見てください。」
「おお、よしよし、取って来い、」
 ご主人様は寝ぼけて言うと寝返りを打ち、そのまま気持ち良さそうに鼾をかきだした。

 僕はご主人様を起こすのはあきらめ廊下に出ると物音のする一階へ行こうと四つ足で頭を下にして怖い思いをしながら階段を降りた。
 一階は階段のすぐ横が洗面所になっていて、水の流れる音がしている。 僕はドアを開けて、人間型に退化した鼻にも強烈な洗剤の匂いを嗅いだ。そこでは美菜ちゃんが頭の毛を小さな滝にさらしている。
「おはようございます、竜助です。」
 僕が挨拶すると、美菜ちゃんは頭を滝の水でごしごししながら、
「もう少し待ってエ、」
 僕はうなづいて、美菜さんのつむじが映っている大きな鏡の余ったところに、自分の人間型になった広い胸や、臍の下の縮れた毛や、長く太い足を映して惚れ惚れしながら見つめた。
「すごいぞ、完璧な人間だわん。」
 やがて美菜ちゃんは小さな滝を止めると、手を伸ばして布きれを取り、それで顔の水を拭き取った。そしてはっとして鏡を覗き込んだ。
 そして、鏡の中に僕の微笑を見つけて、そして‥なぜか急に顔を歪めた。
「おはようございます、竜助です、人間に変身したんです。」
 僕が挨拶するや美菜ちゃんは鼓膜が裂けるような金切り声を上げた。
「キャーッ、痴漢ッ、助けてーッ!」
 僕は耳を押さえて廊下に退いた。すると美菜ちゃんは洗面所のドアを締めてさらに叫ぶ。
「お父さん、お母さん、助けてーッ!」
 僕には美菜ちゃんが叫ぶ理由の見当がまるでつかなかった。
「どうしたんです、竜助ですよ、美菜ちゃんの大事な家族の竜助が今朝、とうとう人間に変身したんですよ。分かるでしょう?」
 僕は洗面所の中に向かって言い返したが、美菜ちゃんの返事は「助けてーッ」だけだ。

 そこへ、うまい具合にキッチンの方から奥さんがやって来た。
「おはようございます、竜助です、先日はどうも。美菜ちゃんが寝ぼけてて、変身した僕のことをわからないので言い聞かせてやってください。」
 僕の挨拶が終わらないうちに、今度は奥さんが自分の頬をつぶすように前足を上げると大声で叫んだ。
「キャアーッ、あなたーッ、」
「ど、どうしたんです、奥さんまで。竜助ですよ、人間に変身しただけです、怪しい者じゃありませんよ、」
「あなたーッ、早くーッ、」
「今までずっと一緒に暮らしてきたんだし、姿が人間になっても竜助だってわかるでしょう?明け方にとうとう人間に変身したんですよ。」

 僕が説明していると、ドダバタと足音がして階段からご主人様が降りて来た。
「あ、ご主人様、目が覚めましたか、おはようございます、竜助です、喜んでください、とうとう人間に変身することができました。」
 僕は顔をほころばせて報告したが、なぜか、ご主人様の目はまるでハーレムを荒らされたトドのように激しい怒りに燃えていた。
「この野郎、じっとしてろ、動くなよ、」
 僕はご主人様の敵意を剥き出しにした言い方に戸惑って言った。
「どうしたんです、ご主人様、竜助です、僕はあなたの愛犬ですよ、」
「バカ言え、どこから入って来たあ?」
「ご主人様の部屋の窓からです。」
「よくも抜け抜けと‥‥‥娘に何をした?」
「ただの挨拶です。」
「素っ裸でただの挨拶か。」
「だって私はご主人様の飼い犬なんですよ、僕が服を持ってないのは誰よりもご存じじやないですか。」
「おまえ、頭がおかしいのか?犬と人間の区別ぐらい、幼稚園児だってつくぞ。」
「僕は犬から人間に変身したんですよ。」
「ばかばかしい、そんなことあるわけないだろ。」
 ご主人様の言葉に僕は数瞬、声が詰まってしまった。
「‥そんな、そんな言い方ないですよ。ご覧の通り、僕は人間になったんです、ご主人様だって、いつも僕に『おまえは犬の気がしない、人間みたいな気がする、おまえは完全な家族だぞ。』っておっしゃってくれたじゃないですか。」
 しかし、ご主人様は僕を冷たい目で見る。
「俺をご主人様と呼ぶな、気色悪い、おまえは単なる不法侵入者だ、」
 僕はふと思いついて廊下からリビングへと駆け込んだ。
「待て、動くな、逃げる気か、」
 ご主人様は後ろから怒鳴ったが僕はかまわずサッシ窓を開けにかかった。サッシの鍵は首輪の鍵よりもずっと簡単に外れた。
「ご主人様、心配しないでください、今、僕が竜助だって証拠を見せてあげますから。」

 僕は芝生に降りると首輪を拾って、喉の周囲に素早く巻き『お座り』の姿勢になってご主人様を振り返った。
「どうです、この格好なら僕が竜助だとわかるでしょう?」
 僕はこれでご主人様も険しい顔を和らげてくれると思ったが、ご主人様の顔は真っ赤になってますます深い皺が走った。
「おっ、おまえ、うちの竜助をどうした?」
「だ、だから僕が竜助なんです。」
「竜助をどこにやったんだ?おまえ、まさか竜助にとんでもないことをしたんじゃないだろうな?」 
「だから、僕はこうして人間に変身したんです、」
「竜助を返せ、あれはそんじょそこらの犬とは違う、来年のドッグショーでは日本一を狙える犬なんだぞ、」
「何度言ったらわかってもらえるんです、僕が竜助なんですよ、」
「今すぐに竜助を返せ。」
 ご主人様は僕を睨みつけて怒鳴った。
 ご主人様は僕の説明を少しも聞こうとせず竜助を返せと迫るだけだ。僕は頭の中がぐるぐる回るような気がした。いつの間にか目からまた涎があふれてきた。少しぼやけた視界に、ご主人様、その前足の付け根越しに奥さん、美菜ちゃん、祐一さんが顔を並べているのがわかる。 
「どうしてわかっていただけないんです、僕はずっとご主人様の忠実な飼い犬としてやってきたじゃありませんか。」
 僕はかすかにひきつけそうな喉から声を絞った。
「うるさい蚊や蚤に刺されて痒くてたまらないときも、『お座り』とか『待て』とか命令されればじっと我慢していたし、ご主人様が奥さんと喧嘩を始めれば奥さんが武器にしそうなものを隠してご主人様に加勢したし、公園でキャッチボールしていた祐一さんが道路に飛び出した時も、僕がボールより先に飛び出して車の人間に知らせたんです。
 それは飼い犬とはいえ決して習慣や本能だけでできることではありません。僕がこれまでご主人様に従ってきたのは、ご主人様がそれだけ深い愛情を僕にかけてくれたからです。
 毎日おいしい牛肉のドッグフードをたくさん食べさせてもらい、美容院で手入れしていただき、スポーツジムで遊ばせてもらい、コンテストの前などご主人様自ら僕の毛の一本一本をかきわけ手入れしてくださいましたよね。」

 その時、祐一さんが嬉しいことを言ってくれました。
「パパ、この人は竜助かもしれないよ。すごく細かい出来事を知ってるもの。」
 しかし、御主人様は吐き捨てるように言います。
「バカ、言え。こいつはただの裸の変態野郎だ。」
「僕はご主人様に本当によくしてもらったと思います。ご主人様は僕の毛並みを撫でながら、お前が一番の味方だぞって言って、僕はご主人様が、奥さんや美菜ちゃんより僕の方を大事にしてくれてると感じた程です。そんな時、僕がどんなにもったいなく思ったか。だからこそ僕もご主人様に恩返しできるよういっそうがんばってきたんです。そしてついに人間になれたんですよ。」
 僕がそう訴えるとご主人様の怖い顔も少し緩んだように見えた。

(ここでもう一押しすればわかってもらえるぞ、そうだ、ここでご主人様と飼い犬の僕しか知らない証拠を見せるんだわん。)
「ご主人様、ちょっと見ていてください。」
 僕は犬小屋の斜め前の土を前足の先で掘り始めた。人間型になった前足の爪は弱々しく、土をえぐるたびに痛みが走ったが僕は一生懸命地面を掘りながら言った。
「ここに、この古い腕時計が埋まっているのを知っているのはこれを埋めた僕、竜助と、それを見ていたご主人様と祐一さんだけのはずです。」 やがて土の中の一点がキラリと光り、僕はその物を急いで掘り出して血の滲んだ前足の先につまんで掲げて見せた。
 祐一さんが笑みをこぼした。
「パパ、この人は竜助だよ、本当に人間になったんだ。」
 祐一さんはご主人様の後ろから飛び出してきた。
僕はわかってもらえたのが嬉しくて、もうないのも忘れて尻尾を振ろうとした。
 しかし、その時、ご主人様の腕が鷹の爪のようにすっと伸びて、祐一さんの体を引き止めた。祐一さんは不思議そうに父親を振り向いた。
「何で止めるの?」
「祐一、こいつは人間だ。竜助じやない。そのうえ危ない変質者だ。」
 僕はご主人様の決めつけにぶちのめされました。
「そんなことないよ、この人は竜助なんだ、竜助が変身したんだよ。竜助しか知らないことを証明してみせたじゃないか。」
「いや、まぐれさ、でなければあらかじめ庭を全部掘り返してみたのかもしれん。いいか、祐一、犬が人間に変身するなんてことは絶対にないんだ。さっ、危ないから家の中に入っていなさい。」 
 僕は近所に響きわたる大声で叫んだ。
「本当に人間になったんだ。ずっとずっと憧れてきて、昨日、神様に頼む方法を聞いて実行し、今朝も夢の中で神様に会って『願いを叶えてしんぜよー』と言われて、起きてみたら体が人間になっていて、願いが叶っていたんです、どうか信じてください。」
「この変質者め、どこまで白々しいウソをつくんだ、竜助をどこにやったか正直に言うんだ。」
「ご主人様はクリスマスにはツリーを飾り七面鳥を食べ、お正月には神社にお参りしお札をもらい、ホージにはお寺からお坊さんを呼んで線香臭いパーティーをしましたよね。僕はご主人様はたくさん神様を信じているんだと感心していたのに、あれはポーズだけなんですね、本当は神様を信じていないんですね、失望しました。」
「変質者がでかい口を叩くな。」
 その時、野犬の遠吠えのようなかん高い音が響いてきた。ウウ、つられて吠えたくなるようないい声だが、この大事な場面でそんなことはしていられない。ご主人様はほくそ笑んだ。
「お、パトカーが来たな。」
「お母さんだね、どうして警察に電話したの、本当に竜助だったらどうするつもり?」
 祐一さんが文句を言うと奥さんは諭した。
「あの人は竜助じゃないの。変身なんてマンガの世界にしかないのよ。」

 祐一さんは首を横に振って僕に叫んだ。
「竜助、逃げるんだ、あのパトカーのサイレンはおまえを捕まえに来たんだ、早く逃げるんだ、」
 野犬は保健所に連れて行かれて注射で殺されるという噂を聞いたことがある。ご主人様が僕を飼い犬と認めてくれない以上、僕は野犬にされてしまうに違いない。僕はぶるぶると戦慄におののいた。
 車が家の前に止まる音がし、ドアの開く音に続いてドタドタ降りて来る靴音が響く。
 僕はあわてて家の裏に回り込み、隣の家の塀を飛び越えた。
 走ってゆく僕の耳に、主人様の「おまわりさん、あっち、あっちへ逃げた」と教える声が小さく届いた。 

