銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

 紀元前四四年六月。地中海の真珠と呼ばれるエジプトの首都アレクサンドリア。
 赤銅の肌に白い麻布を腰に巻いただけのエジプトの少年ユースフはその街の広場で父ムスタファーの隣で太鼓を鳴らす手伝いをしていた。父の仕事は蛇使いだ。

 ユースフはコブラの様子に気を配りながらコブラが興奮するように仕向けるのだ。もっともコブラの方では耳がないから父の吹く瓢箪笛もユースフの太鼓も聞こえるわけではない。コブラが反応するのは太鼓のバチから地面を通して伝わる振動であり、父の揺らす瓢箪笛の動きに対してだ。
 コブラはユースフの太鼓の振動に苛立ちを見せ、口から赤い舌をチロチロと覗かせて父の揺らす瓢箪笛に敵意を向ける。
 少し距離を置いて観客たちが眺めている。観客は心の中でもしかしたら蛇使いが咬まれるのではないかと期待しているのかもしれない。
 時々、コブラが威嚇のために首を素早く突き動かすと、観客からどよめきが起きる。
 もちろん蛇使いは少しも慄いたりはしない。
 種を明かせば、毎朝、二股の枝に張ったワニの腹の皮にコブラを咬み付かせて毒を吐き出させてあるのだ。その一番神経を使う作業の毒抜きは今では十五歳のユースフに任されており、父は傍らで見守るだけだ。
 やがて曲が終わり、父が笑みを浮かべ籠の蓋でコブラを中へ仕舞い込むと観客が喝采を送った。アレクサンドリアはマケドニアの王アレクサンダー大王がオリエント各地に開いた町の名前だが、一番繁栄しているのはこのエジプトのアレクサンドリアだろう。だから各地から人々が集まり客もそこそこ集まるのだ。おかげでユースフの差し出すザルにはいくつもの小銭が投げ込まれる。いつもと変わらぬ風景に思えた。

 だがその日はそこから後が違っていた。観客の後ろから槍を持ち革の腰巻きをつけた憲兵三人と役人が現れて父をいきなり捕えたのだ。
 父は抗議する。
「一体、俺がどんな悪いことをしたというのだ。俺は監督官からちゃんと許可を貰ってるんだぞ」
 父は監督官にささやかな賄賂を贈って商売をしている。問題はない筈だ。
「父さんから手を離せ」
 ユースフも言うが役人は面倒そうに命令する。
「いいから、お前は蛇を持ってついて来い」
 武器を持った屈強な憲兵に逆らえるわけもない。
 父とユースフは引き立てられるまま大きな門をくぐった。
「ここは?」
 ユースフが聞くと役人が脅かすように言った。
「女王陛下の宮殿だ。無礼をしたら、すぐに頭と胴が離れて二度とくっつかないぞ」

