銀河径一郎 小説、物語の部屋

銀河径一郎による不思議な物語、怖い話、面白い小説、ファンタジーなど。

見世物小屋のミユ

 序

 駅のホームを歩いていた智美は、バッグのポケットを探るうち、友人から紹介されていた美容室のカードを落としてしまった。
 拾おうとしたが、常に手袋をしている智美の手では、コンクリート面にぴったりと貼りついた薄いカードは掴めない。
 智美は仕方なく、白い手袋を外して、カードを拾いかけた。
 その時、コンクリート面に触れた指が、その面に残る少女の記憶にアクセスしてしまい、智美は衝撃にたじろいだ。
 慌てて、智美は天野酉彦教授に電話をかけた。


 1

 大正12年8月末日、玉電のモダーンな三角屋根の渋谷駅から少し下北沢側に寄った道玄坂界隈。
 一週間前に総理大臣加藤友三郎が急逝した政界の暗雲もどこ吹く風、このあたりは今日も賑わっていた。

「さあさあ、世には人目をはばかる生き物がございますが一番怖いのは人間だ。
 ここに、お目にかけますは、美しくも悲しい蛇女でござい。
 どこから見ても美しい女だが、悪い奴らに捕まって閉じ込められたのが洞窟の部屋。
 そこには鋭い牙の大蛇が何十匹もいたから大変だ。
 食わなきゃ食われるとなると、人間、おぞましいことになります、今では、蛇しか食べられないというから怖ろしいじゃねえか、さ、怖ろしい蛇女、ゆっくり見てらっしゃい。
 但し、ご婦人方は念のため、気付け薬も買ってからお入り下さいよ
 さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい」

 着物に袴という女学生姿で、髪の後ろに紫のリボンを結った漆原宮貴子は足を止めて、呼び込みの台詞に聴き入った。
「まあ、なんでしょう?
 入ってみませんこと?」
 貴子をエスコートしていた背広に山高帽の天野辰彦は小声で叱る。
「いけませんよ、華族の御令嬢がこのような下世話な街の見世物小屋に入ったと知れたら大変ですよ」
 しかし、貴子の口調はさらに大きくなる。
「まあ、真実を証し立てる帝国大学の物理助教授ともあろうお方が。
 なんと学究的好奇心の欠けた物言いですこと。
 わかりました、天野様はお帰り下さい、私、一人で入りますわ」
 八歳年下の貴子の勢いに、天野辰彦はたじたじとなり、懇願する。
「おやめ下さい。そんなことが父君殿下に知れたら、僕は電磁場相解析という世紀の実験ができなくなります。
 お嬢様、お待ち下さい」
 ずんずんと見世物小屋の入り口に進む貴子に、天野辰彦は制止をあきらめて追いかけ、背広の内ポケットから財布を取り出した。
 見物料を受け取ると、もぎりの前歯の欠けた男はにこやかに笑う。
「はい、大人二名様、どうぞ」
「あと気付け薬も貰おうか」
 天野辰彦が言うと、貴子が制した。
「私は要りませんわ、解剖だって平気でしたのよ」
「いえ、これは万が一の私用です」
 天野辰彦が弁解すると、貴子は笑い、もぎりの男は笑みを奥歯で噛み殺した。
「へい、それでは旦那用です、どうぞ」

 2

 小屋の中に入ると最初は通路の端に柵があって、その向こうにガラスケースがみっつほど並んでいる。
 ひとつめはケースいっぱいの雪かと思えたが、脇に「雪男の足跡」と題が出ている。
 雪の上になるほど雪男の大きな足跡があり、そこに少しだけ毛のようなものが残されているのがわかる。
「本物かしら?」
 天野辰彦はガラスケースに温度維持装置らしきものがつながれていないのにすぐ気付いて、これはニセの雪だと察した。
「作り物ですよ。これは前座ですから、許しましょう」
 そう言うと、離れたところから法被(はっぴ)を着た若者が声をかけてきた。
「やいやい、俺が楽しんで眺めてるのを横から作り物だとケチをつけるのはどういうこったい?
 それとも何か、俺の見物料をお前さんが払い戻してくれるとでも言うのかい?」
 どうやら法被男は警備を兼ねる小屋の用心棒のようである。
 すると怖いもの知らずの貴子が口を開いた。
「あなた、この方は帝国大学の物理……」
 天野辰彦は慌てて、貴子の口を手で覆った。
「やめて下さい、こんなところで騒ぎを起こしたら、僕の研究が中止です」
 天野辰彦は法被男に向き直って謝った。
「どうやら、私の勘違いでした、これは雪男の足跡に間違いありませんね。
 とんだ間違いですみません。
 江戸っ子の気前のいいところで許して下さい」
「ちっ、こちとら東京市民よ。
 ま、わかってくれれば文句はねえや、さっさと前に進みな」
「これは、どうも」
 天野辰彦は山高帽を持ち上げて会釈した。