     6 神様の五目ならべ

 どうして竜助だとわかってくれないんだ。
 僕はぶつけようのない悔しさに息を詰めながら慣れない二本足で走った。足は自然とちなつさんの家の方へ向かっていた。ちなつさんならご主人様に僕を竜助だと認めさせる知恵を思いつくかもしれないもんな。
 そうして道を走ってゆくと前方から背広の男性がやってくる。
 僕はここで愛想よくしないと怪しまれると思いスピードを緩めて、「おはようございます、先日はどうも、」と笑顔で挨拶した。
 ところがこの男性はぽかんと口を開けて足を止め、急に道の反対側に移って逃げるように走り去った。
 この男性だけではない。
 その後も出会った人間は男も女も若いのも年寄りも、決まってまず呆気に取られ、続いて身を引いたり、逃げ出したりした。どうして挨拶や会釈の代わりにそんなことをするのか僕には見当がつかない。最初は体の一部がまだ人間になりきれてないところがあるのかもしれない。それもちなつさんに相談してみよう。
 僕はちなつさんの家にたどり着くと鍵のかかっていない玄関からそのまま家の中に上がり込んだ。廊下を行くとちょうどちなつさんが部屋から出て来るところだ。
「おはよう、ちなつさん、」
 僕が呼びかけるとちなつさんもびっくりして僕を見つめた。
(竜助じゃない、どうしたのその体!)
「昨日言ったろう、ホントに人間に変身したんだ。」
 ちなつさんは尻尾を振って喜んでくれた。
(すごいじゃない、人間に変身した犬なんて初めて見たわよ!)
「うん、僕も初めての変身さ、」
(そうね、きっと犬の歴史初の快挙だわ。)
「グフフッ、すごいでしょ。」
(よりによってあんたが人間に変身した第一号犬になるなんて奇跡もいいとこねえ、神様もずいぶんいい加減なことをするものねえ、でも竜助おめでとう。)
「ありがとう。あ、いけね、まだありがたくないんだ。」
(どうして?)
「ご主人様が僕が人間に変身したことをわかってくれないんだ。僕がどんなに説明しても犬が人間に変身することなんてないって決めつけて少しも僕の言うことを信じてくれないんだ。」
(うーん、そうね、人間は自分にできないことはないって思ってるから、自分たちにできないことが犬にできっこないって決めてるんだわ。)
「どうしたら分かってくれるかな?」
(むずかしい問題ねえ。)
 その時、おばさんが「ちなつ、ちなつ」と呼ぶ声がした。ちなつさんはワンワンと返事をしてから僕を振り向いた。
(あんた、どこかに隠れてなさいよ、)
「おばさんに挨拶しておこうか?」
(だめよ、裸を見せたりしちゃ。人間はデリカシーを大事にするのよ、トイレとお風呂以外では服を着て、裸を他人に見せないのが人間の群れの決まりなのよ。)
「へえ、そうかあ、謎が解けたよ、それでみんな変な顔で僕を見て逃げたんだね。」
(わかったわね、物置の中にでも隠れてなさいよ。)
 僕はちなつさんに言われて庭にある物置の中に隠れた。

 しばらくするとちなつさんが布をくわえてやって来た。
(うちはおばさん一人だからあんたに合いそうな服がないけど、がまんしてこれを着なさい。)
 そう言ってちなつさんが勧めてくれたのは、黄色っぽいブラウスに紺色のスラックスだ。
 どこにどの足を入れるかで少し手間取ったがなんとか服を着ると、僕はちなつさんに礼を言った。
「それで、さっきの問題だけどさ、どうしたらご主人様に僕が竜助って認めてもらえると思う?」
(そうねえ、竜助が説明してもたぶん聞いてくれないだろうから、ちょっと大変だけど神様にようくお祈りしてみたら。)
「なるほど、神様に会ってご主人様に説明してくださいって頼めばいいんだ、簡単だね。」
(えっ、竜助、神様に簡単に会えるの?) 
「うん、公園とか神社の境内なんかでよく見かけるよ。」
(何よ、それ。)
「うん、これは秘密だから誰にも言っちゃだめだよ、実はね、いつも神社の境内にいる佐伯さんのご隠居、知ってるだろう、あのじいさんが実は神様なんだよ。」
(うっそお、)
「夢の中であのご隠居が僕の願いを叶えてやると言って、それで起きてみたら人間に変身していたんだ。」
(ふうん、そうか、それでよりによって、あんたなんかを変身させちゃったのね。)
「ちなつさんも人間にしてくださいと頼んでみたら。」
(そうね、竜助がご主人様に認めてもらえたら私も考えてみるわ、)
「うん、じゃあ僕は神様に会いに行くよ。」
 僕が物置から出て行こうとすると、ちなつさんが呼び止めた。
(人間が裸足じゃおかしいわ、このサンダルを履いてゆきなさいよ、)
 僕は物置の片隅にあったピンクのサンダルを後ろ足に履いてちなつさんの家を出た。

 ご隠居の姿はなかなか見つからなかった。
 天気はいいのにまだ神社にも公園にもいない。これが犬の時だったら匂いで捜せるのだが、人間の嗅覚ときたら十メートル先の電柱に誰と誰と誰がどんな順序でおしっこをひっかけたかを判断することはもちろん、三メートル先に骨が落ちていてもその匂いがわからないのだからお話にならない。
 そのうちお陽さまが次第に高くなり始めるといつもと同じ感じでおなかが空いてきた。僕は、へえ人間でもおなかが空くんだと新たな発見に驚きながら、どうしたものかと考え込んだ。ご主人の家に行っても餌は出してくれないような気がする。ちなつさんに分けてもらうのは、ちなつさんの体の小ささからして無理がある。
 僕はガラス張りの店の前に立ち止まると、以前、この店の前につながれて、ご主人様が家族や僕におやつを買って出て来るのを待ったことを思い出した。
 ああ、人間もよだれが出るんだなあ、と僕はまた新しい発見に驚いた。つながれていない僕はガラスに顔を近づけて中をジイッと眺めたが、店の中にいる女の人間は不思議そうに僕をちらちら見てくる。そうしているうちに僕の脇をかすめてお客が店の中に入った。それを見て、そうだ、僕も人間だから勝手に中に入ってもいいんだと大発見して店の中に入った。するといきなり、
「いらっしゃいませ。」
 店の人間は素晴らしい挨拶をよこしてくれた。僕は嬉しくなってご主人様が家でお客によくするフレーズを返した。
「まあ、そんな堅苦しい挨拶は抜きだよ。」
 すると店の人間は「はあ?」と不思議そうな顔をしてくる。きっと彼女は教養が足りないので僕の挨拶がわからなかったのだろう。
「いいから、いいから、」
 僕は顎の前で前足を揃えて振って棚の方に歩いた。
 爆薬のおもちゃや、凍ったお菓子や、紙のかたまり、油っぽいお菓子や、液体が詰まった薄い金属、さまざまなものが並んでいる。僕はひとつひとつの匂いの記憶を呼び起こしながら見てまわった。そしてとうとうペットフードの棚にたどり着いた。乾燥させたのや、半生のや、牛肉ジャーキーなどがずらりと並んで、いよいよよだれが口の中に満ちてくる。しかし「よし」と言ってくれるご主人様がいない以上それに齧りつくことはできない。
 僕は箱を前足にはさむと、絵を眺めながら、味を想像してみた。うーん、どっとよだれが溢れてくる。僕は口の中にたまったよだれをごくりと飲み込むと店の人間の方を振り返った。店の人間は僕と一瞬目を合わせたが、恥ずかしいのか目をそらす。
(恥ずかしがってる場合じゃないだろう。)
 僕はそう思いながらドッグフードの箱を眺め続けた。
 ずっとその場に立っていると、ようやく店の人間は僕の棚に近づいてきたが、僕を素通りして隣の棚の隙間に箱を並べ始めた。
 僕はわからないやつだと思いながら、ドッグフードの箱を床に置くとその前でおあずけのポーズを取ってみせて言った。
「そろそろ『よし』でしょう?」
 すると店の人間は顔を引きつらせてもとの台の奥に隠れてしまった。
 僕は『よし』をあきらめドッグフードを棚に戻すと、ご主人様の得意のフレーズ、「まったくここの店員教育はなってないな」をつぶやいてガラスの店の外に出た。
  
ふたたび公園の前を通りかかると今度はベンチにご隠居がいた。僕は、いつものように五目並べをしている神様の前に行き、人間に変身させてもらったお礼を言った。
「神様、どうもありがとうございます。ご覧の通り、ちゃんと人間になれました。本当にありがとうございました。」
 するとご隠居は台に置きかけた丸い石を手のひらに収め、僕を振り向いてつま先から頭のてっぺんまでゆっくりと眺めた。
「名前はなんというの?」
「はい、竜助です、昨日まではゴールデンリトレバーでした。」
「ほおー。で、碁はやられますかな?」
「まだなりたてですから。」
「そう言わず是非一番お手合わせ、願いたいですな。」
 神様にそう言われた僕はハハアと気づいて、神社で人間がするように前足の裏をシャンシャンと打って前足を揃えた。しかし神様はそんなことには飽きているらしくさっさと台の丸い石をきれいに片付け、僕に黒い石のいっぱい入ったお椀をよこした。
 これは祐一さんがご主人様としてたのを見たことがある。たしか五目並べという遊びなのだ。
「段を取り立てなら、私とちょうどいい勝負だと思いますよ。どうぞ。」
「はあ?」
 神様がじっと台を睨む沈黙の時がすぎた。
 ひとまず何かをしてこの沈黙の緊張を破った方がよいと感じた僕は台の四隅に黒い丸い石をひとつずつ並べて神様の表情を伺った。
「ほほお、かなりの手ですな。ではわしも、」
 神様は白い石を一個、僕の黒い石の近くに置いた。そして、また沈黙。
 僕は沈黙を早く終わらせたい一心で急いで神様の白い石と黒い石の中間に置いた。今度は神様、そして僕、この繰り返しでだんだん木の台は石で埋まってゆく。やがて神様は時々うなり声を漏らすようになった。
 うーんうーん、息を吐きながら「あてこみですか」「なるほど」「うちかきにされたか」などとわけのわからないことを口走る。
 やがて石を並べ替えて、数を数えるとご隠居は僕におじぎをした。
「いやあ、参りました、竜助殿は相当の手だれですな、一瞬に五十手も百手も先を読まれては、こっちはかないません。」
「そんな、神様にお礼を言われるようなことはしていませんよ。」
 神様は石を少しだけ残してそれを適当に並べると、
「竜助殿、ここでこう打ち込まれましたね、あれにはびっくりしました。」
「いやあ、黙っているのが怖くて急いだんです、」
 僕はそう答えながらご主人様のことを思い出した。  
「それより、神様、ご主人様が僕を認めてくれないんです、どうしたらいいでしょうか?」
「ははあ、やはりプロの方のお弟子さんでしたか、なるほどねえ、ここで私の一手、いいように思ったんですがなあ。」
「どうしたらわかってもらえるんでしょう?」
「それは浮いてしまって、筋違いですからなあ。」
「筋違いなんですか?」
「そうですな。」
「でも神様が僕を人間にしたんだから、後の面倒をみてもらえませんか。」
「そこまでですか、難しいですな。」
「神様なのに難しいんですか。」
「仕方ないんですよね。」
 神様はそのまま台を睨むと僕の話し相手をやめて、一人ごとを言いながら黒と白の石を交互に打ち始めた。
 当の神様に、筋違いだ、難しい、仕方ないとまで言われては、神様に助けてもらうのはあきらめるしかない。僕はそっと後ずさりして公園を出た。