 ◇
 
 通路の扉が開かれ新たな役人が現れた。父を連行して来た役人はかしこまった。
「蛇使いを連れて参りました」
「ご苦労、衛兵、代われ」
 父は憲兵から衛兵へと引き継がれて新たな役人に先導されて一行は宮殿の奥に進んだ。
 通路には絨毯が敷かれてあり、薔薇の香りが立ち込めていた。
 さらに進むとファロス島の大灯台の全体が一望できた。高さは134メートルもあって、バベルの塔でもこれほど高くなかったのではないだろうか。これを凌ぐ建物など千年経ってもできないだろう。
 ユースフがファロス島の大灯台に見とれながら歩いていると不意に衛兵に肩を押され地べたに突き落とされるように崩れた。 
「控えよ。クレオパトラ様だ」
 内側の壁かと思われた方を振り向くとそこに高さ三メートルほどのバルコニーがあり、そこに黄金の寝椅子にもたれている女性がいた。頭には金と宝石を散りばめた冠をつけ、眉の下に緑とピンクのシャドーを入れて大きな瞳がこちらを眺めおろしている。
 ユースフは息を呑んだ。
 なんてきれいなひとなんだ。
 ユースフの知る女性と言えば母と姉以外では市場で出会う女たちだ。中でも布売りの露店を手伝っているハディージャはユースフに声をかけてくるつぶらな目をした可愛い少女だが、それでもこの女王陛下にははるかに及ばない。
 女王陛下の顔立ちは色の濃いエジプト人ではなくギリシャの血を引いた色白で美しかった。これはアレクサンダー大王の臣下だったプトレマイオスが征服地エジプトの監督を命じられて古代ファラオの王朝をそのまま引き継いだためだ。
 クレオパトラはラピスの青い縁取りのついた金の板を並べた首飾りの下、胸に当たる部分は薄い布だけだ。傍らの侍女は大きな団扇で風を送っている。そのせいで薄絹がゆらゆらと揺れて胸のふくらみや乳首が透けそうで、ユースフは思わず唾を飲み込んだ。この時代、女の子や動きやすさを優先される奴隷たちは乳を露出しているが、このように胸の透ける服を着ている女性はあまり見たことがない。おそらく北の種族のクレオパトラにとってエジプトは暑すぎるためだろうが、ユースフは男心を擽られるように感じた。

 父は恐る恐る訴えた。
「お、畏れながら、女王陛下、私は捕まるような覚えはありません」
 クレオパトラは父の言葉を無視し寝椅子に半分凭れかかったまま言った。
「蛇は何年扱っておる?」
「へ、へい、ガキの頃からです、十年をみっつ重ねたより多いはずです」
「では、これよりお前は毒物研究所に移り住み仕事をするように」

 アレクサンドリアの施設といえば世界中から石版や書物を集めた図書館が有名だが、王立毒物研究所という施設もあった。つい三年前までは共同統治者たる弟のプトレマイオス13世が管轄していたのだ。その後、弟は姉クレオパトラと対立し内戦状態に陥り、アレクサンドリアを訪れたローマのシーザーが双方から言い分を聞こうとした。だが形勢不利だったクレオパトラはアレクサンドリアに近づくことすらできずにいた。そこでクレオパトラは有名な一計を案じて貢ぎ物の絨毯に巻かれてシーザーに言い寄ることに成功。大勢は逆転して、やがて弟プトレマイオス13世は戦死する。弟は戦闘する前にクレオパトラに利用されるのを恐れて王立毒物研究所は破壊され職員は殺され施設は放棄されていた。
 クレオパトラはそのいわくつきの毒物研究所を再建しようとしているのだ。
 もっともこの仔細を蛇使いの父子に教える者がいる筈もなかった。
「そんな急に言われましても妻もおり……」
 父が言うのを役人が遮った。
「口答えすると叩き殺すぞ。お前は家族全員で移り住めばよいのだ、いいな」
 役人の言葉に威圧されて父は承諾した。
「へ、へい、わかりました」
「その息子は研究所から宮殿まで日参させるのだ」
「へ、へい」

 ◇

 その日のうちにムスタファー一家は王立毒物研究所の敷地内に引越した。
 翌日、父は書記官に叩き起こされて、各地から集められて来る蛇を籠に移して分類するという作業にあたった。ユースフも手伝ったのだが、昼頃に役人から宮殿に毒を抜いていない毒蛇を一種類持って行けと命令された。たまたま近くにあった籠を手にしてユースフはクレオパトラの宮殿へと向かった。
 衛兵たちはユースフの顔と名前を覚えていた。
「ユースフ、女王陛下に呼ばれるなんてお前は果報者だぞ」
 そう言われてユースフは素直に頷いた。大道芸人の息子が女王陛下から声をかけられるなんてことはまずあり得ないことだ。それもこれから毎日なのだ。昨日は恐怖もあって落ち着かなかったが今日は夢見心地でユースフは宮殿の奥に進んだ。