 次のガラスケースの中は、大きな口の骨だ。
 題は「巨大うわばみの歯」となって、蛇の化け物が牙を剥いてる想像図が並んでいる。
 しかし、これはおそらくサメの歯に大きな牙を付け足したもののようだ。
「おお、これは怖ろしい歯だ」
 天野辰彦はさっきの法被男の手前、大げさに声を上げてみせた。
 しかし、貴子は黙り込んだままだ。
 雪男のところで貴子は決して説得されたわけではなかった。が、天野辰彦の手が、殿方に許したことのない唇に触れたことで、貴子はすっかり気が動転してしまい、何も言えなくなったのだ。
 乙女の唇に素手で触れておいて、謝りの言葉もないばかりか、気付いてすらいないかのような天野辰彦に、貴子は腹が立ってきている。しかし、それでいて、前から好意を寄せていた天野辰彦に唇の鍵を奪われたような気もして、恋心の芽生えを意識せずにおれない貴子だったのだ。
 
 次のガラスケースは「本物の河童」だ。
 おそらく、猿の頭蓋骨、犬の背骨、亀の甲羅、猿の手骨といったものを貼り合わせたものなのだろう。
 それなりに良く出来ていて、妖怪奇談の挿絵のひとつと見れば良い見世物だ。
「おお、これは飛びかかって噛み付きそうな河童ですよ」
 天野辰彦は笑いながら貴子を振り向いたが、返事はない。
「この手は苦手ですか、じゃあ次に行きますかね」
 
 通路を曲がると、人々が足を止めて群がっていた。
「なんでえ、蛇女じゃねえのか」
「蛇女はこの先だよ」
「どっか南方から売られて来たのかね」
「なんて格好だよ、恥を知らねえのか」
「可哀想に、噴き出しそうにひでえ顔だよ」
 人々は口々に興味本位や哀れみの混じった言葉を言い合っている。

 ようやく人だかりが少しずつ移動し、天野辰彦と貴子も蛇女の前座の「哀れな少女」をはっきりと見ることができた。
 そこは二畳ほどの小部屋になっていて「哀れな少女」は椅子に腰掛けていた。
 なるほど顔は黒く、目の周りは南方の風習なのか白い縁取りが描かれて、唇には銀色の小さな輪が付いている。
 そして着ている服は灰色で、腰巻は極端に短く太腿を露出していて、男客の下劣な視線を浴びている。
「なんだろう?桃色の短冊みたいなのを持ってる」 
 天野辰彦が呟いていると、貴子が興奮に頬を赤く染めて言った。
「ひどいです、南方異邦の彼女だって、同じ人間でしょ。
 それをこのような見世物にするなんて、許せない。
 私、買い取ります」
 貴子の勢いに天野辰彦は苦笑した。
「買い取るといっても、相当高いですよ。断られます」
「断らせたりしません。
 日本も真に世界の一等国の仲間入りをしたいなら、人権を守るに躊躇なきことを世界に知らしめる必要があるのです。
 先般、普通選挙の準備が着々と進んでいると父上にお聞きしましたが、こういう奴隷を開放することも、一等国となるための条件ではありませぬか。
 天野様、申し訳ありませんが、駅のところで待たせている書生の青谷を探し出して、近くの銀行からお金を三千円ほどおろしてきてください」
「三千円もですか?役人の一年分の給金より多いですよ」
「高いとおっしゃったのは、天野様ですよ」