      7 ハンバーガー
 
 神社の境内を出て、公園にたどり着いた僕は人間らしく背中を立てたままベンチに座った。そこへジャージ姿の島田さんの奥さんが早苗を連れずに走ってきた。
「まあまあ、おはようございます、先日はどうも。」
「まあどうも、えーと、先日何だったかしら?」
 僕は島田さんの奥さんがにこやかに答えてくれたのが嬉しくて言う。
「ほら、よく早苗さんにあげるジャーキーを竜助に分けてくれたじゃないですか。」
「ああ、ジャーキーね。あなたは槙野さんとこの?」
「ええ、そうなんですよ。早苗さんは?」
「今はお留守番してますわ。」
「じゃ、よろしく伝えておいてください。ごきげんよう。」
「はあ、ごきげんよう。」
 島田さんの奥さんは少し首を傾げながら走り去った。
 しばらくすると、木立の間からロッキーが入ってきた。
「ロッキーさん。」
 僕が前足を上げて呼ぶと、ロッキーは水浴びの後のように身震いした。
(ちなつから聞いたぜ。お前ってやつはホントにアホだな。)
「どうしてです?」
(その不恰好な人間になっちまったからよ。)
「人間になるのがアホなんですか?」
(当たり前だ、人間なんか犬以下だぞ。)
「だって、それが僕の夢だったんだわん。」 
(じゃあ、人間になってどうだ?)
「がっかりしました。あんなに昔はやさしかったご主人様が、実は犬しか愛せない心の狭い人間だとわかったんだもの。」
(ほら見ろ。だから言ったろう。犬が一番なんだよ。人間なんてのは俺たち犬が真剣につくす価値のない動物なのさ。おまえも匂いのつけ方を忘れないうちに、さっさと犬に戻してもらうことだな。)
 ロッキーの言葉に僕は「ううん」と首を横に振る。
「僕はもう少し人間でいようと思うんです。中には祐一さんみたいにわかってくれる人もいるんだから。」
(お前は本当におめでたいな。)
「あ、ありがとう。」
 僕が礼を言うとロッキーはふんと腹這いになって後ろ足で腹を掻いた。
(ち、蚤の野郎め、俺を誰だと思ってやがる。)
 ロッキーは立ち上がると(まったく竜助と蚤にはイライラさせられるぜ)と言い捨てて去って行った。
 僕はどうしたらご主人様が僕の変身をわかってくれるか考えるうちに、そのまま昼寝をしてしまった。
 
 目が覚めて、公園を出ると、お陽さまが一番高いところからだいぶ降りて、背広の人間の巣が重なって並んでるあたりにさしかかっていた。
 街には食べ物の匂いがいっぱいだ。犬の時にはたいしていい匂いとは思えなかった中華料理店やソバ屋、総菜屋などから溢れてくる匂いが今はとても美味しそうに感じる。よだれを飲み込みながら歩いてゆくと、不意に誰かが僕の肩を叩いた。
 やばい、保健所の人間に見つかったかあとびくびくして振り向くと、それは学校帰りらしい祐一さんだった。僕はほっと息を吐いた。
「竜助、見つけたよ。」
「祐一さんかあ、よくわかりましたね。」
「男がそんなおばさんみたいな格好してたら目立つよ。」
「はあ、でも嬉しいです、尻尾があったら思いきり振りたいところなんですが、もう尻尾なくて。祐一さんも尻尾がないと落ち着かないですか?」
「ふふ、ちょっとコーヒーでも飲もうか。」
 祐一さんはそう言ってハンバーガーショップに入ったので、僕も慌てて後を追いかけた。
「何を飲む?」
「えーと、わからないんで、なんでもいいです、」
 そう言ったとたんにおなかがグウウと鳴った。祐一さんは笑って「そうか、竜助はおなかが空いているんだね」と言い、店の人間に何か注文してくれた。
 それは丸いパンにはさまれたハンバーグだった。
 僕は舌で口のまわりを嘗めてからハンバーグを抜き出そうとした。
「そうじゃないよ、パンと一緒に食べるんだ。」
「あ、そうですか、」
 僕は口をテーブルに近づけハンバーガーを齧った。
「どう、美味しい?」
「ええ、とても」
 僕は口に押されて机の上を逃げようとするハンバーガーを顎で追いかけた。
「竜助。手で持って背中を起こして、ハンバーガーの方を口に近づけるんだよ。」
「手、ああ、そういえば人間は前足のことを手と呼ぶんでしたね。やってみます。」
 僕はふたつの前足でハンバーガーを挟み、ハンバーガーに齧り付いた。
「なるほど、こうすれば楽に食べられます。」
 僕はあっと言う間にハンバーガーを平らげた。そんな僕を見て祐一さんは微笑んでいた。
「おいしかった?」
「ええ、御馳走様でした。それにしてもご主人様はどうして僕が竜助だとわかってくれないんでしょう?」
「うん、それはたぶん、大人の考え方がとても狭いからだよ。人間って年を取ると世間とか常識に考え方を任せてしまって、自分で自由に考えることができなくなるみたいなんだ。」
「そうですか、‥あの、僕は犬のままでいた方がよかったんでしょうか?」
「そんなことないよ。」
「だってご主人様が認めてくれないのに、」
 僕は目にあふれるよだれでうるうるしながら祐一さんを見つめた。

「それはお父さんの方が間違ってるんだ。竜助は人間になりたくて、その願いが本当に叶って変身したんだから、それでいいんだよ。竜助を見た人はみんな竜助が初めから人間だったと思って見るんだから、これからはいつも人間らしくしなきゃいけないよ。」
 祐一さんに言われて僕は顔が火照るのを感じた。
「そんな、もったいないですよ。」
「そうしなきゃ、かえって変に思われてしまうよ。今日から竜助は人間になりきるんだ。」
「私は家族として認められ、人間の皆さんと人間の言葉で話ができればそれだけでじゅうぶん満足なんです。」
「だめ、人間になりきるんだ。命令だよ。」
「あ、命令なら従うしかないですね。わかりました、人間になりきるよう努力します。」
「それでいい。今晩、お父さんが帰ってきたら、人間として家に住まわせてもらうよう頼むんだ。僕も応援するから、一生懸命頼むんだ。きっと置いてくれるよ。」
「はい、そうですね。」 
「ただ、お前が竜助だって言うと、絶対認めてくれないから、とりあえず竜助ではないてことにする。いいね。」
「えっ、僕は竜助なのに、嘘をつくんですか?」
「嘘じゃなくて、方便というんだ。昔の偉いお坊さんはそうやって頑固なひとに仏教を教えてあげたんだよ。」
「ふうん、そうですか。方便なんですね。」
「うん、きっとうまくいくよ。」
祐一さんは僕の前足、いや僕の手を握ってうなづいた。祐一さんの手から暖かさがじかに伝わって僕は幸せを感じた。

      8 変身

 家に帰ってきたご主人様はリビングでかしこまっていた僕を見るといきなり怒鳴った。「こいつ、性懲りもなくぬけぬけと、」
 そこで僕の隣に座っていた祐一さんが言う。
「お父さん、興奮しないで話を聞いてよ。この人は悪い人じゃないんだ。優しくて献身的で、立派な人間だよ。」
 祐一さんに褒められて僕は頬が赤らむようだ。しかし、ご主人様は強い口調で頭ごなしに言う。
「お前は子供だから、うまく言いくるめられてるんだ。そいつは変質者なんだぞ。相手になっちゃいかん。」
「そんなことないよ。お父さんだってちょっと付き合えばこの人がいい人だってわかるよ。」
「そいつは真っ裸で忍び込んで来たんだぞ、そして自分が竜助だと言い張り、竜助の首輪までしてみせた変態だぞ。祐一はこんなやつの言うことを信じるのか?」
「この人が竜助じゃないことは常識で考えて僕でもわかるさ。
 でも、竜助が姿を消してしまい、僕たちの前に現れたこの人は竜助が乗り移ったみたいに素敵な人なんだ。そこで、この人に竜助の代わりに僕たちの家族になってもらったら楽しいと思うんだ。ねえ、いいでしょう?」
 祐一さんの提案にご主人様も一瞬息を詰めた。
 扉の陰では奥さんと美菜ちゃんが成り行きを伺っているはずだ。しかし、次の瞬間、ご主人様は一層大きな怒鳴り声になって素晴らしい提案を一蹴する。
「何をバカ言ってるんだ、どうしてどこの馬の骨かわからん男を養う必要があるんだ?」
「大丈夫、自分の食べる分は働いて稼ぐから、空いてる部屋に下宿させてあげるだけでいいんだよ、ねえ?」
 祐一さんが僕を振り向くと、僕は打ち合わせ通りに返事した。
「はい、ご主人に迷惑はかけません。」
しかし、ご主人様は激しく首を横に振る。
「だめ、だめ、こんなやつを置くわけにはいかん、何が狙いかわかったもんじゃない、大方、娘と財産を掠め取ろうという魂胆なんだ、犬にも劣る最低の人間だよ。」
 ご主人様の言葉に僕の心は太い氷柱に突き刺され言葉もなかった。祐一さんが叫んだ。
「ひどいよ、」
 祐一さんはそのままご主人様につかみかかった。
「あやまれ、竜助にあやまれ!」
「こんなバカな人間にあやまる必要はない。」
「わからずや!」

 次の瞬間、祐一さんの拳がご主人様の顎を殴った。
「こ、こいつ、親に向かって手をあげたな。」
 ご主人様は平手で祐一さんの顔を二発、三発とぶち始める。
 僕はとっさにご主人様に飛びかかって倒し、ご主人様の首に咬みついた。しかし、人間になった僕の歯は武器にはならなかった。
 ご主人様は曲げた足を僕の腹に当て一挙に伸ばして僕を撥ね飛ばした。
 僕はサイドボードにぶつかりガラス扉が音を立てて飛び散った。
「さっさと出て行け。」
 ご主人様はさらに僕の体を蹴ろうとする。僕は素早く手でご主人様の足を受け止めるとそのままゆっくり立ち上がった。片足で立つ格好のご主人様のバランスは僕の手の内にある。
「ご主人様、僕はとてもがっかりしました。犬の時はあんなに大切にしてくださったのに、願いがかなって人間になってみると、中身は僕のままなのに、ご主人様は少しも僕の気持ちをわかってくれない。そればかりかひどい言葉で罵り、暴力まで振るう。僕はもうご主人様が嫌いになりました。」
 祐一さんが声をかけた。
「竜助、その手を放してパパの足をおろすんだ、ようく頼めばわかってくれるさ。」
「もういいんです。僕は野良犬、じゃないか、野良人間にでもなることにします。」
 僕はご主人様の片足を強く押し放した。
 ご主人様はよろけて倒れ、壁に頭を打ちつけた。ご主人様はおかしな目で僕を見つめるとそばに倒れたゴルフバッグからクラブを取り出して立ち上がった。
「お父さん、やめてよ、そんなので殴ったら竜助が大ケガするよ。」
 祐一さんが叫んだが、ご主人様はクラブをきりきりと握り締めた。
「こいつはケガでもしないとわからないやつなんだ」
 ご主人様はクラブを振りかぶる。
 僕は恐ろしさのあまりぎゅっと目をつぶり、叫んだ。
「神様、もういいです。犬にして下さい!」
 次の瞬間、ぶーんとゴルフクラブが僕の耳のそばでうなったが、それは僕には当たらずに床に転がった。
「パパー!」
 祐一さんの叫び声が上がった。
 僕はおそるおそる瞼を開いてみた。
 すると床にご主人様の着ていたシャツとズボンが脱ぎ散らかっており、そばには一匹のオスのヨークシャーテリアが、目をさかんにぱちくりしながら座っていた。              <了>

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      1 予言

 土曜日の昼下がりの公園は快適そのものだ。
 強い陽差しは木の葉のブラインドで和らいでいるし、どこかから小鳥の愛くるしい歌を乗せたそよ風が吹き抜けて、うーん、気持ちがよいわん。
「竜助、座ろうか。」
 美菜ちゃんに言われて僕は「ワン」と返事をした。そして軽くジャンプしてベンチの上に乗ると足をたたみ、ふさふさのお腹をおろして美菜ちゃんを見上げた。

