銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

 恋というのは突然やって来る。僕の場合は残業した後にガラガラの地下鉄に乗り込んだ時だった。

 彼女は黒髪のロングストレートでベージュのショール風のコートを着て一番隅の席に腰掛けて、スマホを撫でることもなくまっすぐ前を向いていた。
 僕はちょうど座席のはす向かいの銀柱の隣から彼女を眺めていた。
 睫毛が不自然に長くなく、唇が小さく、顎が小さい美人だった。コートの襟合わせのボタンをつなぐ紐から白い毛のボンボンが二つぶらさがってて無邪気な印象を受けた。
 彼女の口は小さく動いていて、何か口ずさんでいるみたいに見えたが、地下鉄の車輪は終始キィーキィー金切り声をあげていて聞き取れる筈もない。
 不意に彼女の瞳が僕の目線に合った。
 シュッ、ホッ。
 見えない矢が僕の胸に突き刺さったようなそんな音がしたと思う。
 彼女は僕に関心を表す様子もないまま何か口ずさみつつ、さらに数秒僕を見てからまた真正面の空席へと視線を戻した。
 僕は図々しいぐらい彼女を見詰め続けた。それは仕方ないことだ。僕はもう不治の病なのだった。

 やがて地下鉄が月明かりの地上に出て中野駅に着くと彼女はバッグをしっかり持ち変えて降りるような気配を見せたが、僕を一瞬見てまたバッグを膝に置いた。おそらく僕が後をつけるかもしれないと警戒したのだろう。
 彼女はまた何かを口ずさみ、僕は彼女を見詰め続けた。
 やがて電車が吉祥寺のホームに滑り込むと僕は半ば習慣的に、半ばこれ以上見詰め続けたらストーカー扱いされそうな気がして電車を降りた。ホームから一度だけ彼女の黒髪を振り向いて僕は溜め息を吐いた。

 ◇

 翌日、残業はなかったが僕は喫茶店で時間をつぶして地下鉄に乗り込んだ。

 期待通り前日と同じ隅に彼女は一人で座っていた。
 僕は思い切って彼女の隣に、少しだけ隙間を開けて腰掛けた。僕は彼女を真横から見詰めたが、彼女は気づかぬふりで正面の無人の座席を向いている。口は閉じていて歌はまだ口ずさんでいない。
 やがて地下鉄が動き出し、車輪がキィキィー金切り声をあげるとそれを待っていたかのように彼女の口が動き始めた。僕は耳の神経に人生で初めてというぐらい注意力とエネルギーを集中したと思う。殆ど呼吸も忘れていた。そしてかすかに聞き取れた。

 悲しい のでしょうと 夢の中 見知らぬ 人の 問いかけに

 それは僕の聞いたこともない曲だったが、彼女の歌い方があまりに切なくて僕は胸が痛くなって涙が溢れそうな感じがした。 
 何コーラスか聴いてから僕は少しだけ体を彼女に傾けて彼女の耳元に言った。
「悲しい歌ですね。でもきれいなメロディーだ」
 彼女は一瞬だけ驚くように僕を見るとすぐ前に向き直って黙って頷いた。声も出せずに頷くのは歌詞の通りだ。
 僕はそれ以上何も言えずに車輪の金切り声の底で流れ続ける彼女の歌声を聞いてから吉祥寺で溜め息とともに降りた。

 ◇

 翌日も僕は時間を調整して夜の地下鉄に乗り込んだ。

 するといつもの指定席に彼女は一人で座っていた。僕は彼女の隣に腰掛けた。隙間は昨日より2センチ狭まった。僕は例によって彼女を真横から見詰め、彼女は車輪が金切り声をあげるのを待って歌を歌った。
 何度聞いてももの悲しい歌だ。
「あなたのそのメロディー、聴いてていいですか?」
 僕はそう言ってみたが、彼女は僕を振り返りもせずに歌を口ずさみ続けた。

 僕は高田馬場駅が近づくと寝せていたビジネスバッグを膝の上に立てた。
「もし僕をスルーするために君が中野駅で降りられないなら僕は次で降ります」
 すると彼女はまっすぐ僕を見て首を横に振った。
 気にしないでいいという答えに思えた。僕はほっとしてビジネスバッグを横に戻して名刺を差し出して自己紹介してみた。
「僕は高津圭輔。お役所や病院なんかにビジネス用品を卸している会社で働いてます」
 だが、彼女はもはや正面に向き直りただ歌を口ずさむだけだ。
 想像をたくましくすれば、おそらく彼女は失恋して間もないんじゃないだろうか。歌の歌詞はそんな状況にしっくりくる。
 僕は彼女の歌声に神経を集中しながら、そこに彼女の感情や私生活の何かが浮かび上がらないかと考えてみたが、それは簡単ではなかった。