 貴子と天野、書生の青谷は見世物小屋の裏の汚い部屋に通され、板切れが積み上げられた上に、薄い座布団を敷いて座った。
 向かいに、灰色の背広を着た金歯のおやじがやってきて座った。脇にはさっきの法被男が控えている。
 金歯のおやじは扇子で自分に風を送りながら言った。
「なんでも、うちの商売道具の女を買い取りたいとか?」
「そういうことです」
「蛇女かい、ありゃあちっとやそっとじゃ売れねえぜ」
「いえ、蛇女はただの芸人でしょ。
 私が買い取りたいのはその前にいた哀れな少女の方です」
「あっちだって元手がかかってる、しかもこれから先も何年も稼げるんだ。
 ちょいと買い取りの値は張るで」
「ここに三千円あります、これでお願いします」
 金歯のおやじは奥の金歯まで見せて笑った。
「ハハハ、一桁足りねえ、話にもならねえな。
 とび吉、お客様がお帰りだとよ」
 すると法被男が「ヘイ」と叫んで、「そら帰った、帰った」とけしかける。
 貴子は「ちょっと待って下さい」と叫んだ。
「そちらが断るならば、私どもとしても強行手段を使わなくてはなりません。
 あの少女はろくな服も着せられず、太腿をさらし、下穿きも見えそうな程です。
 私の祖父は元老院、父は貴族院、叔父は警視庁総監と親しい幹部です。
 そちらに通報して、風紀紊乱の容疑があると警官隊を寄こし、貴方を逮捕することだって出来ますのよ」
 貴子の堂々たる警告に、法被男が言い返した。
「ケッ、はったりを言いやがって、
 親分、叩き出しましょうか?」
 しかし、金歯のおやじはあっさり手のひらをあげた。
「いや。
 私も真面目な興行を心がけてるんですがねえ、そんなことがありましたか。
 わかりやした。
 ここは、そちらの顔を立てて、端た金で手を打ちましょ」
 前座の見世物はチンピラがすぐまた連れてくる、ここはまとまった金の方がありがたいというのが金歯のおやじの本音だったようだ。

 3

 さて、南方異邦の少女を買い取ったのはいいものの、貴子から彼女の祖国に返すようにと言い付かった天野辰彦は帰りのロールスロイスの中、考え込んだ。
 正当な手続きで連れて来られたとも思えない異邦人の祖国をどうやって調べたものか。

 ふと見ると隣の少女の持つ青いカバンに英語らしき文字が刻字されてる。
 天野辰彦が昔かじった英語で聞いてみる。
「吠え屋、あー、湯ー、噛む、風呂む?」
 少女は迷惑そうな顔をした。
「チョーうざいシー」
 天野辰彦は喜んだ。
 意味はわからないが、反応があるということは知能が高いようだ。
「掘った、湯屋、眠む?」
「……」
「藍、編む、タツヒコ、アマノ」
「だから、うざいって、黙ってろ、オヤジ」
「えっ?日本語わかるのか?」
 天野辰彦がびっくりして聞き返すと、少女は面倒臭そうに答える。
「あったり前じゃん、日本人だしー」
 今度は前方の助手席に座ってた貴子が後ろを向いて驚きの声を上げる。
「あなた、日本人なの?
 よかった、なら話は早いわ」
 すると少女が言った。
「サクラ大戦の姉ちゃん、アイス食いたくね?」 
「サクラタイセン?」
「いやそっちはいいから、アイスおごって」
「ああ、そういう意味ね。
 うら若い女の子が食いたいなんて言ってはだめですよ」
「ちぇっ、しけてっしー」
「でお家はどこなの?」
「埼玉」
「それはそれは、えらい辺鄙なところから来たのね」
「ひどっ」
「いったん私の屋敷に帰って休みましょう」
「私は帝国大学の天野といい、物理学の助教授です」
 天野辰彦が手を差し出すと少女はつまらなそうに答えた。
「そっ?ミユだよ、よろ」
「ああ、埼玉の方言だね、よろ」
「違うって、まじうぜーし」

 4

 漆原宮家の洋風屋敷に入ると、少女は「まじスゲー」という単語を連発した。
 内階段の手すりの飾り彫刻をなぞって「まじスゲー」、執事の礼服を引っ張って「まじスゲー」、暖炉の中に頭を入れて「まじスゲー」、黄金のスプーンを舐めて「まじスゲー」と感嘆するのだ。
 当主の成親がまだ帰宅してないのは幸いだった。
 天野辰彦がリィビングの皮張りソフアに落ち着くと、少女は貴子と侍女に捕まえられて、風呂の方へ連れて行かれた。