 僕はゴールデンレトリバー、四歳、牡、名前は槙野竜助。
 血統書についてる外国式の正式名はアレキサンダー・マキシミリアン・ステュワートなんとか、でも僕は竜助って呼ばれた方がしっくりくるんだ。体格はレトリバーとしては並だと思う。毛並みがきれいなのは御主人様、槙野淳一郎氏と奥さん、そして行きつけの美容院による手入れのおかげだ。おかげで今年のドッグショー全国大会、ゴールデンレトリバー部門で三位に入った。
 僕の一番の遊び友達は小学校五年生の長男祐一さんだ。
 高校一年の長女美菜ちゃんはあんまり僕の相手はしてくれない。ほらね、一緒に散歩に来ても、いきなり文庫本を取り出して本の世界に入ってしまう。やれやれ。僕は音を噛み殺して大きくあくびをした。

 こんな時はうたた寝に限るよ。僕はそっと閉じた瞼の裏に、砂浜を広げて座り込み、眠気の波が向こうからやって来るのを待ち受けた。
 まもなく手頃なビッグウェーブが見えて、サングラスにパジャマといういでたちの僕はサーフボードをかかえて海に突進し、後ろ足で水をチャプチャプかいて泳ぎ出す。大波の直前で僕は素早くサーフボードに立つと、ボードのテールのフィンでしっかり波をつかまえた。だんだん眠気の波の先端が大きく僕の上に覆いかぶさり、僕は透明なワッフルの生地でくるまれてしまった、幸福なカスタードクリームの気持ちを味わう。
 へーイッ、サイコーだわん。
 僕は眠気の波を破らないようそう小声でつぶやいてみた。
 しかし、僕のお楽しみは、突然、子供のかん高い声で砕かれた。
「へーえ、やったじゃないか!」
「うん、犬の体のままじゃあまり役に立たないと思ったから、一晩かけて人間に変身させたんだ。」
 僕はただごとならない話題にいっぺんに目を覚まし、公園の中を歩いて来る小学生二人組を見やった。
「じゃあパラメーターもアップだね。」
「うん、これで怪物に勝てるから、いよいよ第八ステージもクリアできると思うよ。」
 僕は心の中で問いかけた。
(お話し中、すみませんが、僕も人間になりたいんですよお、どうすれば変身できるんですか?)
 すると偶然にも片方の小学生が「で、どうやったの?」と同じ問いをしてくれたではないか。これだ、これ、これ。奇跡ってやつ。
「簡単だよ、神様の前で三回、まわって、ワンワンと言わせてみたら、まもなく虹色の光に包まれて変身できたんだよ。」
 ホ、ホント!?
 瞬間、僕の耳から脳天にそして全身に感激の電気が走った。
 なんだって、そんなに簡単に人間に変身できるのか?
 現在の犬の生活に特に不満はないけれど、僕は物心ついた頃からずっと人間になりたいと思ってきた。それも転生なんてまどろっこしい方法ではなく、あっという間に変身したいって思っていた。それがとうとう実現するんだ!
 僕は思わず尻尾を振りながら目の前の空気に溶け込んでいる小学生たちの匂いを追いかけるように嗅いだ。ああ、なんて素晴らしい、これって予言者の匂いなんだなあ。
 小学生の後ろ姿を見送った僕は美菜ちゃんの横顔を見上げる。
(美菜ちゃん、今の子の話を聞いたかい?彼は救世主だよ、僕も人間になれるんだ。)
僕がそう念じて見つめると美菜ちゃんはふっと僕を振り向いた。
「あら、竜助、尻尾なんか振ってどうしたの?」
(どうしたなんて言ってる場合じゃないよ、僕が人間になれる方法がわかったんだってば。)
 僕は美菜ちゃんのカーディガンの袖に噛みついて引っ張った。
「だ、だめよ、竜助、袖が伸びちゃう、」
(すぐ神様にお願いしに行こうよ、そしたら人間になれるんだ。)
僕はベンチから飛び降り、首輪につながった手綱を引っ張った。
「竜助、そんなに急がないでよ、」
 美菜ちゃんは怒ったが、僕は気にせず走り出した。

      2 祈り

 僕は、いつもならおしっこで自分の匂いをしっかりマーキングする電信柱にさえ目をくれず、まっしぐらに神社に急いだ。なにしろ長年の願いが叶うかもしれないのだ。
 それなのに美菜ちゃんときたら鳥居の前を素通りしようとして、僕は首輪で首の横を思い切り引っ張られてしまう。
(な、なんだよ、頭に来るな。)
 僕は慌てて三回吠えて境内の方に美菜ちゃんを引っ張った。
 すると美菜ちゃん、手綱を引っ張り返して言う。
「竜助、神社で何をしようってのよ。」
(お参りに決まってるだろ、そんなこともわかんないなんて、あんたの脳味噌、腐ってんじゃないの?)
 僕は美菜ちゃんの手綱を思い切り引っ張って、石畳を進もうとする。
「しょうがないわね、粗相しちゃだめよ。」
 美菜ちゃんはあきらめて社殿に向けて歩き出した。
(たくっ、犬をばかにしてくれるよな。僕は神様に大事なお願いがあって来たんだぜ。‥‥でもお参りに来た記念に隅っこの木にマーキングしとくってのもおつだよな。)
 僕は鳥居の脇の樹木の横に行くと、サッと後ろ脚を跳ね上げた。
「あ、竜助、だめよ」と美菜ちゃんは叱ったけど僕は知らんぷりだもんね。こんなの人間がおみくじを木に結ぶのと一緒じゃん。
 境内に入ったのは初めてではなかったけど、願いが叶うんだと思って見る社殿はいつもよりきらきらおごそかに映るわん。

 石畳の参道を進んでゆくと、手水の隣に藤棚があって、町内のご隠居佐伯さんが長椅子に碁盤を置き新聞と首っぴきで碁石を並べているのが近視の僕の目にも入った。ご隠居さんはふっと振り向き、少し顎を引いて老眼鏡の上縁越しに美菜ちゃんと僕を見る。
「お嬢ちゃん、犬の散歩かい。」
「あ、はい。」
「名前はなんと言うのかな?」
「はい、わたしは美菜で、犬は竜助です。」
「そうかね、どちらもいい名前だ。」
ご隠居は満足そうに微笑し、美菜ちゃんは一礼して足早に僕を引いて社殿に向かった。 僕によくわからないのは、ご隠居はなぜいつも同じ質問をしてくるのかということ。ま、いいや、それよりお参り、お参り。幅のある階段を上がると、木の箱があって、美菜ちゃんは金属のおはじきを出して投げ入れる。僕は木の箱の前に垂れ下がっている綱に噛みついて引っ張った。しかし音はかすかにゴロロッとしただけ。
「貸してみなさいよ。」
 美菜ちゃんは僕が噛みついたままの綱を持つと大きく前後に揺すった。
 ガラララアン。
 大きな音に美菜ちゃん得意顔。
「わたしの勝ちね。」
(ふん、こんなことに勝ち負けなんて、くだらんわん。) 
 僕は深呼吸して、その場で三回くるくる回り、ワンワンと吠えた。
(神様、僕を人間にしてください。
 人間に変身したら、あの金色のガラガラを美菜ちゃんより大きな音で鳴らして勝ってみたり、御主人様やお母さんと話をしたり、雨の日は祐一さんと家の中のカーペットでゴロゴロしたり、御主人様みたいに朝出掛けて会社に行ったり、マージャンをしたり、お酒を飲んで帰ってきた時は玄関の前で眠り込んだりしたいんですよ。どうか人間に変身させてください。もし人間にしてもらえたら、庭の地面の中に隠してある骨を半分、いえ、みんな、神様に差し上げちゃいます、持ってけ泥棒ーっ。)
 そこへ美菜ちゃんがプッと吹き出す音がした。
「竜助、おまえ、お祈りの真似なんかしてどうしたの?」
(真似じゃないわい、真剣な願い事じゃわん。)
 僕は反論してその場に座り込み、自分の体を振り返った。しかしまだ変身しそうな感じはない。
(しかし、小学生は一晩かかったと言ってたから焦ることないね。もうすぐ人間に変身だぞ、ふふっ。)
 すると美菜ちゃん、ひとこと。
「竜助、顔がたるんでるよ。」
(ムッ、こんなハンサムなレトリバーの笑顔をたるんでるとはひどい。)
「さあ、帰るよ。」
(ふんだ、)
 僕は尻尾をぴんと伸ばして階段を駆け降りた。

 神社を出てゆるやかにカーブした道を歩いてゆくと、向こうからマルチーズのちなつさんが飼い主のおばさんに連れられてやって来るのが見えた。僕は嬉しくなって挨拶を送る。
「ワン、ウワン、ウワン。(こんちは、こんちは、こんちは)」
「ワン、ワン。(まあ、こんにちは)」
 さらに近づくと美菜ちゃんとおばさんも挨拶を交わす。
「こんにちは、」
「いい天気になったわね。」
「ええ。」
「あんたの学校もテスト終わったでしょ‥‥‥、」
 僕はちなつさんの横について優位のポーズを取ると、
(ね、ね、俺ね、もうすぐ人間に変身するんだよ。)と話しかけた。
(どうして急にそんなこと思いついたの?)
 ちなつさんはびっくりしたというふうに目を見開いて尋ねてきた。
(うん、さっき公園で、小学、いや、大学のうんと偉い学者がね、犬が人間に変身する方法を話していたんだよ、どう、すごいだろ?)
(ふうーん、で?)
(だから、その方法をたった今やってきたところ。)
(あーらそう、で、いつ人間になるの?三年後?五年後?)
(はっきりわかんないけど、たぶん今晩だと思うよ、)
(まあ、そんなに早く?もう、あなたの匂いも嗅ぎおさめってわけね。)
(そんなに寂しがるなよ、ちなつさんのことは忘れないから。それに人間になってからも時々電柱にもおしっこひっかけて俺の匂いつけておくからさ、それで愛しい恋犬の匂いをしのんでくれよ。)
(あんたって、やっぱり、しょってるわね。) 
(グゥフフ、そんなに褒めるなってば、)
(‥‥‥。)
 ちなつさんはコショーでも嗅いだみたいに顔をしかめたので、僕は(僕が涙が出そうなら、このべろでぺろぺろ拭いてやろうか?)とやさしく尋ねた。
(たくっ、あんたはおめでたい犬ね。)
(あ、ありがとう。)
(うーん、頭が痛いわ‥‥‥。)
 ちなつさんが首をかしげた時、近くに雄犬の匂いが漂って来た。
 振り向くとこの辺りで野良犬ナンバーワンのボクサー犬、ロッキー・チャンプがこっちを睨みながら寄ってきている。こいつは今は完璧な野良犬なのだが首には昔の御主人につけてもらった首輪がついていたし、人間には悪さをしないので保健所に通報されることもなく、この六キロ四方の野良犬社会を仕切っているのだ。
 僕も体の大きさでは勝っていたが、こいつは苦手だ。そこで服従の意志を見せるため尻尾を巻きぎみに姿勢を低くした。
(やあ、ロッキーさん、)
 ちなつさんも遅れずに挨拶する。
(こんにちは、ロッキーさん。)
(よお、二匹とも元気そうじゃねえか。ところで竜助、)
 名前を呼ばれて僕は緊張して(は、はい、)と言った。
(おめえ、どっかで最近の俺の噂を小耳にはさんでねえか?)
(いいえ、)
(なんだと?誰も良い噂してねえのかよ!)
(あ、違います、悪い噂は聞いてないと言いたかったので、良い噂は毎日耳にしておりますです、)
(ほお、どんな噂だ。)
(それは、ロッキーさんはひょっとしたら一番強いんじゃないかという噂で。)
 すると突然ロッキーは僕の脇腹に体当たりしてきた。美菜さんは犬同士でじゃれているのだと思ったのかおばさんとの相手になったままで助けてくれない。
(痛っ、何するんですか。)
(ひょっとしたらってのはなんだ、俺をなめやがって‥‥‥『絶対』に決まっているだろ。)
(も、もちろん僕は絶対ロッキーさんが日本一だと思ってます。)
 するとロッキーはもう一度体当たりしてきた。
(なんだと、『世界一』じゃないのかよ。)
 そう聞かれた時、いつもならもちろん世界一ですと答えるのに、その日の僕はもうすぐ人間に変身できるということでテンションが高かったからつい投げやりに答えてしまった。
(どっちだって同じじゃありませんか。)
(アホ、日本で一番でも、すぐ世界で一番とは限らんだろうが、)
(僕はもうどの犬が一番強いかなんて興味ないんですよ。)
 僕は勢いでそう言ってしまって後悔した。ロッキーは眉間にしわを寄せて尋ねてくる。
(じゃあおめえは何に興味あるんだ、ああ?)
(僕がきょ、興味あるのは‥‥‥、に、人間に、へ、へっ、)
(人間に屁でもひっかけることか?)
 ロッキーはものすごい顔を近づけたが、僕はこれこそ神様が僕に与えた試練のような気がして、覚悟を決め開き直って言った。
(人間に、変身することです。)
 一瞬、ロッキーは口を開け、次の瞬間、いままで見せたこともないくずれた顔になった。
(へーッ、ヘッ、ヘッへッ、お、お、おめえが、に、人間に、へ、へ、変身するだと?)ロッキーは千匹の蚤にくすぐられているように胴をよじって、だらりと垂らした舌からよだれをこぼした。
(サ、サイコー、おめえ、サイコー、ヘーヘヘヘッ、俺が犬生の中で聞いた、さ、最高のジョークだぜ、ヘーヘッヘッ、苦しい、い、息ができねえ、心臓でフィ、フィラリアの野郎がダンスしてるみてえだ、クーックックッ、人間に変身だと、ヘーヘッヘッ、)
(僕は真剣ですよ。)
(オウ?ファーファッファッ、真剣だと、た、助けてくれ、笑いが止まらねえ、へーヘッヘヘッ、てめえ、俺を笑い殺しにする気か、ヘーヘッヘッ、ヒーヒッヒッ、)
 ロッキーはアスファルトに背中や腹をこすりつけながら、目には涙を浮かべておかしがった。これには美菜ちゃんもおばさんも変だと気づいてロッキーを白い目で見た。
 ロッキーはなんとか笑いをこらえて真顔で立ち上がった。
(竜助、よく覚えとけ、この世で一番優秀な生き物は犬なんだぞ、たしかに人間たちは俺たち犬より強い機械を作り出したがな、根性はないし、身勝手だし、犬身売買を商売にして暮らしてるような、たいしたことない下等な生き物だぞ。犬を捨てて人間なんかに成り下がろうなんて、ケッ、おまえはやっぱりアホんだらだぜ、)
 そう言い放ったロッキーは肩で風を切るようにして立ち去った。