 彼女はおもむろに黒いバッグを開いて、中身が見えてしまった。
 といっても化粧ポーチがあり、手帳があり、タオルがあり、小さなプラシがある、何の変哲もない中身だ。彼女は手帳を取り出して僕に見えないように開いた。
 しかし、僕は手帳が取り出されたバッグの中に釘付けになった。内ポケットに挟まれた名札が見えたのだ。そこには橋淵智絵とあった。
 彼女は僕をちらりと見て手帳を閉じてバッグの中に戻した。彼女は手帳の中を覗かれなかったので安心したようだったが、僕は彼女の名前を覗いて知ったことで罪悪感を抱いてしまった。一番大事な相手に対した時、罪悪感は最大になる。僕は正直に言った。
「ごめん、今、偶然、君の名札を見てしまったんだ」
 彼女は僕を向いて「仕方ないね」と言った。
「お詫びに今度食事をおごるよ。橋淵さん、いつがいい?」
 彼女は一瞬笑みを浮かべたが、すぐ真顔になって首を横に振った。
「じゃあ今度、お腹が減ってお臍から背骨が出そうになったら言って」
 僕が言うと彼女は笑いを押し殺して俯き首を横に振った。
 僕は少しばかり進展したことに満足しながら吉祥寺で降りた。

 ◇

 翌日、僕は仕事を終えると花屋に入ってバラの値段を確かめた。注文する時は死ぬほど恥ずかしかったが女店員は手馴れた口調で「女の子はいつも豪華なバラの花束に憧れてます。彼女絶対に喜びますよ」と殺し文句を囁いて僕に赤いバラの花束を買わせた。
 喫茶店で時間を潰した僕は緊張でロボットになりそうな気分で地下鉄駅に着いた。
 いつもの時刻に電車がホームに滑り込み、決心して勢いよく乗り込んだ僕は、いつもの彼女の席にジャンパーを着た六十近いおっさんが座ってるのを見つけて落胆した。

 それから車内を見回し、隣の車両まで見渡したが彼女はいなかった。
 僕は隣の席に腰掛けてちらりとおっさんを見た。もちろん彼女が乗っていないのはおっさんのせいではないとわかっていたが、いつのまにか僕の目は睨むようになっていたかもしれない。
 おっさんは読んでいた詰め碁の本を閉じて僕に向かった。
「もしかしてその花束、いつもこの席に座ってるコにかい?」
 どうやらおっさんも何度か乗り合わせて彼女を見かけているようだった。
「い、いえ、そういうわけでは」
「隠さなくてもいいんだよ。俺だってあと四十若けりゃそんな気になる美人だ」
 僕は「はあ、実はそうなんです」と認めた。
「彼女が乗ってないのは俺のせいじゃないよ」
 おっさんの言葉が睨んだことを差してると気づいて僕は赤面した。
「すみません。わかってます」
「俺は石村って言ってな、昔営団に勤めてたんだ」
「エイダン?」
「今は合併して東京メトロだ。銀座、茅場町、赤坂見附、半蔵門あたりの駅を転々としたよ。昔は改札鋏で切符に印を入れるんだが、子供の時にそれがカッコよくてな。タンタンタンと空打ちして待ち、客が切符を出すと切り欠きを入れて返し、客が途切れるとくるりと挟みを回すんだ。今時のガキが鉛筆まわすだろ、あんな感じだ」
「なるほど」
「美人の客だと偶然でも指を掴めないかとドキドキしたねえ。それがいつの間にかスタンプになって、しまいには自動改札機だ。味気ないったらありゃしねえ」
 おっさんは笑い、僕は頷いた。