 クレオパトラは昨日と同じバルコニーの黄金の寝椅子に寝そべりながらユースフに言った。
「今日はなんという毒蛇を持参いたした?」
 昨日より時刻が早く太陽が高いので、冠や首飾り、腰飾りにあしらった金がきらきらと輝きまばゆいばかりだ。そしてクレオパトラの薄絹から形の良い乳房が透けて見えてしまうのがユースフをドキドキとさせる。クレオパトラの大きめの瞳と目が合うとユースフはどもった。
「は、はい、絨毯蛇です」
「ほお、面白い名じゃ」
「その、父は模様が大きくて絨毯のようだろ、だから絨毯蛇だと言ってました」
 クレオパトラは黄金の寝椅子から身を乗り出した。
「その模様を見せておくれ」
 ユースフは籠の蓋をそっと取ると慎重に蛇の姿勢を見極めて素早く蛇の頭の後ろを捕まえた。そして高台から見下ろせるように蛇の頭と腹を引っ張って伸ばして見せた。コブラのような大きなえらのないクサリヘビの仲間だが猛毒を持った蛇だ。
「おお、たしかに。色付きはともかく模様は見事じゃ」
「はい」
「さて、ここからがお前の仕事じゃ。これから衛兵が連れてくる男をその蛇に咬ませるのじゃ」
 ユースフは耳を疑った。美しいクレオパトラの口からそのように恐ろしい命令が発せられるとは。蛇を持つユースフの腕に鳥肌が立った。
「そんなことしたらその人は死んでしまいます」
「それを確かめたいのじゃ」
「いけません。女王陛下のように美しい方がそんな残酷な事をするなんて」
 ユースフはまるで自分の助命を哀願するかのように訴えた。ユースフにとってクレオパトラはひと目で憧れの女性となっていたのだ。その憧れの女性に残酷なことをしてほしくなかった。
 ホホホッとクレオパトラは笑った。
「お前はまだ子供ね。蛇を籠に仕舞い脇の階段からこちらへ登っておいで」
 傍に仕える侍女が「女王陛下、あのような下世話な者をお近づけになりますな」と精一杯の苦言を呈したが、クレオパトラは「構わぬ」と却下した。
 ユースフが高台に上がると、クレオパトラが「もっと近う寄れ」と手招きする。
 ユースフはクレオパトラに「もっと、もっと近う」と招かれるまま黄金の寝椅子の一歩手前まで近づいた。するとクレオパトラのヴェールを揺らして吹き来る風はえもいわれぬ薔薇とジャスミンの香りをまとい、ユースフは顔が火照るのを感じた。
 クレオパトラは言った。
「なぜ私が蛇の毒を確かめたいか教えてやろう」
「は、はい、女王陛下」
「この宮殿は昼も夜も衛兵どもに守られておる。しかし、私は男よりは腕力のない女で、私の寝所に忍び込む悪漢がおるやもしれぬ。もし悪漢が衛兵たちのわずかな隙を突いて私の寝所に忍び込み私の口を塞ぎ私を辱めようとしたら。どうやってこの身を守ったらよいのじゃ?」
 ユースフは息を飲み込んだ。
「それに備えてお前の毒蛇を私のお守りにしたいのだ」
 クレオパトラは悪戯っぽく笑みを浮かべてユースフの手を取り自分の胸にあてがった。ユースフの手のひらは薄絹を通してクレオパトラの乳房の柔らかさに触れた。
「お前は、お前の蛇は、この私の命を守ってくれるであろうな」
 ユースフは顔から火が噴き出る思いで、からからに乾いた喉から声を絞り出した。
「も、もちろんです。僕が蛇で女王陛下をお守りします」
「うむ、そのために一番早く効く毒蛇が何かを調べたいのじゃ」
「わかりました。ただ」
「ただ?」
「ただ毒を確かめるたびにその人は死んでしまいます」
「心配いらぬ。毒を確かめる男は死刑と決まった悪人なのだ。お前の蛇に咬まれずとも、まもなく死ぬ者たちだけだ」
 クレオパトラが微笑んだ。ユースフは今この女王陛下の微笑みを自分が独占してるのだと思うとこの上なく胸がときめいた。
「わかりました。女王陛下のために毒を確かめます」