 僕とちなつさんはロッキーの後ろ姿を見送ると顔を見合わせた。
(わたしは犬が一番だなんて思わないな。)
 ちなつさんがふっとつぶやくと僕もうなづいた。
(あ、ありがとう。)
(あ、別にあなたに味方する意味で言ったんじゃないけど、)
(じゃどういう意味?)
(でも、あなたが嫌いって意味じゃないから心配しないで。)
(デヘヘッ、照れるなあ、やっぱり僕のこと好きなんだ、)
(また始まった、)
 ちなつさんは何かに呆れたみたいだったが、聞き返す間もなく、人間たちが別れの挨拶を始めた。
「じゃあ、私、これから、いったん家に帰って、また買い物に行かなくちゃならないから、またね、」
「はい、あきちゃんによろしく、」
 僕とちなつさんはそれぞれ美菜ちゃんとおばさんに引かれて別々の方向に歩きだした。 

      3 ご隠居の正体

 僕はミルク色の靄に包まれた公園に向かって歩いていた。公園の入り口に来ると靄は抹香臭い匂いがしていて、僕は中に入るのを躊躇した。いつもなら槙野家の誰かが一緒なのに今日は匂いさえしない。しばらく僕はどうしたんだろうと考えてみたが、やがてこれはきっと夢なのだと気づいた。僕は安心して靄の内側に踏み入った。
 五メートルも行かないうちに靄は跡形もなくなり、僕は目の前の光景にアッと息を呑んだ。
 犬小屋を六十軒並べたら他に何も入らないはずの小さな公園がサッカー場より広く、その中央には高さ三メートルぐらいのとんがり帽子形のテントがあり、そのテントに向かってさまざまな動物が宙に浮いたまま一列に並んでいた。カモノハシ、シマウマ、イグアナ、キリン、ムササビ、フラミンゴ、バッファロー、インド象、アライグマ、カバ、ヤギ。 僕は列の一番最後にいた茶毛のウサギに近寄って尋ねた。
「これはなんの行列だい?」
「決まってるだろ、ありがたい行列さ。」
「というと、もしかしてビーフジャーキーの試食会とか?」
 僕が言うとウサギは目を赤黒させて言葉を失い、代わりにウサギの前にいたゾウウミガメが体を回転させて頭を向けてきた。
「君はゴオンチョウに呼ばれてきたんじやないのかね?」
 僕は慌ててうなづいた。
「そ、そうです、僕もゴオンチョーで、」
「ふむ、じゃあ誰に呼ばれてきたんだい?」
「そ、そりゃ、か、神様ですよ。」
「ならいいよ、あんまりふざけたことを言うからモグリかと思ったよ。」
「ハハッ、犬かきはしますけど、潜りは苦手で。」
 僕は笑ってごまかしたものの、ゴオンチョーの正体はまだわからなかった。とにかく、並んでる動物たちはみんな嬉しそうだし、テントの中からも悲鳴なんかは聞こえてこないし、悪いことはなさそうだ。
 やがて順番が巡り、茶毛のウサギがテントの中に消えて、しばらくすると『竜助、入りなさい』と呼ばれた。
 僕がテントの中に入ると、そこの天井は八百メートルはありそうで、部屋の中央には大理石の椅子があり、ご隠居の佐伯さんが白いシーツを体に巻き付け、杖を持って座っていた。
「竜助、よく来たな。」
 ご隠居は柔和な笑みをたたえて言い、僕も挨拶した。
「こんにちは、今日は五目並べはしてませんね、珍しいや。」
 するとご隠居は妙に改まった口調で言う。
「竜助、おまえの願いを叶えてしんぜよう。なんなりと申してみよ。」
「あ、それはもう神様にお願いしてあるからいいんですよ、ご隠居に言ったところでしょうがない‥‥‥、」
「よいから、わしにも言うてみよ。」
「そんなに聞きたいなら、減るもんじゃないし‥‥‥、実はですね、僕は人間になりたいんですよ、それもあっと言う間に変身したいんです。」
「よかろう、願いは叶えてしんぜよう。」
 ご隠居が杖で床をトンと突くと、ご隠居の体から目映いプラチナ色の光の束が周囲に放たれ、僕の体を光の繭で包んだ。僕は「アーッ」と声を上げた。そうだったのか、五目並べのご隠居とは世をしのぶ仮の姿、しかしてその正体は神様だったのだ。
「竜助、次に目が覚める時、お前はおのれの願いがかなったことに気づくであろう、さあ、行け、行くのだ。」
 僕は光に包まれたまま星空に向かって飛び出した。きらきらと渦を巻く銀河を眺めながら僕はご隠居に「ありがとうございます」と言うのを忘れてたと気づいた。
(まあ、いいや、どうせ明日も境内で五目並べをしてるんだろうから、その時にお礼を言えばいいんだ)
 やがて前方に青いちっぽけな惑星が見えてきた。