 それから四十分ほどして、少女が貴子と同じ女学生の姿になって再び現れた。
「素敵よ、ミユちゃん」
「ええ、ほんとに」「お似合いですわ」
 貴子と侍女たちに口々に褒められた少女は、天野教授に見られまいと顔を隠す。
「まじ恥ずいよ、だめえー。
 オヤジ、見るなって、超恥ずいって」
 貴子がその手を押さえつけると、天野辰彦は心底びっくりした。
 真っ黒な顔の色は洗い落とされたらしく、少女の顔は実は色白で、どこから見ても可愛らしかったからだ。
 天野辰彦がやれやれと思いながら言ってやる。
「大丈夫、ミユさんはどこから見ても可愛い女学生です」
「え、まじ?
 やっぱ、このコス、かわゆす?」
 とたんに少女は、天野教授に駆け寄り、桃色の短冊を渡して言う。
「ちょっと写メ撮ってよ?」
「シャメトッテよ?」
「だから、こうして、ほら画面出たっしょ、真ん中のでかいの押すとシャッターだから、よろ」
 天野辰彦はその薄い短冊型写真機の精密ぶりに痺れた。
 短冊の表面に画面があり、そこに映っている写真が撮影できるらしい。
 もちろん、帝国、いや世界広しといえども、当世、これほどの器械技術は見当たらない。

「こ、これは一体?」
「携帯だよ」
「けいたい?」
「うん、これは携帯する電話だよ、ここに電話はあんの?」
 天野辰彦はますます衝撃を受けた。
「電話はあるが。こんな小さいもので、写真も撮影できて、電話もできるとは、素晴らしい複合思想だ」
「ま、私もさすがに気付いてるけどー、あんたら、つーか、ここはサクラ大戦の時代なんだろ?で、今、何年なわけ?」
「今は大正12年ですよ」
 貴子が答えると、ミユは聞き返す。
「西暦で言ってくんない?」
「1923年です」
「私って、1991年生まれなわけー、これっておかしくない?」
「おお、つまり生体電磁伝送装置が実用化されたんですな?」
「そんなん知らないけどー」
「ミユさんは未来から来たんですね」
「そういうことー。
 かっこつけると、タイムスリップ?
 でもー、携帯は圏外だしー、ネットはないからジョン・タイターみたいに落書きしてけないしー、もう飽きてきてんだよね。
 おやじ、物理専門なら私を2008年に戻してよ」
「どうやって来たんですか?」
「わかんないけどー、駅のホームでふらふらして、気が付いたら、渋谷のちょっと先の丘みたいなとこに倒れてて、チンピラに連れ去られそうになったけどー、ガングロが気に入らなかったみたいでー、見世物小屋に売られたってわけー」
「では、生体電磁伝送装置ではないんですね?」
「さっきと同じ質問だしー。
 オヤジ、もしかして、ばかぁ?」

 天野辰彦は顔面蒼白になった。
「天野様、娘に馬鹿と言われたぐらいで、黙り込まないで下さいな」
 貴子は笑い飛ばそうとしたが、天野辰彦は真剣に言った。
「これは天下の一大事です」
「たしかに一大事ですが、私たちにはどうしようも……」
「いえ、つまりですよ、この少女は自然現象として、未来から落ちて来たわけです。
 私の仮説から説明すると、宇宙の磁場に通常想定及ばざる、過大な歪みが生じて、この少女はその歪みに吸い込まれて、この時代に現れたのです」
「難しいお話は理解できませんわ」
「簡単に言えば、時間にほころびが出来て、ほころびから落ちてきたのです」
「ですから、何が一大事なのです」
「つまり、今、宇宙磁場に想像を絶する大きな歪みが生じているのです。
 その影響のひとつがミユ嬢の落下してきた時間のほころびですが、この歪みがまだ続いているかもしれない。
 私の直観ですが、時間の次は、空間にほころびが生じる可能性があります」
「するとどうなるのです?」
「地震、それも想定及ばざる壊滅的な地震です。
 至急、成親殿下に連絡を取らなければ。それから警視庁の叔父上にも」