 ◇

死刑囚に毒を試すクレオパトラ

 ◇

 ユースフがバルコニーから降りると、元来た通路から衛兵二人が両脇を掴んで男を連れてきた。男は猿轡をされているがそれほど凶悪な顔には見えない。そしてバルコニーの下で衛兵は男の腕を引っ張って言った。
「ユースフ、こいつの腕に咬ませろ」
 ユースフは籠を開けて絨毯蛇の頭を取り出した。しかし、いざ絨毯蛇の頭を男の腕に近づけようとすると手が震えた。
 男は猿轡の下で何事か叫んでいるが聞き取れない。
「さあユースフ、早いとこやってくれ」 
 衛兵が急かすが、人を殺すのだと思うとユースフの手は止まってしまう。
 そこへ焦れたようにクレオパトラの声が降り注いだ。
「ユースフ、私を守るためであろう」
 その一言でユースフは決意を固めた。僕が女王陛下を守るんだ。ユースフは自分に言い聞かせて男の腕に蛇の頭を近づけた。
 男は猿轡の奥でくぐもった悲鳴を上げた。
 衛兵は経過の様子をクレオパトラに見せるため男を動かないように抱えて立たせているが、男は激しい痛みに苦悶の表情を浮かべ身を捩っている。腕はみるみる腫れて倍の太さになった。
 ユースフは絨毯蛇を籠に仕舞ってクレオパトラを仰ぎ見た。クレオパトラは固い表情で男の様子をじっと観察している。
 男の腫れの色は鮮やかな赤色から次第にくすんだ黒赤色へと変わってゆく。
 父からはクサリヘビに咬まれると命が助かっても青銅のような色になって腐るんだと教えられていたが、実際にその経過を目のあたりにすると恐怖が深まった。
 男はなかなか死ななかったが、日差しが傾いて宮殿の影がファロス島の大灯台の島に届いた頃に急に静かになって死んだようだった。

 ◇

 その日以降、ユースフはクレオパトラの前で様々な蛇の毒を実験した。
 クロクビコブラ、ブラックマンバ、キングコブラ、パフアダー、アスプクサリヘビなど地中海、アラビア、アフリカ各地から集められた沢山の毒蛇の即効性が試された。