      4 夜明け

 ブルルッと寒気がして目が覚めた。あれ、なんだろう?頭の中にカリフラワーでも生えたような気がする。目は覚めたけれど、どこかいつもと違っていた。
 僕はうっすらと開いた目をまた閉じると、何げなく片足の膝を腹に押し付け、その瞬間、心臓が止まるかと思った。ふさふさとした毛の感触がまったくなくなっていたのだ。かわりに肋骨の上に直接皮を張ったような情けない触感が不気味なほど鮮やかに伝わってきた。
 さては眠ってる間に近所の悪ガキに毛を毟られてしまったか!
 僕は目を見開いてさらに度肝を抜かれた。
 腹ばかりでない、腰からも、足からも、ことごとく毛をむしられたニワトリの皮のような黄色い皮膚が露出している。
 なんてことだ、町内のメス犬の媚びた視線を一身に集め、ドッグショーで堂々三位に選ばれ、匂いの届く限りで一番美しいレトリバーと噂された僕の、自慢の毛並みが跡形もなく毟られてしまうなんて。
 まさか、これって、ノストラダムスの有名な予言、七の月、因幡の白ウサギがふたたび泣くという一節の成就ではないか。うかつだった、まさか犬の自分がこんな目に遭うとは。スキンボディのゴールデンレトリバーなんて考えただけでも身の毛がよだつ、いや、身の毛もよだてられないじゃないか。
 犯人の見当はだいたいついている。近所の中学生のワタルがクサイ。以前、ワタルがすぐ近くの電信柱に立ち小便をしていて、そこへたまたま僕と祐一さんが通りかかった。僕が自分の匂いが流されるのが悔しくてウオンと吠えたら、びっくりしたワタルは跳びはねたはずみに電柱にあそこをぶつけ、さらに反射した小水でズボンをひどく濡らした。そこで祐一さんは素直に笑ってしまい、その場でゲンコを食らったのだが、やつはあの時のことをまだ根に持っているのに違いない。ウウーッ、そっちがその気なら、こっちも思い切り噛みついてやるう。
 僕は鬱屈した思いで復讐を決意しながら、尻尾のあたりを確かめようと後ろ足の股間を覗き込んだ。すると視界に黒っぽい茂みがあった。よかった、わずかながらもここに毛が残っていたぞ、と僕はひとしきり喜んだがその喜びはすぐにしぼんだ。よく見るとその毛はまるで火事の中で焼け残ったかのようにみっともなく縮れていて、とても自慢できるような毛並みではない。でも毛はいずれ生えてくるから少しの辛抱だ。僕はそう自分を慰めて気分を切り替えようとした。その時、新たな不安が生まれた。
 どうもお尻のあたりの風通しがよすぎるのだ。僕は後ろ足を開いて、おそるおそる股間を覗き込んだ。
 するとなんたることだ。茂みの脇の尻尾だと思ってたものはお尻から生えてるのではなかった。何だ、これ。僕は前足でそのおかしな尻尾を触れてみた。
 突然、今まで味わったこともないいやらしい気持ちが起きてきて、鈴木さんちのリンダや島田さんちの早苗の背中の感触が腹に欲しくなって、その尻尾は勝手に固くなった。どうやら、尻尾だと思っていたものは腫れて収まりのつかなくなったオス性器らしい。それにしてもなんて恥知らずなんだろう。神様の決めた交尾シーズンでもないのに、こんなに興奮するなんて、僕の体は変態になってしまったんだろうか。
 それより尻尾はどこにいったんだ?僕は急いで前足で股間の向こう、お尻のあたりを触ったが、自慢の尻尾は跡形もなくなっている。
 なんて惨いんだ。こんな残虐事件は聞いたことがない。格好よい犬にとって不可欠な条件である尻尾が切り取られるなんて‥‥‥。僕はこれから味わうはずの苦しみに頭を抱えた。
 鈴木さんちのリンダも島田さんちの早苗も宮川さんちのちなつも、毛が毟られただけなら許してもくれ、いたわってもくれるだろう。しかし、尻尾がなくなったことを知ったらきっと幻滅するに違いない。どこのブリーダーでも尻尾のない子犬が生まれるのを恐れて僕にいいコを紹介してくれないだろう。スコットランドの伯爵家にまで溯る僕の血統もここに尽き果てるのだ。ああー、なんということだ。
 目からよだれに似たものがこぼれ落ち、僕はそれを前足で拭った。
 その時、ふと前足を見つめた僕は、その先がまるでご主人様の前足みたいに深く裂けていることを発見した。
 まるでご主人様みたい‥‥‥?
 慌てて前足で顔を撫でまわしてみると、顔の形もご主人様そっくりになっている。僕はそこでようやくさっき見た夢をはっきりと思い出した。
 そうだ、僕はご隠居の神様に願いをかなえてやると言われたのだ。それでついに変わったんだ、
 僕は人間に変身したんだ!
 僕は窮屈な犬小屋から這い出ると、人間たちがそうするように後ろ足二本で立とうと腰を上げてみた。
 バランスを取るのがむつかしくて、ちょっとよろけてしまったが、小屋の屋根を前足で踏んばって僕は二本足で立つことに成功した。
 庭に面した黒くて鏡みたいになってるサッシを眺めると、黒い頭の毛、べったり頭の横に張り付いた耳、大きな目、小さな鼻、赤い唇、胴に沿って生えた前足、太く長い足が映っている。これこそ、まさしく一匹の人間の姿だ。
 僕は変身した自分の姿をもっとよく見ようとサッシに近づいて首輪に引っ張られてバランスを崩し、朝露を含んでいる芝生の上に倒れた。
 僕は芝生の上に四つん這いになると頭を反らせて、まだブルーグレーの夜明けの空を仰いだ。
 今や、人間なのだから人間の言葉を話さなければと僕は人間の言葉を噛みしめるように呟いた。
「僕はとうとう人間になったんだ。」
 頬がふわっと暖かくなり僕は照れと喜びに満たされた。
 芝生の上に腹這いになった僕は、ご主人様と家族のみんなが起きてきたら、なんと報告しようかと考えた。
 ご主人様、竜助は神様のご隠居のおかげで、ご覧の通り、人間になりました。
 いやいや、待てよ、ご隠居が神様だってことは伏せておいた方がいいかもしれない、うちのご主人は口が軽いし、そうなると噂を聞きつけたマスコミがご隠居のところに殺到するだろう。ご隠居は心臓があまり強くないって奥さんが言ってたから、それがもとでぽっくりいかないとも限らない。よし、ご隠居が神様だってことは内緒だ。
 それにしてもご主人様や家族のみんなは大喜びしてくれるに違いない。きっと僕のことを世界中に自慢するぞ。僕も今まで一方ならず大切にしてもらってどんなに嬉しかったか、なのに人間の言葉が喋れないばかりに感謝の気持ちを伝えることができなくてどんなに歯痒かったかを思い切り伝えよう。
 思えばご主人様と家族のみんなが僕にかけてくれた愛情は世界中の蚤の総数よりも多いような気がする。
 奥さんの料理が失敗して家族のおかずが卵焼きと冷や奴とサラダだけの時でも、僕は牛肉百パーセントのドッグフードを食べさせてもらったし、毎週木曜日には美容院でカットシャンプーをしてもらい、金曜日にはペット専用ジムでスポーツを楽しめる。暑すぎたり寒すぎたりする時は犬小屋についているちょっとした冷暖房装置で温度をコントロールしてくれる。月に一度は医者のもとで健康のチェックも受けさせてくれる。
 昨日までの僕はご主人様の素晴らしい待遇に、せいぜい尻尾を振って吠えたり、ご主人様の手や顔を嘗めたり、訓練用語を覚えて命令を素早くこなしてみせるぐらいのことしかできなかった。
 しかし今日からは違う。
 僕は人間の言葉ですぐにお礼を言うことができるのだ。
 また今までは通じなかったおねだりも簡単にできる。散歩に行きたい時はこっちから「ちょっと公園までぶらぶらしませんか」と誘えるし、骨をしゃぶりたい時は「骨をもらえますか?」とお願いできるのだ。
 僕は期待でわくわくしながらご主人様が起きてくるのを待ち受けた。
 屋根の上でスズメたちが賑やかにさえずり始めた頃、不意に、四、五軒先で自転車のブレーキが響いた。新聞配達の少年の自転車だ。こんなに近くに来るまで彼の音や匂いに気がつかなかったのは初めてだ。でもこれも僕が人間になった証しだと思うと嬉しくなってくる。
 昨日までは、まず彼が門から庭の僕を覗き込み、僕は軽く二回ワンワンと吠え、彼もにっこりと微笑みを返してくれるのが習慣だったが、今や人間になったからには人間の挨拶をしてやろう。きっと彼も感激して爽やかな挨拶を返してくれるに違いない。でも、こんな時はなんと挨拶したらいいんだっけ‥‥‥。僕は奥さんが朝によく使うフレーズを思い出して暗唱し、彼の姿を待ち受けた。
 やがて門の三段の階段を駆け上がる音がし、彼の頭が覗くと、僕は芝生に座ったまま片方の前足を振って言った。
「まあまあ、おはようございます、先日はどうも、」
 一瞬、新聞配達の少年はきょとんとして僕を見つめた。かと思うと見る見る表情を引き攣らせた。
 僕は発音が悪いか声が小さかったのだと思い、もう一度挨拶した。「まあまあ、おはようございます、先日はどうも、」
 すると少年は新聞をその場に放り出し、あっと言う間に自転車に飛び乗り逃げるように走り去った。
 こっちがきちんと挨拶したのに一言も返事をしないなんてまったく礼儀知らずの少年だ‥‥。僕は自分の最初の人間型の挨拶に答えてもらえなかった寂しさを味わいながら、ご主人様が『近ごろの若い者は‥‥、』と嘆く気持ちがよくわかったような気がした。       (後編に続く)


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      §6

 それから十日間ほど、トシはたまの挨拶メールの他は、用のない電話を二、三度かけてきただけ、会うことはありませんでした。

 その間、毎晩、私は薬包みを開いては、正露丸によく似ている金龍丸を眺めては、トシのことを思って、声を聞きたい気持ちが抑えられなくなると、何度か電話をかけてしまいました。
 できればトシを誘いたかったのですが、結局、(特に用はないんだけど)と切り出して、今日の出来事をとりとめなく報告しただけで終わってしまいました。
 
 さらに二日後の午前0時すぎでした。
 ドアが三回ノックされました。
 私は駆け足になりそうなのを押さえて、玄関に行きました。
「トシ?」
「ああ、毎度申し訳ない、今晩、泊めてくれないか?」
「しょうのないひとね。」
 精一杯迷惑そうに言いましたが、心は嬉しくてスキップしたいぐらいでした。
 赤らんでいるに違いない顔に気付かれないか心配しながら、ドアを開けると、トシは私にぺこんと頭を下げると、ソフアに直行し、いつものように水を1杯ねだります。
「ありがとう。」
 トシはそう言うと、ソフアに横になってしまいました。
 私はトシのスーツをハンガーにかけて、眠りに落ちてゆく、彼の顔を眺めました。
 そしてハッと思い出しました。
「トシ、コンタクト、コンタクト!外さないと貼りついて大変なんでしょ!」
 私が激しく揺さぶると、トシは「ああ」と言って上半身を起こします。
 私がスーツの内ポケットからコンタクトのケースを出して渡し、トシは慣れた手つきでコンタクトレンズを外し、ケースに収めました。
「ほいじゃおやすみ」
 トシが再びソフアに伸びて眠ると、私は毛布をかけてあげて「これでいいわ」とつぷやきました。
 トシの持ち物の中から、どれかを身に着けて、あの金龍丸を飲めば、私はトシの心の中をすっかり見通せるかもしれないのです。
 ハンカチ、腕時計、手帳など、いろいろ手にとってみましたが、結局、私はトシのコンタクトレンズを選びました。
 なにしろコンタクトは他のどんな物よりも、トシに密着しているし、その時間も他のものには比べ物にならないほど長いのですから、一番ハッキリとトシの心が見通せるに違いないと考えたのです。
 私はトシの心の真ん中に自分の姿があったら、どんなに嬉しいだろうと思うだけで、心臓がドキドキと高鳴るのを感じました。

 私はテーブルのトシの向かいに座り、彼がつける時の様子を真似て、左手で瞼を開き、右の人差し指に乗せたコンタクトレンズを目に近づけます。
 しかし、コンタクトが目に近づくと、目に固いものが入る怖さのせいで反射的に瞼が閉じようとして、コンタクトが収まる大きさまで瞼を開けていられません。
 こんなことであきらめないわよ。
 私は自分に言い聞かせて、自分の瞼と格闘を繰り返すうちに、ついにコンタクトレンズは私の瞳に納まってくれました。
 しかし、視力のいいのだけは昔から自慢だった私にとって、トシの目にあわせたコンタクトを通してみる世界は、プールの底みたいにぼんやりと歪んでいました。
 私は手探りに近い状態で金龍丸の薬包みを手にとり、コップに水を満たして、目をつぶって金龍丸を飲み込みました。
 苦味と甘味と酸味が舌に広がり、熱をもった金龍丸の塊が喉から胃に降りてゆくのがわかりました。

      §7

 まだ目はつぶったままでしたが、目の前にどこかの部屋の光景が見えてきました。
 それは私の1DKのマンションとは違う、広いリビングで、シンプルだけどどっしりした北欧調のテーブルとソフアがあり、壁のキャビネットにはヨットの模型が乗っています。
 やったあ、金龍丸は本物だったんだ。
 これはトシの心の中の夢に違いないわ。
 私は歓喜しながら、目をつぶったまま映像を見つめました。 
 視界はリビングから、キッチンへと移動してゆきます。
 ここが私の料理する場所かあ。
 広いテーブルに、圧力鍋、ハンドミキサー、ミンチマシンが並んでいます。
 私はもう少しゆっくり見たかったのですが、視界は廊下に出て、寝室に入りました。
 ダブルベッドがあり、脇の扉を開けると、ワイシャツの棚が並び、直角に向くと、大きな姿見があり、鏡に少し歳をとったトシの裸の上半身が映っていました。
 一瞬、慌てて隠れようとしましたが、これは夢の映像なんだから、トシは見ている私には気付かないのだと思いついて、トシに見とれました。
 トシはTシャツを着ると鍵を持って、玄関から出ました。
 エレベーターで地下の駐車場に降りると、銀色のスポーツカーに乗り込み、街へくり出しました。
 やがてスポーツカーはファミリーレストランの駐車場に入り、トシは店の中に入ってどんどん歩いてゆき、ボックス席の前で止まります。
「やあ、待った?」
 トシが声をかけると、そこで幼児をあやしていた主婦が顔を上げました。
 私でした!
 トシはなんだかんだ言っても、やっぱり私のことを結婚の対象として真面目に考えてくれてたんだ、やったあ!
 眺めている私は嬉しさのあまり舞い上がりそうでした。
「ううん、全然」
 そこでトシの妻であるはずの私はトシにおかしな挨拶をしました。
「ずいぶん久しぶりね。」
「ああ、唯美ちゃんも大きくなったねえ。」
「ほら、唯美、おじさんにご挨拶は?」
 主婦の私がせかすと、ふわふわの髪をした幼女が言います。
「こんちわ。」
「ちゃんと挨拶できるんだ。偉いね。」
「もう、朝から晩までうるさいぐらいよ。
 トシはまだ結婚しないの?」
「いや、もういいんだ。
 最近は結婚しない方が楽に思えてね。
 いい部屋に住んで、スポーツカー乗り回すなんて、結婚して子供できたら無理だろう。」
 眺めていた私は映像に向かって叫びました。
 冗談でしょう!トシは私を結婚相手として意識してきた筈なんだから、私と一緒にならないなんておかしいわ!そんなの納得できないよ!
 主婦の私は、こっちの気も知らずに、のんびりと言います。
「昔さあ、私がお嫁に行けなかったら、貰ってくれるって約束したの、覚えてる?」
「え、俺が?久美に?そんな約束しないだろう。」
 何言ってるの!そんな約束、しないだって!
 私はめまいで気が遠くなりそうでした。
「やーね。物忘れ激しいんだから。
 トシも考え方、すっかり変わっちゃったねえ。
 昔は和服が似合って料理がうまい嫁さんほしいとか言ってたじゃない。」
「そうだったね。
 でも料理は惣菜買えば済むし、女はほどほどの遊びにとどめた方が楽だって気づいて、今は独身主義だからな。
 とにかく家庭の幸福部門は久美に任せたよ。」
「まあ、皮肉たっぷりね。
 うちだって細かいこと言い出したらいろいろ大変なことばかりなのよ。
 でもダンナもダンナなりに大変みたいだしさ。
 でも、私もこの子がいるから頑張っていけるの。
 子供ってね、自分が産む前は面倒だなって正直思ってたけど、こうして産まれてきてくれると、もう無条件で愛しくて。
 自分の生命の分身がこの世にあるって、最高の幸せだよ。
 トシもさ、家庭の幸せに背を向けないで、思い切って結婚してみなよ。」
 主婦の私は熱く語りましたが、眺めている私はただ呆然としていました。
「そう簡単に言うなよ。
 第一、相手が必要だろ。」
「相手なんて、どこの誰だっていいのよ。
 子供が出来たら、トシの世界観がすっかり変わるよ、絶対に。」
「なんだか、説教のために呼び出されたみたいだなあ。」
 トシは笑って、運ばれてきたアイスコーヒーを飲みました。