 天野辰彦は成親の書斎の壁に設けられている電話機の送話管に大声を上げた。
《ですから、今にも大地震が起きるやもしれぬのです》
 すると耳に押し当てている受話管から、雑音と共に漆原宮成親の笑い声がする。
《天野君、そう大きな声でなくても聞こえるよ。
 地震が起きるというのは君の仮説だろう。
 まだ、そうと決まったわけではない》
《一刻の猶予もありません。
 起きてからでは遅いのです。
 直ちに東京府、並びに近隣一帯に警報を発令通達すべきです》
《まあ落ち着きたまえ。
 帝都に発令するには君の推論の証明が必要だとは思わんかね?》
《ですが、殿下》
《わかったわかった。
 公務は切り上げ早めに帰って天野君の説を聞こうじゃないか》
《しかし……》
 成親はさっさと電話の回線を切断してしまった。
 警視庁の幹部だという貴子の叔父に至っては、会ったこともないのだから、さらに対応は冷たく、デマを通報する不貞の輩と断定されたのだった。

 
 晩餐のテーブルで天野辰彦は成親を説得しようと試みた。
「どうか警報発令を真剣に実行してください。
 この一分後にも大地震が襲い来るやもしれぬのです。
 そうなったらどれだけの人的、物的被害となるか、」
「天野君の説はおおよそ合点したがね、
 公に警報発令ともなれば、少なくとも君以外の帝国大学の専門家や気象台の学者も納得しなければいかんのだよ。
 君に彼らを説得するに足る証拠があるのかね?」
 そう言われると天野辰彦は困った。
 これは宇宙の磁場構造の確信と類似発生に対する直感によるものだ。
 時間が破綻して子供が一瞬にして老人となる確率はとんでもなく低いがゼロではない。
 しかし、今、それがなったとすれば、今度は空間が破綻して老人が宇宙へはじき飛ばされても驚けない。
 天野の直感はそういうことだ。
「どうしても警報は無理とあらば、殿下、せめてご一家だけでも、今すぐこの屋敷から避難して、倒壊しても怪我の少ない小さな家屋、そうだ、殿下の父上のおられる葉山のお屋敷か、庭の奥の竹林に離れがあるではないですか、あちらにお移り下さい」
「何もそこまで心配しなくてもいいのだよ。
 この屋敷はエギリスの高名な建築家ステェワート氏の手による頑強な設計だからね。
 ここにいる方が、紙と粘土のような和式建築より格段に安全に違いないのだ」
「しかし、日本は地震国です。
 地震の少ない英国の建築家が地震の対策を存分に設計に採り入れてるとは思えません。
 いざとなれば、このレンガ造りの屋根、天井が落ちて、皆、大怪我するというのが物理をする者ならすぐ気付く簡単な予測です」
 天野辰彦が食い下がると、成親の長男の伸親が笑った。
「それは、物理先生の杞憂の取り越し苦労だよ」
 さらに次男の忠親も追い討ちをかける。
「そんなに心配なら、天野先生は今晩は巣鴨の下宿に戻って、布団でも被っていればよいではないか」
「……私一人助かってどうだと言うのです」
 天野辰彦がちらりと貴子に視線を泳がせたのを、成親の妻徳子は見逃さず、ひと息おいて言った。
「私には難しい話はとんとわかりませんが、伸親も、忠親も、天野先生をそんなにいじめなくてもよいではありませんか。
 天野先生は私たちの安全を考えてくださってるのですからね」
 母親の徳子に叱られると、伸親と忠親は神妙にうなづいた。
「言葉がすぎました」
「天野先生、どうぞ今宵も当家に逗留してください」
「ありがとうございます」
「では、この辺でお開きにしますよ。
 天野君、君の説を却下したのではないですぞ、うまい説明を考えてみて下さい」
「殿下、ありがとうございます」