 そして今日、実験されたのはアスプコブラという蛇だった。毒は神経に作用するものらしく咬まれた場所はそれほど腫れず本人の苦悶の表情も殆どなかった。にも拘わらず今までの中で最も短い時間で死んだのだった。アスプコブラは褐色の胴体だが左右に開いたえらの内側、腹の部分は白っぽく目はぽつんとしてさほど凶悪な感じがしない。
 死んだ死刑囚が運び出されるとクレオパトラが命令した。
「ユースフ、決めました。その蛇を私のそばに置くことにします。もしもの時はどうやって扱うかそばに来て教えなさい」
 ユースフはクレオパトラの寝椅子のそばまで登り、籠を開いてアスプコブラの頭を捕まえ方を教えて聞かせた。
「殆どの蛇は振り返ることが出来ないのです。ですから、こうやって背中から手を伸ばしてゆくと咬みつかれずに頭のそばまで指を近付けられます。ここで一気に両脇から挟んで持つと怪我することなく蛇を持てます」
「なるほど。それなら私にも出来そうじゃ。やってみよう」
 クレオパトラは椅子の端にすり寄ると、年長の侍女が「女王陛下、そのような恐ろしいことおやめ下さい」と止める。がクレオパトラは「身を守るために必要なことじゃ」と聞こうとしない。
 クレオパトラは籠を覗き込むとユースフに命じた。
「ユースフ、私の手を掴んで教えなさい」
 ユースフは恐る恐るクレオパトラのそばに寄り添い女王の手首を掴んでアスプコブラの背中に伸ばす。ユースフの頬はクレオパトラの肩に殆ど接した。すると薔薇やジャスミンの香り、バニラの匂いに何かの動物のフェロモンが綯い交ぜになった濃厚な匂いに襲われ頭がふらふらとした。そして大胆にもクレオパトラを抱きたいという感情が沸き起きてきてユースフは戸惑った。
「ユースフ、どうしたのです?」
「いえ、ゆっくり手を蛇の頭の後ろへ」
 クレオパトラが指をアスプコブラの頭に近付けるとユヘスフは「今です」と小さく囁いた。クレオパトラは素早くアスプコブラの頭を捕まえることに成功した。
「出来ましたよ。これで悪漢を倒せますね」
 クレオパトラがそう言うと、ユースフは今自分を満たす悪漢のような欲情を見透かされないかと心配で言葉が返せなかった。
「ユースフ、どうしました?」
「な、なんでもありません」
「フフフッ、お前は毎日蛇の様子を見に来なさい」
「わかりました。掃除や餌やりをして弱っている場合は蛇を取り替えます」
 こうしてユースフはクレオパトラの最後の衛兵の監督役になった。

 ◇

 紀元前四二年、フィリッピの戦いで敗れたブルータスをエジプトが支援していたためにクレオパトラはアントニーの詰問を受けた。しかし、クレオパトラは知性と美貌と媚薬で瞬く間にアントニーを籠絡してシーザーに代わる新たなエジプトの庇護者とした。言うまでもなく奴隷に等しい身分のユースフは女王の結婚に反対できる筈もなく、ただ憧れのクレオパトラとアントニーの仲睦まじい様子を時折垣間見るだけの辛い日々が続いた。その後、クレオパトラはアントニーとの間に双子の男女と息子を儲けるが、アントニーの飛ぶ鳥も落とす勢いも永遠に続く筈もなく十年ほどで失墜した。

 ◇

 ある日、突然、ユースフはクレオパトラに告げられた。
「明日よりしばらく蛇は研究所で飼育しなさい」
「噂に聞きました。女王陛下が艦隊を率いてローマとの戦争に参加されるとか」
「ならば話はわかりましたね」
 ユースフはクレオパトラの身の上を思うと意見せずにはいられなかった。
「そのような危険なこと、おやめ下さい。悪漢よりずっと危険ではないですか」
「大丈夫。危うくなればアントニーが私を真っ先に逃がしてくれます」
「女王陛下、おやめ下さい」
「心配してくれるのはありがたいが用件は済んだ。さがるがよい」
 クレオパトラが叱ると、ユースフは「ご無礼をお許し下さい」と引き下がった。
 
 しかし案じた通りアクティウムの海戦でアントニー・クレオパトラの連合軍はローマ軍に惨敗して終わった。

 ◇

 その日の朝、クレオパトラはアレクサンドリアに逃げ帰って来た。
 ユースフはクレオパトラの無事な姿を見て心から安堵した。自分の知らない海の彼方でクレオパトラが死ぬなんて耐えられなかったからだ。
「ご無事で何よりです」
 ユースフはコブラの籠を侍女に捧げて言った。
「戦争に負けたのです。そのように嬉しそうな顔をするな」
 ユースフは「どうかお許しを」と詫びた。
「明日も蛇を持って来なさい」
「はい、仰せの通りに」
 ユースフはそう答えて宮殿を後にした。