「それで少しはあのコと話せたのかい?」
「まだほんの少しです。ただ名前はわかりました」
「なんてんだい?」
「橋淵智絵ていうんです」
 僕が彼女の名を告げるとおっさんは首を傾げた。
「あれ、聞いたことのある名前だな……えーと娘の同級生にそんな名前がいたような気がする。年齢も同じぐらいだし、この線に乗ってるならそれかもな。娘の名前出せばあっちも警戒を解くだろう。ちょっと娘に聞いてやろうか?」
「あっ、もし差し支えなければ」
 僕の声は思わず上ずった。
「メーアドってやつだっけ教えときな。応援してやるから頑張れよ」
 僕は三鷹まで行くというおっさんとアドレスを交換して別れた。

 ◇

 おっさんからいい知らせはすぐに来なかったが、翌週も僕は彼女と乗り合わせた。 
 しかし、彼女は僕の花束を受け取ってくれなかった。
「あなたに応えられないもの」
 彼女はそう言っていつものように前に向き直り、いつものように歌を口ずさんだ。
 僕はがっかりしたけど、絶望まではしなかった。
 彼女は僕が隣に座り歌を聴くのは許してくれているわけだし、そうしていればやがて二人の距離が一気に縮まることがあるような気がするのだ。  
 
 ◇

 いよいよクリスマスが近づいてきた、その日、僕はいつものように彼女の隣に座って話しかけた。
「クリスマスイブは予定あるの?」
「……」
「橋淵さんちは暖炉ある?」
「……」
「日本じゃ普通暖炉はないよね。実は僕ね、今猛烈にダイエットしてるんだよ。それでクリスマスの朝にはサンタの格好をして、橋淵さんちの郵便受けからスルスルと中に入って橋淵さんのストッキングにプレゼントを入れて来ようと密かに計画してるんだ。プレゼントは何がいいかなあ?」
 彼女は笑いをこらえようと俯いた。
「でも万が一ダイエットが失敗した時に備えて、イブの夜に会ってくれないかな?」
 彼女は俯いたまま首を横に振ったが、僕に向いて聞いた。
「私なんかでいいの? 後悔しない?」
「もちろん。世界中の誰より君がいいんだ」  
 僕は天に昇るような気持ちだった。

 その時、僕のスマホが震えた。表示を見ると相手は石村のおっさんだ。彼女が娘さんと同級生だとわかったのかもしれない。僕は彼女に「ちょっと待ってね」と言ってメールを開いた。

『実は高津君と別れた翌日にぎっくり腰をやっちゃって、遅くなってすまない。
 それで娘に聞いてみたんだけど知らないと言われちゃってね。よくない知らせってなかなか出しづらいものだから、つい放っておいたんだよ。
 ところが昨日、駅の退職仲間と久しぶりに会って話しをするうちにあの美人の客が好きのどうのって昔話になってね。それで高津君の相手の橋淵智恵て名前を出したんだ。そしたら仲間の一人が急にしょげてね。
 俺は定期見て名前知ってたから、いつもあの娘が何かの歌を口ずさみながら改札通るときはドキドキしてたんだ。だからショックだったよって言うわけよ。
 急にどうしたんだと聞いたら、その橋淵智恵てのは三十年も前に飛び込み自殺した美人だよ、その時お前も一緒に掃除したじゃないか、あん時は俺も死にたくなったって言うわけよ。
 それで名前を覚えてたのかもしれないなあ。
 もちろん高津君の惚れた橋淵智恵は今も生きてるわけだから関係ないと思うけど、世の中には同姓同名の美人てのもいるんだねえ。
 役に立てなくて申し訳なかった。高津君の健闘を祈ってるよ』

 僕はまさかと思いつつも少し疑いを抱いて彼女を振り向き凝視めた。
 まさかこんなに綺麗な橋淵智恵が幽霊なんてことはないよな。
 すると急に彼女は唸るような声で言ったのだ。
「気づいてしまったのね」
 一瞬で心臓が凍った。
 彼女の顔はあっという間に青錆色になりぱっくり割れた額から血がどろりと流れた。
 ボンボンのついたショール風のコートは全体が血に染まった。
「うわあああー」
 僕が大声を上げて飛びのくと、次の瞬間、彼女の姿はまるでガラスが砕けるように細かい粒に分かれて消えてしまった。 
 僕はひどい悪寒に震え涙をこぼした。
 ただ耳の中では彼女の透き通った歌声がいまだに鳴り続けていた。  了


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gingak
  • Author: gingak
  • 銀河 径一郎
    (ケイイチロー・ギンガ)
    好きな言葉は『信じる』。
    飛べなくても頭が悪くても
    地球人も宇宙人だ(笑)

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