 天野は成親がダイニングを出るのを見送ると、貴子を呼び止めた。
「貴子お嬢様、お話があるのです」
「はい、なんでしょう?」
「あのミユ嬢は、どちらですか」
「ええ、客用の部屋で侍女が食事を給仕してますが何か?」
「いろいろ聞いてみたいことがあるのです、ご一緒してください」
「わかりました」
 廊下に出て二人きりになったとろで、天野辰彦はそっと貴子に謝った。
「あの、見世物小屋ではすみませんでした」
「なんのことですの?」
 貴子は澄まして聞き返す。
「お嬢様の口を塞いで、その、勝手にお嬢様の唇に触れました」
 貴子が急に頬を染めた。謝られたことで腹立ちは全て好意に変わった。
「しかし、あれは単なる事故です」
 その言葉に、貴子の好意はまた腹立ちに貶められた。
 しかし、天野辰彦はこの時、決心していた。
「しかし、触れたい気持ちは前からありました。
 つまり、私はお嬢様を好いているのです。
 身分が違うのはわかっています。しかし、地動説のように私の気持ちは半永遠的に、変わることがないのです」
 その瞬間、貴子の腹立ちは、好意を通り越して、恋となった。
「辰彦様、嬉しいですわ」
「本当ですか」 
 天野辰彦は思わず貴子の肩を抱き寄せていた。

 5

 翌る9月1日。朝は何事もなく迎えられた。

 天野辰彦は成親に今一度地震への警報発令を訴えたが、成親は再度、大向こうを説得する見通しを立てることを求めた。
 やがて成親と息子の伸親、忠親はそれぞれ都心へ向け出勤し、屋敷には母徳子と、学校が夏休みの貴子と天野、そしてミユと、使用人たちが残った。

 朝食の片付けが終わったところで天野辰彦は徳子に提案した。
「お昼ですが、庭奥の竹林にたたずむ離れで摂ってはいかがですか?」
 天野が地震に神経質になって少しでも屋敷から避難したがっていることはわかっていた。 徳子は天野の気持ちを楽にしてやろうと賛成した。
「そうね、あすこは池を見通せるので、時々、涼しい風が吹くのです。
 よいかもしれませぬ」
 昼飯は竹林の離れでと決まった。
 
「天野様、聞きましたか?」
 今日は外出せぬと決めたのか、淡い竹色のドレスを着た貴子がリィビングのソフアの天野辰彦に微笑んだ。
「何をです?」
「せっかく竹林の離れでいただくならと、板長が野趣あふれる流し素麺を作ってくれるのだそうです」
「そうですか、今日も蒸し暑いし、それは思いがけない楽しみですね」
「地震はどうなのです?」
 貴子が聞くと、天野は逆に質問した。
「お嬢様は科学者には何が一番大切だと思われますか?」
「いきなり、難問ですのね、
 そうですわね、やはり理性でしょうか?」
「なるほど。
 私は想像的直感だと思うのです」
「まあ、意外です」
「ええ、理論を組み立てる理性に新発見などないのです。
 理論を思いつく直感こそが、実は科学の真髄なのですよ。
 総理の急死はまあ置いておくとして、あのミユ嬢が時間のほころびから落ちてきたのが1週間前です。私は空間がほころぶのだとしたら、時間のほころんだ時から素数であり、聖なる数でもある7の間隔となった今日が最も危険なように感じるのです」
 天野辰彦は愛するひとに己の直感を打ち明けた。
 貴子は困ったような目で言った。
「そんなふうに言われると怖くなってきます」
「あ、すみません。
 それより流し素麺を楽しみにしましょう」
「少し早いですが、先に離れに行ってますか?」
「ええ、行きましょう」 
 天野と貴子は連れ立って竹林の離れに向かった。


 池に向かう座敷の卓の上に割り竹の水路がいよいよわたされ、板場の若い衆が盥から水を落として勾配を調節している。
 
「そろそろ正午ですか?」
 貴子の問いに、天野辰彦は懐中時計を取り出して眺めた。
 午前11時58分。
「あと2分ほどで正午になりますよ。さあ、流し素麺だ」
「ふふ、天野様、子供みたい」
 貴子が笑った時だった。
 突然に、畳がまるで嵐の中の舟のようにぐにゃりと持ち上がって、素麺を通す筈の割り竹の水路から水が撥ね出した。
「きゃー」「きゃああ」「でかいぞ」
「奥様を外へお連れしろ」「きゃー」
「お嬢様、先生も庭へ」
 みんなの悲鳴やら怒号やらが飛び交った。
 その最中も激しい揺れは衰えることがなく、畳は上がったり下がったりする。
 天野と貴子はしっかり手を握り合って庭に降り立った。