 ところがその日の夕方、クレオパトラの侍女の一人が急いで毒物研究所にやって来た。
「やあ、そんなに息を切らしてどうしたんだ?」
 父が尋ねると使者は早口に述べた。
「大変なのです。女王陛下の元に、瀕死のアントニー様が盾を御輿においでになり、クレオパトラの腕の中で息を引き取られてしまったのです。それを追ってきた敵の先陣が宮殿に迫っているのです」
「なんと」
「ユースフ、女王陛下よりの伝言です。『私のお守りを無花果の籠に忍ばせてすぐに届けるように』と」
 侍女はユースフを食い入るように見詰めた。
「女王陛下はそう言えばお前はわかると言われた」
 ユースフは震えながら「は、はい」と答えた。
「たぶん敵の先陣が宮殿を落としている頃でしょう。急がないと女王陛下がオクタウィアヌスに辱めを受けるかもしれません」
 ユースフは大急ぎで蛇の籠を抱えて飛び出し市場で無花果を買い込み籠に盛った。
 そして全速力で宮殿へと走った。早くしないと女王陛下がオクタウィアヌスに乱暴されてしまう。その思いがユースフを心臓が破裂するかと思うほどの勢いで走らせた。

 宮殿に着くと衛兵は敵方の革の冑を着た兵に入れ替っていた。
 ユースフは平静を装って言った。
「女王陛下にいつも果物を納めている者です。女王陛下にお取次を」
 敵方の衛兵はユースフの身体検査をして扉を開けた。
「ありがとうございます。オクタウィアヌス様はお着きですか?」
「いやまだだ」
 ユースフは間に合ったと知り安堵した。
 クレオパトラの正式な部屋である女王の間に辿り着いたユースフは衛兵に「果物を届けに来た」と告げた。
 扉が開けられて、馴染みの若い侍女が顔を見せた。心なしかその目は恐ろしさに涙ぐんでいるように見えた。
「女王陛下に無花果をお届けにあがりました」
「いつもありがとう」
 若い侍女は籠を受け取り、クレオパトラを振り向いた。
 奥の玉座にいたクレオパトラがユースフに微笑み黙ったまま頷いた。いつもと変わらぬ黄金の冠、首飾り、透けるような薄絹が垣間見えた。ユースフは深々とお辞儀してゆっくりと廊下を戻った。
 これで大丈夫だ。オクタウィアヌスが女王陛下に乱暴しようとしたら僕の蛇がオクタウィアヌスの息を止めるだろう。もしかしたらそれでエジプトはローマに逆転勝利を納めるかもしれないぞ。
 ユースフは満面の笑みで宮殿を出ようとした。
 だがその時、背後から侍女の大きな悲鳴が届いた。

 ユースフは訳がわからぬまま急いで廊下を引き返した。
 女王の間の扉は開かれたままになっていて、ユースフは中に飛び込んだ。
 衛兵たちが玉座を取り巻くようにして茫然と立ちつくしていた。
 玉座の足元には侍女が二名倒れており、玉座では肘掛けに背を乗せのけぞったクレオパトラがふくよかな乳房を露出したまま虚ろな目で天井を仰いだまま息絶えていた。乳房にはアスプコブラの牙の跡がはっきりと残っている。
 玉座の足元に倒れている最も年長の侍女が苦しい息の下から聞かせた。
「ユースフ、でかしたぞ。おかげでクレオパトラ様はエジプト女王の威厳を自らお守りになられたのだ」
 ユースフはこめかみを両手で押し潰すように挟みこんで悲鳴と叫び声を上げた。
「ああ、僕の女王が、こんな、こんな」

 ユースフは部屋を見回しテーブルの脚元で何事もなかったかのようにとぐろを巻いているコブラを見つけた。ユースフはまっすぐ歩いてコブラを捕まえるとその頭と向き合い、じっと凝視めた。
 コブラはその口を大きく開き、毒牙を剥いて飛びかかってきた。ユースフは微笑んだ。     了

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gingak
  • Author: gingak
  • 銀河 径一郎
    (ケイイチロー・ギンガ)
    好きな言葉は『信じる』。
    飛べなくても頭が悪くても
    地球人も宇宙人だ(笑)

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