 私は、もうこれ以上、トシの心の映像を見たくありませんでした。

 結婚できなかったら貰ってやると約束してくれたから、私は無意識のうちに、トシも心の中では私を結婚相手として意識してるに違いないと思い込んでいたのです。
 しかし、トシは私のことをまったく異性として意識していなかったようだし、結婚のケの字も考えたことなどなかったのでした。
 エミが言ったように、身近に親しくしながら、数年、何もなくすぎた男女が恋に落ちる可能性は永久凍土に閉ざされているのでしょう。
 気がつくと、トシの心の映像は終わっていて、私はテーブルに顔を伏せて、声を殺して泣きました。

      §8

 私はカーテンにしらじらと射す明かりに目を覚ましました。
 テーブルに顔を伏せたままの格好で、いつの間にか眠ってしまったようでした。
(いけない、コンタクトが目に貼り付いてるかも)
 私は慌ててコンタクトレンズを外しにかかりました。
 しかし、それはあっという間に外れました。それは私が寝ながらもずっと泣き続けていたせいで、貼り付くひまがなかったせいで、涙で滑るように外れてくれたのでした。

 昨夜の出来事を何も知らないトシは、いつものように起きて、私の用意した朝食をおいしそうに食べ始めました。
「助かったよ。いただきます。」
 トシはいつものように宿泊代を差し出します。
 私は微笑みを作って、押し返して言います。
「今日はいらないけど、この次からはきちんとルームチャージと朝食代取るからね。」
 トシは突然の私の提案に驚いたようでした。
「あ、う、うん。
 わかった。じゃお礼の食事会はいつにしようか?」
「それはもういい。
 これからはお礼の食事会はなしにしよう。」
 私は目が覚めたときから、これからはトシと距離をおいていくことに決めていたのです。
「どうしたんだ?
 あ、とうとう、いい男が出来たんだ?」
 トシが勝手な想像をすると、私は笑い飛ばしました。
「ううん、出来たら、トシにすぐ紹介するって。」
「なんか、今日の久美、よそよそしいぜ。」
 不思議がるトシに、私はズバリと。
「そうじゃなくて、今までが馴れなれしすぎたのよ。
 私たち、男と女なんだから、あまり仲良くすると、変に誤解されちゃうわ。
 それは私も迷惑だし。」
 トシはびっくりしてうなづきました。
「うん……そうかもしれない。
 わかったよ。けど、急にそんなことを言い出したのは、何か特別な理由があんのかい?」
 私の答えは大きく首を左右に。
「理由なんてないわよ。
 ただ、私も適齢期だし、結婚したいからね。」
 私はトシの独身主義に最大限の反発を込めて、もう一度「結婚したいからね」と繰り返しました。すると、胸の奥で涙が溢れるのを感じました。
 トシは「ああ」とぼんやりうなづきました。

 私は玄関で、出かけるトシに事務的な口調で念を押します。
「今度から泊まりたいときは電話で予約の確認をしてね。」
「うん、わかった。」
 迷惑だとまで言ったのですから、おそらく、もう二度とトシが泊まりに来ることはないでしょう。
 今、この瞬間、トシと私の距離がどんどん開いているんだと感じて、私はもう少しで泣きそうでしたが、なんとか涙はこらえて、乾いた笑みをこさえました。
「あ、あれ、久美?」
 トシはまばたいて私を見つめました。
「何?」
 私が聞き返すと、トシはまたまばたいて、私の顔を見つめました。
「何よ?」
「いや、なんでもない。
 じゃ、いってきます。」
 トシは玄関から出ると首を傾げて歩き去りました。

      §9

 その日の夜、トシからメールが入りました。

《どうしても今晩会いたいんだ、時間作って出てきてくれないかな?》

 でも私は辛くなるのでもうトシには会いたくありません。

《メールに用件を書いてくれれば済むでしょ》

《メールじゃ駄目なんだ。直接会って話したい》

《ごめんね。今日はなんか体調がよくないの》

《そう。じゃあ外はよそう。久美の部屋に泊めてくれる?》

 私はちょっとムッとしました。迷惑だと言ったのに、今日また泊めろとは図々しいにもほどがあります。

《ごめん。そういうの迷惑なの》

《僕のことがそんなに嫌いなのか?》

 私はドキッとして、何も返せなくなりました。
 好きでなくなろうとしているけど、嫌いと言い切るには遠い気持ちなのですから。

 なんとか返事を考えようとしていると、いきなり玄関のドアが三回ノックされました。
 私は仕方なくドアのそばに立ちました。
 するとトシの声が言いました。
「押しかけて悪い。
 でも、俺、久美に直接会ってあやまりたいんだ。」
「何をあやまるのよ?」
「久美の気持ちをきちんと確かめなかったことだよ。
 俺、そうかなって感じたことあったけど、確かめなかった。」
「何言ってんだか、わけわかんないわよ。」
「だから、それを説明するから、ちょっと入れてくれよ。」
 私はムッとした顔で目を合わせないようにして、トシを中に入れてやりました。
 するとトシはいきなり私の手を自分の両手で包んで言いました。
「僕は久美が好きだ。
 今まで久美の気持ちに気付かなかったり、答えなかったりしてきたけど、今は確かに言える。
 久美が好きだ。」
 息が止まりそうでした。
「……嘘、酔っ払ってるんでしょ。」
「酔ってなんかいない。
 本当に久美が好きなんだ。」
 トシは熱にうかれたように言いましたが、私はトシの手をふりほどいて、驚くほど冷たく突き放しました。
「おかしいわ。
 今まで六年間、そんな気配もなかったのに急に好きになるなんて考えられないわ。」
「真剣だよ。」
「嘘よ。私は昨夜、あなたの心の中を確かめたのよ。」
 私はトシの嘘の決定的な理由を言ってやったつもりでしたが、彼も言い返しました。
「俺も今朝、久美の心の中を確かめたんだよ。」
「えっ?」
 私はトシが何を言い出すのか、言葉を待ちました。
「朝、俺を玄関で見送る時、久美はぼろぼろ涙を流していた。」
 あの時は泣きそうだったけど、なんとかこらえて一滴もトシの前では涙は流さなかったのでした。
「嘘、泣いてないわよ。」
「うん、ぼろぼろ泣いてるのに喋る声は普通だからおかしいなと思ったんだ。
 そして通勤電車の中でふと目をつぶったら、久美の映像が見えたんだ。
 例によって泊まりに来てソフアで眠り込んだ俺にお前が(トシ、好きよ)って言ってる映像がくっきりと見えたんだ。」
「ま、まさか、それってまるで……」
 私はハッと思い当たりました。
 もしかしたらトシのコンタクトをしたまま、私がぼろぼろ泣いてしまったせいで、そのコンタクトをつけたトシは、私の涙と、涙にしみだした金龍丸の成分を取り入れてしまったのです。
 それでトシは私の心を見ることができたのではないでしょうか。
「久美は就職した頃から俺のこと、好きになってくれてたんだな。
 花火を見に行った時、ラブレター書いてくれてて、バッグの中にあるのに結局渡せなくて、部屋に帰ってから泣いてる久美の映像もはっきり見えた。
 プラネタリウムに行った時、お前がキスされてもいいなと思ってるのに俺は星座ばかり見ていたし、海に行った時、お前はちょっとダイエット成功して俺にほめられたくてうきうきしてたのに、俺はよく見もしないで「また太った?」なんて言ってしまったし……。
 俺は久美の気持ちを全然知らないでいた。」
 私は恥ずかしさと怒りで真っ赤になってしまいました。
「久美にそんなに慕われているってわかったら、すごく感激しちゃったんだ。
 そして俺のことをこんなに好きになってくれるのは久美だけだって思えた。
 そしたら、自分の無意識に前からあった久美への好きな気持ちが急に膨らんできてさ、実は俺も学生の時、久美にちょっと理想のタイプを聞いたことあったじゃん、そん時の久美の答えがさ、マンガだか、アイドルだかのなんたらこんたらでさ、これじゃあ俺は無理だとあきらめたんだよな。
 だけど今、俺は久美のこと……、」
 今、目の前のトシは、大きく手振りをしながら、自分がいかに私を好きなのかを、一生懸命に、熱っぽく語っています。
 でも夢見心地の私の胸には恋の報われた喜びが、鼓動より速く強く駆け巡って、トシの声が聞き取れないほどでした。
「……だから、俺とつきあってほしいんだ。
 久美の気持ちはどう?」
 トシが私に返事を求めると、私はうなづきました。
「もちろんいいわ。
 トシも、ようやく宇宙の果てまで見える望遠鏡を手に入れたようね。」
 そう言うと、トシは頭をかいてうなづきました。   <了>

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         §1

 深夜。チャイムを使わず、ドアが三回ノックされました。
 もしかしてトシかもしれない。私は読みかけのファッション雑誌を裏返しに置いて、鏡を覗いて髪を手ぐしで整え、玄関に行きました。
「誰?」
「あ、俺、北村だよ、終電に乗り遅れちゃってさ、歩いてきた。
 泊めてもらえると助かるんだけど。
 もっともいい男が来てたら遠慮しとくよ。」
 私は嬉しさを隠せないまま、返します。
「幸か不幸か、いい男は不在ですよ。」
 ドアを開けると赤い顔をした北村俊也がアルコールの匂いと共に「恩にきるよ」と言いながら入ってきました。
「どうして終電に乗り遅れるまで、飲んでるのよ。
 明日も仕事あるんでしょ。」
「うん、なぜか十二時頃、急に時計が速く進むからさ、おかしいんだよ。」
「そんな、おかしなこと、ありえません。」
 トシはあぶなっかしい足どりでソフアまでゆくと、ドンと腰をおろしました。
 トシはネクタイを取りながら、
「久美、水くれる?」
 私は水をくんだコップを渡しながら、つい所帯じみた発言。
「あんまり飲みすぎると体に毒よ。」
「うん、そんな風に言ってくれるのは久美だけだよ。」
 トシがボーとしつつも私を見つめる視線に私はどぎまぎ。
「こ、こんな深夜に突然来られると、私もちょっと迷惑だから、言ってるのよ。」
「うん、感謝してますって。」
 水を一気に飲み干したトシは、スーツの内ポケットから小さなプラスチックの円筒形のケースを取り出します。
 そして、指で自分の瞼を開きながら、眠そうな声で、過去にも何度か聞かされた話をします。
「このレンズを外すのを忘れるとね、瞼とレンズと目ん玉が接着剤つけたみたいにくっついてさ、大騒ぎして救急車を呼んだことがあったんだぜ。
 恥ずかしかったなあ、あの時は。」
 トシは慣れた手つきで、開いた瞼からコンタクトレンズを外すと、円筒形のケースに収めます。
 トシはそんなにひどい近眼ではなかったけど、乱視が混ざっているのと、眼鏡だと疲れやすいという理由で、コンタクトにしてたのです。
 私が毛布を一枚渡してあげると、トシはそれを抱くように胸にかけ、「おやすみ」と言ってソフアに横倒しになると、寝息を立てました。
 私はトシの寝顔を眺めながら、うんと小さな声で「トシ、好きよ」と囁きました。