 洋風屋敷を見やると、屋根が振動しながら崩れ、二階広間の天井と床がぺしゃんこになって落ちて、下の食堂を一気に潰すのが見えた。
 もし、いつものように屋敷の食堂にいたならば……。
 腕といわず背筋といわずゾーッと鳥肌が立った。

 ようやく揺れが収まってきた。
「天野様」
 涙目の徳子は恐怖のあまり、呼ぶだけで精一杯、両手を天野を拝むように揃えて震えていた。
「おい、全員無事か確かめるんだ」
 板長の声に、板場の若い衆が顔を見合わせ、執事は侍女たちを数えた。
「あ、ミユ嬢はどこ?」
 貴子の声に侍女が答える。
「先ほど、離れにお誘いしましたら、ちょっと遅れると、ど、どうしましょう」
 天野は屋敷に向かって走り出していた。

 
 結

 電車からホームに降りると、柴崎智美が白い手袋をした手を振ったのですぐにわかった。
「教授、すみません、お呼びたてして」
「いえ、講義も終わって、古い日記を読んでいたんですよ。
 それで、少女の意識が見つかったのはここですか?」
 智美はホームのコンクリートを指差した。
「ええ、まさにここなんです、自殺の衝動です」
「そうですか、残念でした」
「それが少し違うんです、教授」
「と言うと?」
「飛び込む寸前までの意識はあるんですが、そこですっと意識が消えているんです」
「意識を失ったのではないのですか?」
「いえ、今までも自殺者の意識はたくさん触れてしまったことがあります。
 けれど、すべて、ものすごく嫌な、重苦しい、吐き気に包まれるような衝突の瞬間の感覚だけは、必ず残っているものなんです。
 それがない。まるで……」
「まるで?」
「いえ、うまく表現できません」
「少女の名前はミユではないですか?」
 天野教授が言うと智美はびっくりした。
「教授、どうしてご存知なんです?」
「いえ、ちょっとした直感です。
 実はさっき読んでいたと言った日記は、物理学教授だった祖父辰彦のものだったのです。
 丁度、大正12年の関東大震災の前日におかしな記述がありました」

 貴子嬢、見世物小屋にて南方の異邦の少女ミユを哀れと覚え買い取る。
 顔黒く塗りたるが、洗いたればもとは色白なり。
 桃色の短冊持て、写真と電話すなる。未来の1991年生まれの人なり。
 宇宙の磁場に通常想定及ばざる、過大な歪みが生じ、時間のほころびより来たると直感す。

「そこへ、柴崎君から電話がかかってきた」
「あ、なるほど、シンクロニシティですか?」
 既に霊的な場数を踏んでいる智美は、急に超常現象にあっても天野教授同様、平静に受け止める癖がついている。
「そう思って名前を言ってみたのですが」
「たしかにミユさんです、実り、優しいという漢字の実優です。
 失恋やいじめの意識と仲間への思いが残ってました」
「彼女はどこへ消えたのか……」
 天野教授はつぶやいた。
「その日記からして、過去に行ってしまったのではないんですか?」
「それがですね、翌日、関東大震災で崩れた屋敷の下敷きになった筈なんですが、いくら探しても遺体は見つからなかったそうです」

 その時、向かいのホームの二人連れのサラリーマンがちょうど天野教授たちの立っているホームの下を指差して、非常ボタンを押し、騒ぎ出した。
 駅員二人が天野教授のそばまで駆けてきて、ホームからハシゴをおろして、線路に降りた。
 やがて駅員におんぶされた少女が他の駅員によりホームに引き上げられるとホームの両側から拍手が起きた。
 どうやらこのホームから身を投げようとした少女実優は、大正時代にタイムスリップし、関東大震災に遭って、再び現代のホーム下に戻ってきたらしい。
 少女実優は色白の顔を手で隠しながら担架で運ばれて行った。

「よかったですね」
 智美が言うと、天野教授はうなづいた。
「あの格好はロマンを感じますね」
 少女実優は、今では宝塚と卒業式ぐらいでしか見かけない、着物に袴、足袋に草履という大正女学生のいでたちだった。                       了


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gingak
  • Author: gingak
  • 銀河 径一郎
    (ケイイチロー・ギンガ)
    好きな言葉は『信じる』。
    飛べなくても頭が悪くても
    地球人も宇宙人だ(笑)

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