         §2

 トシとは大学のアーチェリー部で一緒になってから、たまに食事したり、映画を観たり、
ドライブに出かけたりしましたが、それはグループの時も、二人きりの時もあり、つまりは絶対に二人きりでなければという、異性としての意識は希薄だったのです。
 そのことはお互いに明言しあって、「いい恋人、見つけなよ」と言い合ってる仲だったのです。
 だから、二人きりで湖畔にドライブしても、トシは私から視線を外して水面から湧き立つ霧を追いかけ、私は白樺の林の中から白馬に乗った王子様が現れないかと想像していただけで、決してトシと見つめあいキスをするという風には進みませんでした。

 大学を卒業すると、私は外資系の派遣会社、彼は小型家電メーカーに就職しましたが、時々、終電を逃すと、トシのアパートはかなり郊外にあったので、都心から近い私の部屋を訪ねてくるようになったのです。
 私としては、トシの便利なホテル?になるつもりはなかったのですが、女って不思議なもので、男の寝顔を見ながら世話をしてると、なんだかこの男は私が世話してやらなきゃならない、私の男だ、みたいな気がしてくるんですよね。
 そしてぼーとした寝顔と、朝、凛々しいワイシャツの後ろ姿のギャップを見せつけられると、この男もなかなかカッコイイじゃないとドキドキして、初めてトシに恋心を感じた自分に気付いてしまったのです。
 しかし、友達関係が長かった男女は身近にいるがゆえに恋に発展するのは非常に難しいというのは、当のトシが大学時代に言っていたことでした。
 それは、大学2年頃、喫茶店でエミってコが言い出したのでした。
「男女の友情て絶対恋に発展しないって聞いたことない?」
「うん、なんか似たような話聞いたかも。」
 私がそう言うと、エミが説明してくれたんです。
「職場や学校、サークルなどで、身近にいながら一年間何も色めいた事も、ときめいた事もなく、それでいて親しく日常を共にする男女は、憎んでいる男女より恋に落ちる可能性が低いんだって。」
「ホントに?」
「世界一縁の遠い相手になってしまうんだって。
 そして2年、3年と年数がたてば、二人の恋の種は永久凍土のように凍り付いてしまい決して芽を出さないって。」
 そこで、トシがうなづいてクイズを出しました。
「これは相対性理論の科学者が作った問題なんだけど、もし無限に見通しがきく望遠鏡があって、それで宇宙の果てを覗くと何が見えると思う?」
 しばし、一同考え込むと、ユキちゃんが沈黙を破って、
「あ、わかった、行き止まりの標識!」
 どっと笑い声がおき、トシも笑いつつ「真面目な問題だよ。」
「えー、わかんないよ。」
 みんなが降参すると、トシが答えを明かした。
「それはね、望遠鏡を覗いている自分の後ろ頭なんだってさ。
 つまり、一番遠いのが自分なんだから、そばにいる友達は二番目に遠いってことかな?」
「へえー。」「ふうーん。」
 みんな、わかったようなわからないような感心の仕方でした。
 あれから5年たった今、まさに私とトシの関係は一番近いのに、恋には一番遠い関係なのかもしれないと、時々、思うこの頃なのでした。

         §3

 翌朝、トシは二日酔いの頭を叩いて「ゆうべの俺、酔っ払った勢いで久美のことを襲ったりしなかった?」なんて聞くんです。
 はっきりした意識と後で責任取ってくれるなら、そういう既成事実があってもいいかななんて、考えながら、私が「大丈夫、いいコしてねんねしてたわ」って言うと、トシは安心したようでした。
「少ないけどホテル代に受け取ってくれよ」
 トシが紙幣を差し出すと、私は笑って押し返します。
「いいわよ。男を泊めてお金を貰ったなんて、実家に知れたら、私、カンドウされちゃうわよ。」
「だって迷惑かけて、朝食まで作ってもらって……。」
 トシの目線がテーブルのトースト、ベーコンエッグ、サラダの間を泳ぐと、私はちょっと得意です。
「困った時はお互いさまよ。」
「サンキュ、じゃあ、今度、お返しに夕食をおごるよ。」
 私は思わず微笑みます。
「そうね、それぐらいは、してもらってもいいかな。」
「いつなら空いてる?」
 介抱した翌朝は、こんな感じでトシにデートの約束をとりつけるのが、私のささやかな幸福になっていました。
「来週なら水曜が空いてるけど」と言うと、トシは「オーケー」とうなづいてシステム手帳にメモします。
「いけね、今日は会議の準備があるから早く行かなきゃならないんだ!」
 トシは手帳から顔を上げると、慌ててトマトジュースを飲み干して立ち上がりました。
「久美のおかげで助かったよ。
 じゃあ来週水曜な。」
 そう言い残すと、トシは急いで玄関から出てゆきました。
 私はテラスに出て、トシがネクタイを肩の上までなびかせて走ってゆく後ろ姿を眺めました。
「ああ、トシの心の中をすっかり覗けたらな。」
 自然と大きな溜め息が洩れました。

         §4

 その日は、例の介抱のお返しで、トシにレストランで食事をおごってもらいました。
 それからバーでカクテルをご馳走になり、ほろ酔い加減で外に出ました。
 トシを意識していなかった学生時代は少しもそんなそぶりは見せませんでしたが、その晩の私はみずから罠に飛び込むウサギのように彼の腕にしがみつきました。
「ねえ、トシ、どっか行こう。」
 トシは笑って言います。
「あれ、久美、酒に弱くなったんじゃない?」
「そんなことないわ。」
「前はこれぐらいでびくともしなかったじゃない。」
「まあ、ひとをビルみたいに、失礼ね。」
「時間も遅いし、そろそろ帰ろう。」
 トシがそう言うと、私はキリッと睨みます。
「だめ、まだあ、これから遊ぶの!」
「まだって言ってもお互い明日も仕事あんだぞ。」
「構わないから、おんぶしてどっか連れてって。」
「ほんとに酒癖悪くなったな。」
 トシはしぶしぶ私をおんぶして歩き出しました。
 私はそうやって甘えながら、トシの背中に触れている胸で何かがあふれてじんじんと傷むのを感じました。
 そこには知らない間に出来たちっちゃな傷があるみたいでした。
 私は明るい口調を装って尋ねます。
「ねえ、トシ君さあ、ずっと前に、もしいい相手がいなかったら、私のことをお嫁さんに貰ってくれるって言ったことあったでしょ、覚えてる?」
 トシの答えはそっけないものです。
「うーん、言ったかもね。」
 私は、かもじゃないだろと思いながら、冷静かつ恥ずかしさをこらえながら聞きます。
「あれって、今でも有効なの?」
「急にどうしたの?」
 私は(おいおい、聞き返さないで質問に答えろよ)とイラつきながら、ぶりっ子ボイスで言います。
「ちょっと思い出したの。
 で、有効?」
「あれはさ、お互いが適齢期を寂しく終わった場合の仮定の話だろ?
 もしかして、お前にいい男でも出来たのか?」
 私はその言葉にトシが焦ってるのではと、ひと筋の希望の光を見出して、聞き返します。
「ううん、私のこと、心配してくれてるの?」
 ああ、なのにがっかりさせる冷たい答え。
「いや、心配なんかしてないさ。
 俺もいい女見つけるから、久美も早くいい男を見つけて片付けよ。
 どっちが早いか、競争だって言ったろう。」
 そう言われた私は、目の前で、鉄の扉をドスンと閉じられた気分になって、息が詰まりました。
「もう降ろしてよ。」
 突然、気まぐれに叫んでやると、トシは「ああ、疲れた、疲れた」と言って私を背中から降ろしました。
 その言い方も私の気に障りました。
「この先に変わったおでんの屋台があるんだ、行ってみよう。
 時々、映画俳優も来るみたいだよ。」
 トシが誘いましたが、私は断ります。
「もういい、私、帰る。」
 私が反対の方角に歩き出すと、トシはびっくりして追いかけてきて言いました。
「久美が帰りたくないって言い出したんじゃないか?
 屋台がいやなら、ディスコでも行ってみるか?」
「もういいの、帰るから。」
「何を怒ってるんだよ、自分から言い出しといて。
 まったくコロコロ変わるから女ってのは嫌いだよ。」
 私の胸に突き刺さる『嫌い』の文字。
「仕方ないな、じゃあ一緒に帰るよ。」
「いいの、一人で帰る。」
 私が言うと、トシは不機嫌そうに「勝手にしろ」と言って私たちはそこから、ばらばらに帰ることにしました。
 夜の通りをずんずん歩いて行くと、旅行会社のビルの前に易者が小さなテーブルを出して座っています。
 『易』と書かれた四角い小行燈の内側で炎が揺らいでいました。
 いったん通り過ぎて、私はひきつけられるように『易』の字を振り返りました。
 すると、その瞬間、薄茶色のチャイナ服を着た髪の毛の薄い中年の占い師が「聞きたいことあるなら当ててあけるよ」と私を呼び止めました。

         §5

「そうね、その相手はみちかな人あるね。
 長いこと親しくしてた、たから友たちみたいなって、恋のきかけ、見つからないあるね?」
「ええー、どうしてわかるの?」
 私はトシのことを見事に言い当てられびっくりしてしまいました。
 有名人なら事前にリサーチしておけるけど、通りすがりの私のリサーチなんて無理だから、これは本物かもしれません。
「そうなんですよ、彼は私を異性として見る感覚が鈍ってしまってるんだと思うんです。
 でも彼も心の中では私のこと意識してるような気もするんですよ。
 将来、この恋が叶う可能性はありますか?」
 占い師は真剣な表情で竹棒を波立てるようにもんでは、短い文鎮みたいなものを数本裏返すと、やがてじっと目をつぶって言いました。
「そうねー、フカノーではないが、むつかしいあるね。
 アンタが下手に出てすかっても、相手はいやかるね、相手ひくあるね。
 ても、さりけなく、アンタのせつない恋心を伝えることてきたら、相手の心もうこくね。」
「どうすれば、さりげなく私の恋心を伝えられるんでしょうか?」
「それはアンタかちぷんてかんかえることね。」
「そうですか……。」
「ま、カノーかもしれないから、かんぱってね。」
 相談は終わった雰囲気で、お金を払った私はいったん席を立とうとして、思い出したように椅子に座りなおしました。
「あの、彼の気持ちを確かめる方法はありませんか?」
 すると占い師は一瞬びっくりしたようでしたが、顔を近づけて囁きました。
「魔法の薬あるよ。」
 予期せぬ答えに私は思わず声を上げました。
「本当ですか?」
 占い師はさらに小さな声で言います。
「うん、金龍眼ね。
 相手の持ち物ひとつ身につけて、金竜眼飲む。
 すると相手の心の願望、手に取るように見えてくるね。」
「いくらするんです?」
「ちと高いあるよ。
 ひと粒、三万円あるね。」
 私の心の中で、絶対インチキだよ、間違いない。そんなのが本当ならすごい有名になってるでしょうが、嘘、ニセ物、詐欺だよという声が一斉に上がります。
 でももし本当にトシの心が見通せるなら、私は五十万でも惜しくない気がしました。
 ニセ物でもいい、それで自分がトシの心を知るために努力するのなら、それは前進でしょ。
 たぶんアルコールとトシの冷たい言葉で心がぐらぐらに揺れ動いていた私は、そばのコンビニでお金をおろして、金龍眼を一粒買ってしまいました。

(後編に続く)


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gingak
  • Author: gingak
  • 銀河 径一郎
    (ケイイチロー・ギンガ)
    好きな言葉は『信じる』。
    飛べなくても頭が悪くても
    地球人も宇宙人だ(笑)

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